甘いSpice

恵蓮

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疑惑が罪悪感を麻痺させる

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「ま……愛美!?」


上擦った忍の声を聞いて、私は思い切って大きく一歩踏み込んだ。
その勢いに任せて、立ち尽くす忍の前まで進み出る。


「忍、どうしてここに……」


忍の顔をしっかりと見上げながら訊ねた。
ほんの少し視線を横に逸らすと、忍の向こうでショートボブの女性も立ち止まっていた。
大きく見開いた目を私と忍に向け、口元に手を当てている。


「どうして、って……お前こそ」


忍は私がしたのと同じ質問を返して、肩越しに背後を気にした。


「私は、今日ここでプレス発表会があったから」


忍の質問に返事をしながら、私の目は彼の後ろの女性に留まったまま。
私の視線の方向に気付いた忍が、小さな溜め息をついた。


「大阪のホテルの同僚だよ。今日はこっちで研修があって、一緒に来てる」


そう言いながら、彼はしっかりと振り返った。
そして、戸惑った様子で私たちを見ていた彼女に、「悪い」と素っ気なく呟く。


「ちょっと……先に着替えに行ってて」

「あ、う、うん」


忍にそう言われて、彼女は肩を竦めた。


「すみません。失礼します」


彼女は申し訳程度にひょこっと頭を下げて、わかりやすく私から目を逸らし、くるりと背を向けてしまった。


「あ、待って」


私はほとんど無意識に、走って行く背に呼びかけていた。


「愛美」


忍が私の腕を掴んで止める。


「アイツになんの用がある? 関係ないだろ」


まるで私の視界を阻むように、立ちはだかられ、私も思わず口ごもった。
踏み出した足は止めたものの、困惑を隠せずに忍を見上げる。


「なに?」


私の視線を受けて、忍は淡々とした口調でそう訊ねてきた。


「悪いけど、日帰りなんだ。新幹線の時間もあるし、なにもないなら行くけど」


忍は綺麗に整えられた前髪を崩すように掻き上げ、私から目を逸らしてしまう。


「……研修って」


胸に引っかかっていることを素直にぶつけていいものか、自分でも迷いながら、私はポツリと口に出した。
私の腕を掴む忍の手が、ピクッと震える。


「……フロントチーフ研修。さっきの彼女も、俺と同じフロントチームなんだ」


忍が溜め息交じりに答えた。
そして、私の手をそっと離す。


「研修、頻繁なの?」

「え?」

「さっき……あの人、『この間も』って言い方してた。忍も、一ヵ月前って」


疑問を重ねるうちに、私の胸に嫌なざわめきが広がっていく。
忍は「あ~……」と言い淀みながら、つっと視線を横に逃がした。


「月一。日帰りだったり、泊まりだったり。その時のプログラムによってまちまちだけど」


忍はなにか諦めたように、開き直った口調でそう言った。


「月一って……。それじゃあ、毎月東京に来てるってこと?」


なにかが胸にせり上がってくるのを感じ、身体の脇に垂らした手にグッと力を込める。
急き立てられるような気分で訊ねると、忍は黙って何度か頷いた。


「だ、だったら、どうして言ってくれなかったの」


忍の反応に愕然として、私は畳みかけてしまう。
忍は私に煽られるように、ムッと顔をしかめた。


「言ってどうするんだよ」


ちょっと語気を荒くする忍に、今度は私が言葉を詰まらせる。


「毎月来てるって言ったって、研修だ。仕事だよ。約束して会う時間はないし、別にいちいち愛美に伝える必要は……」

「それでも、今みたいに少しでも顔見て話すことだって……」

「五分十分程度だろ。それをわざわざ連絡なんかしない」


お互いに声を遮り合い、最後に吐き捨てるように言った忍に、私の方が先に絶句した。
約束して会う時間はないって。
毎回あの人と一緒に来て、食事して帰ってるくせに。
勢いで口走ってしまいそうになるのを、私はなんとか堪えた。
唇を噛んで俯く私の頭上で、忍が大きな溜め息をつく。
呆れ果てたように聞こえる溜め息が、私の胸に重く暗く圧しかかった。


わかってる。忍の言うことだって、間違ってはいない。
あくまでも仕事の用で来ているんだし、ゆっくりできるかどうかもわからない。
それなのに、わざわざ連絡なんかする必要はない。
でも。


「私、なんにも知らなかった」


会いたくても、すぐに会えない人だから、連絡したいのを我慢した夜もあった。
そんな時に、忍が同じ東京のどこかにいたのかもしれないと思ったら、ただただやるせない思いに駆られる。


「彼女なのに、なんにも……」


やはり忍を詰る言葉しか出てこない。
忍も苛立っているのか、チッと小さな舌打ちが聞こえる。
私が固く唇を噛みしめた、その時。


「若槻さん」


私を呼ぶ低い声が、背後で聞こえた。
反射的にびくんと肩を震わせ、声の主を探してゆっくりと振り返る。
忍も私より先に反応して、同じ方向に顔を向けていた。


「ここには仕事で来てるんだ。会場に戻れ」


頭ごなしに素っ気なく命令してくる郡司さんは、綺麗な顔をまるで能面のようにピクリとも動かさない。
私がごくりと喉を鳴らしたのが聞こえたのか、忍は訝し気に眉を寄せた。


「あなたは……」

「初めまして。郡司と申します。若槻さんの三年上で、広告企画を担当しています」


私の隣に並んだ郡司さんが、先ほどの発表会の時と同様に、忍にもスマートに手を差し伸べた。


「ご丁寧に、どうも。私は神尾と申します。ここの大阪のホテルで、フロントチーフの任に就いています」


郡司さんの丁寧な挨拶を聞いて、忍も板についた営業スマイルで取り繕う。
手を伸ばし、郡司さんの手を握った。
郡司さんはにっこりと笑って握手を返してから、忍の背後に目を遣った。


「お話の途中で申し訳ありませんが、仕事中ですので、若槻さんは連れて行きます。……あなたの連れの女性も、向こうの柱の陰でお待ちのようですよ」

「え」


握手を解いた忍は、郡司さんの言葉に導かれるように背後を振り返った。
私も無意識に同じ方向に視線を向ける。
郡司さんが言った通り、少し遠い柱の陰から、さっきの女性が顔を出していた。
私たちを窺っていた様子で、目が合った途端、彼女は慌てたように身を隠した。


「あ、ああ……ご親切にどうも。じゃあ、すみません。私も急ぎますので、これで」


忍は取り繕うように頭を下げて、私と郡司さんに踵を返した。
彼は急ぎ足で同僚の女性の方に歩いていく。


「あ、忍っ……」

「待て」


郡司さんが私を制するように短く言って、腕をグッと掴み上げた。
ギリッと捻り上げられ、私は思わず顔を歪めた。


「戻るぞ、若槻さん」

「は、はい」


どんどん離れて行く忍を振り返りたくても、それはなんとか自制して返事をした。
郡司さんの言う通り、私はまだ仕事は途中だ。
発表会は終わったわけじゃない。
ほんの少しのつもりが、郡司さんが探しに来てしまうほど、長く会場を離れてしまった自分を戒めた。


「郡司さん、あの……すみません」


強く腕を引かれて、足が縺れそうになりながら、私は一歩先を行く郡司さんを見上げて謝った。
けれど、彼は肩越しに振り返ることもしてくれないまま、ただ無言で先に進むだけ。


「あの……」


一言も返してくれないから、郡司さんが本当に怒っているんだろうと思った。
呼びかけた声は、尻すぼみになり、空気の中に消え入った。


発表会の会場はホテルの二階にある。
郡司さんは私の手を引いたまま、赤い絨毯敷きの大階段に向かっていく。
階段を一段上がりながら、私は一度だけロビーを振り返った。
けれど、人が行き交う広いロビーに、もう忍の姿は見つからない。
私は後ろ髪を引かれる思いで、郡司さんに引き摺られるように階段を上った。
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