甘いSpice

恵蓮

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夜のオフィスに迸る想い

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午後の半日勤務開始時間三十分前にオフィスに着き、私はまず課長に挨拶に行った。
体調を心配して『無理しないで』とかけられた言葉に、胸がちくちくするのを感じながらも、私はお礼を言ってデスクに戻った。
ちょうどお昼休みの入れ替え時で、周りのデスクの同僚たちの多くが出払っている。
向かい側の郡司さんも離席している。
彼が席に戻ってくるのを待ってソワソワしながら、私はパソコンを起動させた。


「あ」


ところが、スケジュールを開いて、思わず独り言を零してしまう。
そうだった。忘れていた。
今日、郡司さんは午前中から仙台に日帰り出張だ。
私に同行の予定がなかったから、すっかり失念していた。
今日、郡司さんは営業部と商品開発部の担当者と、うちの研究施設を訪問しているのだ。
彼が企画に詰まっていた来年春夏のリップスティック。
その研究・製造過程の視察が目的だ。


「なんだ……そっか」


仮病で午前休暇をもらったこと、どう言って謝ろう、と緊張していたから、逆に今日一日会えないことに拍子抜けしてしまった。
ホッとしたような、がっかりしたような……。
私は曖昧に揺れる自分に気付き、ハッと息をのんでから、ジワジワと焦り出した。


がっかり、って。
いったいどういう意味のがっかりなのよ。
たった半日、出張で郡司さんが不在で顔を合わせないだけだ。
そのくらい、日常茶飯事だというのに、なんで今日はそんな。
地味に心臓が強く打ち鳴るのを感じる。
それに伴って、なんとなく全身が熱を帯び、身体が熱くなるのを自覚した。
思わずパソコンモニターよりも頭を低くして、デスクの上で抱え込む。


昨日忍に会いに行って、そこで見知った事実を、私は郡司さんに伝えようと思っていた。
だって、そうするように背を押してくれたのは、郡司さんだから。
その結果、忍には私と同時に付き合っている女性が大阪にいて、私の直感では半同棲に近い状態にあるということも報告しなければ。
『さよなら』と別れを告げてきたことも……。


あくまでも私のプライベートのことだけど、報告することはなにもおかしくない。
郡司さんは、私にモヤモヤを吹っ飛ばせと言ってくれたんだから。
少なくとも、この結果を知りたいと思ってくれている……はず。


「だ、だから、ちゃんと……」


頭を抱えながらくぐもった独り言を漏らした。
深い意味はないと自分に言い聞かせたつもりだったけど、頬が火照って熱くなる理由を、私はちゃんとわかっている。
私が忍に別れを告げたことを、郡司さんが知ったら。
その時、私は……。
流されかけて踏み止まった先週の夜、郡司さんが言った言葉を、もちろん私は忘れていない。


『その時、改めて俺に抱かれろ』

『いざ!って時は、前後不覚になるまで抱き尽くしてやる』――。

「っ……!!」


自分で脳裏に思い描いてしまったあの夜の郡司さんの言葉のせいで、私の心臓が、まるで底の方からドクンと大きく沸き立つような音を立てた。
そのまま、ドキドキと早鐘みたいに加速していく胸が苦しい。
周りのデスクの同僚たちが、お昼に行っていて私一人だからって。
真昼間のオフィスで、私はなんてことを思い出しているの……!!


消えてなくなりたいくらいの恥ずかしさと居たたまれなさ。
そして、動揺している自分に戸惑いながら、なんとか呼吸を整えようとする。
いつの間にかデスクに片頬をつけていた私を、ちょっと不快な振動が襲った。


「っ!?」


ギョッとして身体を起こすと、デスクの上に出しっ放しにしていたスマホが、LINEを着信した振動音だった。
慌てて手に取り画面を目にして、私はハッと息をのむ。
ついほんの一瞬前までジタバタしたいくらい混乱していたのに、一気に顔が強張るのを感じる。
LINEの着信は、忍からのもの。
アプリを起ち上げて既読表示がされてしまうのを警戒して、私は画面の通知を目で追った。


『明日のシフト、替わってもらえた。今夜から、愛美の部屋に行く。頼むから、話を聞いてくれ』


そのメッセージを見た途端、心臓がさっきとは全然違う、嫌な拍動をするのを感じた。
ゴクッと喉を鳴らして、私は胸元を固く握りしめる。


今までは、私に会いに来る予定を組むのも、後回しだったのに。
『さよなら』ってことになったら、シフトを替わってもらって会いに来るなんて、そんなこともできるんだ。
土壇場で見せられた忍の誠意に、私は皮肉な思いに駆られた。
LINEアプリを起ち上げずに正解だった。
このままメッセージが既読にならなければ、『来ないで』と返事をしなくても、諦めてくれるだろう。


私がスマホをデスクに伏せて置いた時、オフィスの出入口の方からガヤガヤと賑やかな声が聞こえてきた。
ハッと顔を上げると、周りのデスクの同僚が連れ立って戻ってきたところだった。
彼らも私に気付き、「あ」と口を開く。


「若槻さん。大丈夫なの~?」


間延びした声で訊ねられ、私は反射的に椅子から立ち上がった。
スマホをデスクに押しつけ、深く頭を下げる。


「突然の病欠、すみませんでした」


そう言って謝ると、みんな軽い調子で「いい、いい」と答えてくれる。
特に困ったことはなかった様子にホッと胸を撫で下ろしながら、私もみんなと同じタイミングで再び腰を下ろした。
そこに、「若槻さん」と、私の右隣のデスクの男性の先輩が呼びかけてくる。


「はい」


スマホを引き出しにしまい込んで返事をすると、彼が椅子ごと少し近付いてきて、声を潜めてこそっと言った。


「郡司さん。『大丈夫かな』って心配してたから、メールくらい入れておいてあげれば?」

「っ、え?」


周りを憚るようにそう言われて、私はギクッとしながら彼を探って視線を向けた。
けれど、先輩の方には、特段意味のあることを言ったつもりはなかったらしい。


「留守中に済ませてほしい仕事も、サブに振っていったから、できるようなら引き受けてやって。その報告も兼ねて、『ご心配おかけしました』って言っておけば、郡司さんも安心だろうから」

「あ……そ、そうですね。はい。メール入れておきます」


先輩にはそう返事をしたものの、浮かべた笑顔はちょっとぎこちなくなっていたのを、自覚していた。
椅子ごと自分のデスクの前に戻る先輩を横目で気にして、私は小さくホッと息をついた。


そうよね。『心配』。
私は郡司さんのメインアシスタントだもの。
彼が私をどういう意味で心配しようが、周りの同僚たちには広報マンとそのアシスタントの域を超えたものになるはずがない。
私は大きく胸を上下させて深呼吸をして、先輩の提言通り、新規メールのウィンドウを開いた。
出張中でも、社内LANに接続できるノートパソコンを持参しているはずだ。
郡司さんも、出先でちょっとメールを確認する時間くらいはあると思う。


私は先輩に言われた通り、残していった仕事は自分が引き継ぐ旨を一文にした。
そして最後に、『ご心配おかけしました。体調は大丈夫です』と入力して、送信前に確認してマウスをクリックするのを躊躇する。
文面をもう一度目で追って、私は意を決して最後の文を書き換えた。


『ご心配おかけしました。出張からお戻り次第、ゆっくりお話ししたいです』


見直してしまったら恥ずかしくなりそうだったから、私は入力を終えると同時に、勢いに任せてメールを送信した。
送ったメールが送信ボックスに入るのを見て、頭を抱え込みたい気分になるのを必死に堪え、「はあああ……」とお腹の底から深い溜め息を漏らした。
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