甘いSpice

恵蓮

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夜のオフィスに迸る想い

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仮病を使った私の自業自得だけど、午後からの半日勤務は、いつもの仕事のペースが狂い、なかなかリズムに乗り切れない。
郡司さんがサブアシスタントに託していった業務は引き継いだものの、終業時間を過ぎても終わらせることができず、病気半休を取っておきながら、私は残業する羽目になった。


午後八時を過ぎると、同僚のアシスタントたちが全員退社した。
午後九時を過ぎると、総合職の社員たちも仕事を終えてオフィスから出ていった。
企画広報部のフロアに、最後に私一人がポツンと取り残されたのは、壁時計の短針が『10』の数字を指し示す頃だった。
『若槻さん、大丈夫?』と気遣ってくれた上司を笑顔で見送った後、私は椅子に背を仰け反らせて深い息を吐いた。


こんな時間まで残るの、久しぶりだな。
ぼんやりとそう思いながら、シンと静まり返って少し不気味なオフィスを見渡す。
遠い島にある別部署も、すでに誰もいない。
このだだっ広いフロアで電気が点っているのは、私のデスクがある島の上だけ。
私の周りだけが暗闇にぽっかりと浮かび上がっているようで、妙な不安が過ぎって落ち着かない。


仕事は明日に残っちゃうけど、私もそろそろ切り上げようか……。
弱気になって一度仕事の手を止め、私はパソコンモニターにメール画面を開いた。
最後に確認したのは、一時間前。
とは言え、こんな時間に業務メールの新着はなく、私はぼんやりとデスクに頬杖をついた。


――郡司さんからも、返信は来ないな。
もしかしたら、メールを確認する時間もなかったのかもしれない。
もともと直帰の予定だし、もう今頃家で寛いでるんだろうな……。
未読メールのない受信ボックスを見つめながら、私は頬杖を解き、デスクに両腕を乗せて突っ伏した。


思考が郡司さんのメールから離れると、昼間届いたのを確認したっきりの、忍からのLINEが脳裏を過ぎる。
まだアプリを開いていないから、既読表示もされていない。
今夜来るのは諦めてくれただろうか。
それでも、わざわざシフトを交替したくらいだし、もしかして、と考える。
こうなったら、今夜は部屋には戻らない方がいいかもしれない。
それにしても……。


「一日にして、立場逆転……か」


私はつい皮肉な独り言を漏らし、自嘲した。
昨夜も……。
最後に言っていた通り、お互い頭を冷やして冷静になるのを待っていたかのように、忍は東京に戻った私に、電話やメール、LINE……あらゆる通信手段を使って連絡をくれた。


『声が聞きたい』と言って私があんなに電話した時も、LINEの一文だけの返信で済ませていた彼が。
あの時、電話をくれない忍に不満だった私が、今はLINEすら無視している。
忍がいない日常に戻って、私は今までのことを客観的に振り返ることができるようになっていた。
『さよなら』と言ったことだし、私にとって忍との関係はすでに終わったからかもしれない。


現実問題、別人のように『必死』な連絡の仕方を見ても、忍が別れを受け入れていないのはよくわかる。
私に話せば、それで忍も納得するだろうか。
私が聞けば、満足するだろうか。


それならば、LINEに返事をするべきかもしれない。
忍が来るのを迎えるために、大人しく部屋に帰るべきか。
でも、今夜会ったところで、私が聞かされるのはただの言い訳だ。
聞きたくないし、聞いたところで私の気持ちも変わらない。
つい昨日まで『恋人』だった忍と、たった一日で、会いたくないと思うようになるなんて。


私はゆっくり身体を起こし、パソコンモニターの向こうの郡司さんのデスクに目を向けた。
今日一日、そこに座る彼を見ることはなかった。
これまでだって、一度も顔を見ない日などいくらでもあったのに、なんだかとても寂しくて切なくなる。
忍とは話したくないけど、郡司さんには『話したい』とメールした自分に戸惑い、私は両手で顔を覆った。


「……はああ……」


なんだろう。今、すごく顔が見たい――。
郡司さんの姿を脳裏に描いて、胸を焦がす自分に戸惑う。
胸がドキドキと打ち鳴り始めて、無意識に胸元をギュッと掴んだ。
忍がまだ連絡してくる状況だし、心の靄が綺麗さっぱり払拭したとも言い切れない。
だと言うのに……。


――郡司さんの家を訪ねて行ったら、会えるだろうか。
忍が来ているかもしれないと思うと、逃げるように考えてしまう自分がいる。


「~~ダメっ、しっかりしろ、私っ!」


オフィスで一人きりなのをいいことに、ほとんど絶叫するように自分に向けて言い放った。
その時……。


「あれ」


誰もいないはずのオフィスに、驚いたような低い声が聞こえた。
それほど大きな声ではなかったのに、人の声がするはずがないと思っていた私は、ビクッと肩を震わせる。


「お前、こんな時間まで残ってたのか」

「っ、えっ……」


慌てて声の方向に顔を向けると、私の心臓がドクンと激しく跳ね上がった。
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