約束の花言葉

桜糀いろは

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第4話 - 4

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「次はコーヒー淹れよっと」
 部屋の掃除を終え、廊下へと出るなり、陽夏の足が止まった。
「……ん? ピアノの音?」
 軽やかで上品な旋律。どうやら誰かが実際に弾いているようだ。
(紀愛さん、かな?)
 今まで誰からもピアノの話を聞いたことはなかったが、一番イメージに合いそうな人物といえば彼女だった。
(すごいなぁ、紀愛さん。ピアノまで弾けちゃうなんて)
 流れてくる音を頼りに、陽夏は足を運んでいった。
(あ! あそこの部屋、ドアが開いてる)
 扉を閉め忘れるとは、いかにも紀愛らしい。はやる気持ちを抑えきれず、部屋に駆け寄っていく。
「え――」
(あ、秋さん?!)
 室内を覗いた途端、陽夏は両手で口を塞いだ。
(……て、何でまた、そんな格好なの)
 広々とした空間の中にある立派なグランドピアノ。その前にいたのは、なんと上半身裸の秋だった。
(しかも、裸足でピアノのペダル踏んでるし……)
 身につけているのはスウェットパンツのみ。という彼の姿を目にしたのは、今回で二回目だ。それなのに、初めて見た時のようなドキドキは一切なかった。彼は普段、ジップアップパーカーを羽織ってはいるのだが、前を締めないのだ。きっとその所為で、耐性が出来てしまったのだろう。
(こうしてドアも開けっぱなしにしちゃうくらいだし、何かに気を取られて忘れちゃうのかもね。……にしても)
 引き締まった体躯と整った容貌のおかげか、上半身が裸でも、ピアノを弾く彼は絵になっていた。
「すごい……」
 秋が紡ぎだしてくる美しいピアノの音色に思わず感嘆の声を漏らす。と、突然、伴奏が消えた。
(いっけない。そろそろ行ったほうがいいかも)
 見つかったら、ただではすまないかもしれない。そう思って移動しようとした矢先、秋が演奏を止め、椅子から立ち上がった。
(ま、まずい――)
 慌てて足を引いたその瞬間、コツっと靴音が鳴った。けれど、秋の目がピアノから離れることはなかった。
(良かった……。今度こそ)
 同じ失敗をしないよう、そーっと踵を返し、ゆっくり一歩を踏み出す。
「おい」
「…………」
 見つかってしまった。心の中でそう呟き、静かに首を回した。
(この顔は、やばいかも)
 前足に力を入れ、陽夏は口を開けた。
「邪魔してすみません。すぐ消えますから、安心してください。では、さようなら、秋さん!」
「待て」
 駆け出すと同時に秋が呼び止めてくる。陽夏は反射的に立ち止まってしまった。
(ぐ……これじゃ聞こえなかったことに出来ない)
 逃げることを諦め、秋と向かい合う。
(ええ……まさかの、お咎めですか)
 秋が眉間の皺を深めて目を細めてきた。理不尽だ。扉を開けておきながら見るなという方がおかしくないだろうか。陽夏も負けじと秋の目を見つめ返す。
「おまえ……今、暇か? この時間、葵兄は外出してるよな」
「え? あ……はい」
 予想外の質問に戸惑いつつも陽夏は素直に頷いた。
「クッソー、締切りが近いんだよ。仕方ないだろ……」
「締切り?」
 視線をずらし、ブツブツ言う秋の言葉を拾った途端、また鋭い視線を突きつけられる。
(秋さん、いったい何がしたいんだろう……。もしかして、言いづらいことなのかな?)
 ひとまず警戒心を緩めてみる。すると秋は、決まり悪そうに顔を背け、言葉を発してきたのだった。
「おまえさ……片思い、したことあるか?」
「へ? 片思い?」
 秋がキッと睨んでくる。しかし、今までとは違い、彼の顔はほんの少し赤かった。
(え……片思いしたことないの?)
 マジマジと彼の顔を眺める。と、いきなり腕を掴まれた。
「っ、来い」
「え、ちょっと、秋さん!」
 陽夏を室内に引き入れ、秋は部屋の扉をバタンと閉めた。そして、そのままグランドピアノのところへと行き、用意した椅子に彼女を座らせる。
「いいか、細かいことは聞くなよ」
 ピアノの椅子に腰を下ろすなり、秋は横目を向けて告げた。
「ええっ! 勝手に連れてきておいて――」
「守秘義務があんだよっ。……あと、それとは別に、今日のことは絶対誰にも言うなよ。分かったな」
 言葉を遮っただけでなく、険しい顔で迫ってくるとは。秋の行動に呆れながらも、陽夏は「わかりました」と答えて、姿勢を正した。すると秋は、ピアノの方に視線を移し、それからおもむろに説明を始めたのだった。
「今、仕事で曲を作ってる。その締切りが明日で、ほぼ出来てはいる。が、一曲だけ、気になるものがあって……だな。その曲は……、その……片思いをしてる女が相手を思うシーンで使われるもので……」
「はい」
「お、おおまかなメロディラインは、それっぽい場面で流れた曲を参考にして、すぐに作れたんだ。けど、何か足りないんだよ。多分、それは……、で……。あー、片思いの女の気持ちなんて分かるわけねぇだろっ。いいか、俺が今から曲を弾く。おまえは感じたことを言え」
 恥ずかしさを隠すためか、秋が話の最後に睨みつけてくる。それに対し陽夏は、いつもと変わらない調子で「はい」とだけ返事をしたのだった。その直後、秋の表情から鋭さが抜けていく。彼はピアノへと向き直ると、すぐさま指を動かした。
(ぅわー、すごい……って、こら。曲の方に集中しないと)
 彼の見事な手さばきに、うっかり見入ってしまう。陽夏は急いで目を閉じ、音に意識を向けた。
(なんだか、寂しい感じ……)
 真っ暗な視界の中、脳裏に浮かんだのはただそれだけだった。
「……どうだ?」
 曲が終わったにも関わらず、目を開けない陽夏に秋が声を掛ける。
 それでも陽夏は目を閉じたまま、少しだけ呻いた後、口だけを開いたのだった。
「もう一回、お願いします」
「……分かった」
 いつになく落ち着いた声だった。
 さっき演奏した曲を、秋がまったく同じように弾いてくる。
 今度は情景をイメージしつつ耳を傾けてみた。しかし最後まで気持ちが昂ぶるようなことはなかった。
 演奏の余韻が引くのと同時に目を開ける。
 真剣な面持ちをした秋と目が合った。
 陽夏は依頼された通り、感じたことを口にした。
「秋さんて、恋自体したことないんですか?」
「……それ、関係あんのかよ」
 秋の眉根が寄る。けれど、いつものように感情を剥き出しにしてくることはなかった。そんな彼の様子を受け、陽夏は会話を続けた。
「関係あると思います。あるとないとで、すごく違うと思うんです」
 秋は何も言わず、こっちの目を見据えてくる。
「もしかして、秋さん……」
「……なんだよ」
 秋の声を聞いて、陽夏は逡巡した。
(でも……このままだと、先に進めないし)
 イチかバチか。嫌われる覚悟で言葉を口にする。
「彼女さんはいないんですか? もしくは、過去にでも」
「……今いたら、おまえに頼まねぇだろ」
 噛みつきたい衝動を必死に堪えているかのような顔と声音で秋が言い返してくる。しかし、すぐに彼はふっと息を吐くと、目を逸らして言葉を継いだのだった。
「過去には、いたこともなくはない。……つーか、何でこんな話になってんだよ」
「うーん。音楽って、想いがないと感動させることが難しいような気がして……。それで、近い経験でもあればなって思って……」
 秋の顔が鍵盤の方へと向く。さすがに言い過ぎてしまっただろうか。感情が読めなくなった彼の横顔を見ながら陽夏は口を動かした。
「でも、どうにかしないと、なんですよね?」
 秋が視線だけを寄越してくる。とりあえず拒絶はされていないようだ。そう解釈して、陽夏は頭をひねった。
「そうですね……さっきの曲に『待ち焦がれている時の苦しさ』みたいな表現を追加するのはどうですか?」
「……どんなだよ」
「えっと、例えば……小さい頃に、親が迎えに来るのを待っていた経験ってないですか? もっと言うと、友達が嬉しそうに親と手をつないで帰っていく中、自分だけが取り残されて……みたいな。自分も早く会いたい。いつになったら会えるのかな。そうやっていくら相手のことを想ってみても、一向にあの人は――」
 言葉が喉に詰まる。これで終わりだと言う代わりに、陽夏は視線を送った。
 すると、それが伝わったのか、秋が鍵盤に目を戻す。
 けれどその後、彼は一点を見つめたまま微動もしなかった。
 沈黙が流れていく。
 そう感じることが出来るくらいに陽夏の気持ちがおさまってきた頃、ようやく秋が鍵盤の上に手を乗せた。
 そして、壊れ物でも扱うかのような柔らかな手つきで、彼はピアノを弾き始めた。
 先程、耳にしたメロディが、頭の中へと入ってくる。
 ふと胸が締めつけられるような感覚を覚えた。さっきはなかった高いキーの旋律が、感情を波立たせてきているのだ。
 陽夏はそっと瞼を閉じ、孤独なその旋律をひたすら追いかけていった。
「……おい。何で泣いてんだよ」
 秋の声が聞こえた瞬間、パッと瞼を開ける。気づくと演奏は終わっており、ピアノの残響すら残っていなかった。陽夏は慌てて目元を拭い、秋の肩をバシバシと叩いたのだった。
「秋さん、すごいです! すごく良かったです! 感動しちゃいました!」
「痛っ! おい、肩外れたらどうすんだよ、このバカっ」
 いつもに増して秋の言葉は酷かったが、彼の口元には笑みが浮かんでいた。
「正式にリリースされたら音源くださいね! あ、またピアノで弾いてもらおっかな。うん、そうしよっと」
「誰も礼をするとは、言ってないけどな」
 秋が鼻で笑ってくる。しかし、まんざらでもなさそうだった。陽夏が目を細めて笑むと、秋はさっと視線を横に動かし、ぽつりと言葉を漏らした。
「……助かった。ありがとな」
「あ、もう一回お願いします」
「今度はノーリピートだ!」
 秋がふたたび睨んでくる。それから追い払うような仕草を見せ、彼はいつもの口を利いてきた。
「用件は終わりだ。さっさと行けよ」
「はーい。とても楽しかったです。また何かあれば、遠慮なく言ってくださいね」
 満面に笑みをたたえてそう答えた後、陽夏はすっと席を立ち、晴れやかな気分で部屋の扉を開けたのだった。
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