甘いSpice

恵蓮

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疑惑が罪悪感を麻痺させる

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プレス発表会当日、私は朝から紺色のツイードのスーツを身に纏って出勤した。
ただの一般職、アシスタントの私は、郡司さんが企画した広告の発表会にも出席したことはない。
今回の出席は草稿立案のお勉強が目的。
つまり、今後のステップアップのためだと考え、私は朝からそわそわしていた。


しかも、会場が忍が勤務していたホテルの宴会場だと知り、私は無駄に緊張感を募らせた。
今、忍がいないのはわかっていても、郡司さんが受付を済ませる横で、ついきょろきょろと辺りに視線を走らせてしまう。
肩に力を込めて頬を紅潮させている私に、郡司さんは訝しげな視線を送ってきた。
けれど、昨日の言い合いの後だ。
ホテルまでのタクシーでも、私はずっと窓の外に目を遣り、『話しかけるなオーラ』を発し続けていた。
郡司さんの方も呆れ果てた様子で、一言も声をかけては来なかった。


とは言え、私も会場を前にして、大きく深呼吸をして気持ちを入れ替えた。
昨日の郡司さんの失礼極まりない言い草は許せないし、彼がどういうつもりなのかわからずイライラも治まらないけれど、これから始まる発表会は私にとって大事な仕事。
郡司さんがそのために計らってくれたことはわかってるし、ちゃんと感謝している。
昨日も彼に言われたけれど、険悪な空気を漂わせるのも単独行動も、もちろんできない。
発表会が終わるまでは、郡司さんに付き従う。
それも今夜私に与えられた使命の一つだ。


私たちが会場に入った時、マスコミ席は八割方埋まっていた。
招待客用の席も用意されているけれど、ほとんどの人がまだ席に着かずに、挨拶がてら立ち話をしている様子だ。
発表会慣れしている郡司さんには、知り合いも多い。
会場に足を踏み入れた途端、たくさんの仕事関係者に声をかけられた。
彼はその一人一人に丁寧に挨拶を返し、私のこともスマートに紹介してくれた。


発表会の開始時間が近付き、私と郡司さんは用意された席に着いた。
いただいた名刺は山積み状態。
正直なところ、もうすでに誰からいただいたものか、顔も名刺も一致しない。
それをちゃんと整理する間もなく、発表会は始まってしまった。
発表者の席に並んだのは、営業・企画部門統括の役員と、私たち企画広報部の部長。
企画を担当したのは他のグループの主任で、広告代理店側の担当者も席に着いていた。


司会者の進行で役員の挨拶が終わり、広告発表が始まると、私は必死に耳を凝らした。
一字一句聞き逃さない意気込みで、テーブルに開いたメモ帳にペンを走らせる。
郡司さんが私に任せると言ったのは発表の草稿案だけど、マスコミや招待客からの質問、それに対する答弁もメモする。
三十分きっちり発表に集中したせいで、招待客同士の歓談が始まった時、私は思わず肩でホッと息をしてしまった。


その隣で、郡司さんは立ち上がった途端、女性から声をかけられた。
仕事ですでに付き合いがあるらしい人もいれば、彼の噂を耳にして寄ってきた人もいる。
その中には仕事絡みではなさそうな人もちらほらといたけれど、郡司さんは、そのすべてに愛想よく営業スマイルを向ける。
歓談中も郡司さんに付き従うべきか判断に迷った私は、明らかに彼本人が目当ての様子の女性から向けられる刺々しい視線に閉口した。
ここから先は遠慮して会話から外れた方がいいのか、と本気で悩むほどあからさまに誘いをかけてくる人もいるくらいだ。


どうしたもんかと思いながらも、私は引き攣り気味の笑顔を浮かべ、なるべく会話は右から左に聞き流すようにしていた。
どのくらいそうしていたか、秘書室の光永さんが「郡司さん!」と小走りで駆け寄ってきたタイミングで、私はお手洗いを口実に中座させてもらった。


化粧室に行って軽くメイクを直し、私は鏡に向かって太い溜め息を漏らした。
郡司さんが、社内外問わず、女性から人気があるのはもちろん知っている。
でも、純粋に仕事の関わりで声をかけてくる女性もいるから、私も彼のそばから離れていていいのかわからない。
郡司さんが、『お前はもう離れてろ』と言ってくれればいいのに。


発表は終わったのに、この妙な気疲れ。
それもこれも、郡司さんがとにかく女性に愛想がいいせい。
誰にでもいい顔するからいけないのよ!と、私は八つ当たり気味に罵りながら、化粧室から廊下に出た。
はあっと声に出して溜め息をつきながら、意識してゆっくり会場までの廊下を歩く。
その間、何人か制服姿のスタッフとすれ違い、私はその度に足を止め、その背を振り返ってしまった。


フロントクラークの制服ではないけれど、もしかしたら、あの人もこの人も忍と顔見知りだったり、友達だったりするかもしれない。
そうやって忍の姿を思い浮かべてしまう。
私の足はいつの間にか宴会場に続く廊下から逸れ、階下のロビーに向かっていた。
その奧に、重厚感漂う広いフロントカウンターがある。
忍が一年前まで働いていた場所だ。


時計の針は午後七時半を指している。
チェックイン・アウトのピークは当に外れているけれど、高級ホテルのロビーには、絶え間なく宿泊客が訪れる。
カウンターには、五人のフロントスタッフが並び、接客対応を行っていた。
それを私は、ちょっと遠くからぼんやりと眺める。


忍が東京勤務だった頃、彼が働く姿を見に来たことはない。
だけど、カウンターの制服姿の男性を見止めて、私は胸元をギュッと握りしめた。
清潔感漂う、キリッとした黒い制服。
忍もあれを着てここで働いていたんだなあ……。


私は脳裏に忍の姿を思い描き、胸が締めつけられるような想いに駆られた。
なぜだか、胸がいっぱいになって、きゅんと切なく疼くのを感じる。
私はまるで吸い寄せられるように、フロントカウンターに向かって一歩足を踏み出した。
けれど二歩目は、やけにはっきり耳に届いた声に阻まれる。


「忍~。早く早く! お腹空いた~」


ギクッと足を止め、反射的に声のした方向に顔を向けた。
そして、大きく息をのむ。


「えっ……忍っ……!?」


だいぶ距離はあるけれど、確かにそこに忍がいた。
フロントカウンターにいる男性と同じ制服を着た忍の姿。
一瞬、彼が再び東京勤務に戻ったんじゃないかと混乱して、私の声は上擦ってしまった。


「ど、どうして」


誰に問うでもなく呟き、私は再び足を踏み出した。
そのうち、気が急いて走り出してしまう。
けれど、視界の中で忍の背中が大きくなるにつれて、私の足の動きはゆっくりになった。


「ねえ、今日はどこに連れてってくれるの?」


忍より数歩先を歩くのは、彼と同じ制服を着た女性だ。
さっき『忍』と名前で呼んだ声を弾ませて、笑顔で彼を振り返っている。
そして忍は私に気付く様子もなく、「そうだなあ」と考えるように、間延びした声で返事をした。


「焼肉?」

「えー。この間もそれじゃない」

「この間って、一ヵ月前だし。いいだろ」


サラサラショートボブが似合う、活発な印象の美人に返事をする忍は、随分と砕けた口調だった。
後ろから近付く私に忍の顔は見えないけれど、きっと笑っているんだろう。
会話を聞いているだけでも、仲の良さそうな雰囲気がヒシヒシと伝わってくる。


「忍って、肉ばっかりだよね。たまにはさあ……」

「忍……?」


忍の方を向いた彼女が少し頬を膨らませて言うのを、私は彼の名を呼んで遮った。
数メートル離れていてもちゃんと聞こえたようで、忍の背が一瞬ギクリと震える。


「え?」


両足をピタリと揃えて止め、ゆっくりと振り返った忍が、ギョッと目を剥いた。
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