甘いSpice

恵蓮

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心の綻びに攻め入る誘惑

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私にとっては、せっかくの休日に、オフィスの先輩に無理矢理連れ出された外出。
郡司さんの企画の参考にしてもらうだけで、彼がリサーチ目的で会ったという女の人と大差はない。
だというのに、郡司さんは車の中でも『デート』を連発した。
ムキになっていちいち言い直すという行動を繰り返すうちに、車窓の景色はアクアフロントの海に移り変わっていた。
郡司さんは駐車場の『空』表示を見遣りながら、大型ショッピングモールに向けて右のウィンカーを出し、道を逸れた。
車から降りてモール内に進むと、彼がポンと手を打った。


「ちょうどいい。観たい映画があったんだ。若槻さん、付き合え」


どこか俺様な誘いようには条件反射でムッとしたけれど、彼が口にしたのは、まだ公開したばかりのハリウッドの大作アクション映画のタイトル。
実は先週、忍と一緒に観たいと思っていたのに叶わず、今度一人で来ようと思っていた。
そのうち、にしてしまったら、結局来ないまま、後でDVDをレンタルして観る羽目になりそう。
そうなるよりは……と、私もここは素直にお供することにした。


シネコン内に入ると、劇場で席に着く前に、郡司さんがドリンクとポップコーンを買ってくれた。
昼食後だから、私はおやつ感覚で甘いキャラメル味をチョイス。
郡司さんは普通のソルト味を選んだ。
場内に入り、席を探してシートに腰を下ろす。
さっそく包装を解きながら、せっかく違う味だしと、郡司さんにも私のポップコーンを勧めてみた。
ところが。


「あ~、悪い。俺、甘いの苦手なんだ」


自分の分を一つ摘まんで口に放り込み、郡司さんはシレッと言い放った。


「え。郡司さん、毎年バレンタインチョコ、たくさんもらってるのに」


差し出したきり立場のない、甘い香りを放つポップコーンに目を落とす。


「もらってないよ。気持ちだけありがたくいただいて、全部お返ししてる」

「……知らなかったです」


毎年バレンタインは、他部署からも群がってくる女性たちの人垣を傍観するだけだったから、その向こうにいる郡司さんが、そんな律儀なことをしてるなんて知らなかった。
それなら、この間のゴージャスなランチのお礼も、お菓子じゃない方がいい。
情報知れてよかったと思っていいのかな。
そんな思いで肩を竦め、私は自分のポップコーンを摘まんで口に運んだ。
それを。


「……!?」


横から伸びてきた手に手首を掴まれ、阻まれた。
ギョッとして郡司さんに顔を向けると、彼は自分の口元に私の手を引っ張っていく。


「なっ……!」


私が上擦った声をあげるのとほぼ同時に、彼は私の指先のポップコーンをパクリと唇で咥えていた。
大きく目を見開き、口をパクパクさせる私に、郡司さんが上目遣いの視線を向けてきた。
してやったり、とでもいうように、ニヤリと笑う。


「若槻さんは、一度も俺にくれたことないな。今はこのポップコーンで我慢してやるから、来年のバレンタインはちゃんと俺の分用意しろよ」


随分と傲慢なことを言いのけ、キャラメル味のポップコーンを、大きな手で豪快に一掴み奪っていく。


「あ、甘いの苦手って、つい今」

「お前からなら別」

「別って」


郡司さんの言い様にも、突然の行動にも、ただ呆気にとられてしまう。
「甘い」と言いながらポイポイと口に運ぶ彼の横顔を、私は呆然と見つめた。
けれど、自分の指先に視線を落としてハッと我に返る。
郡司さんがポップコーンを咥えた瞬間、彼の唇が指先を掠めた微かな感触が、まだそこに残っている。
それをはっきり意識した途端、心臓がドクンと湧き上がるような音を立てた。
全身に血が巡り、私の頬は不覚にもカアッと赤く染まってしまう。


「う、うちの会社、一種のパワハラ・セクハラに当たるって、義理チョコ配る風習、何年も前に廃止されてます」


悔し紛れに言い返した声は、随分と上擦ってしまった。
勢いに任せて自分のポップコーンをワシッと掴む。
でも、その手を口に運ぶことはできない。


「義理なんかいらないよ。もちろん本命で」

「~~だから、私にはちゃんと彼が……!」


なにを言っても暖簾に腕押しな郡司さんに焦れて、私の方がムキになって言い返した。
同時に、私の口に塩味のポップコーンが放り込まれる。


「んんっ……!?」


ギョッとして、私は何度も目を瞬かせた。
郡司さんは、なぜだか満足げにほくそ笑む。


「俺と間接キスになるって気にして食えないんだろ? だったら俺が食べさせてやる。ほら」

「ちょっ……んぐっ」


真っ赤な顔で抗議しようとした私の口に、郡司さんが二つ目を滑り込ませてくる。
それを拒もうと口を閉じたせいで、私は郡司さんの人差し指と親指をしっかりと咥え込んでしまっていた。
一瞬、郡司さんが瞬きをした。
けれど、すぐ次の瞬間には私を上目遣いに見遣り、ニヤリと笑う。


「っ、すみませ……!」

「いいえ。でも、公衆の面前で俺の指を咥えるとは。なかなか大胆なことするな、愛美チャン」


郡司さんは愉快気に肩を揺らしてくっくっと笑いながら、私が咥えてしまった指でポップコーンを摘まむ。
平気な顔をして自分の口に放り込み、その指先をペロッと舌先で舐めた。


「っ……!」


見せつけるようなその仕草に、不覚にも胸がドキンと跳ね上がった。
強く拍動する心臓に煽られるように、頬がカッと熱くなる。


「どうした? 顔、真っ赤ですけど?」


私を横目で見遣りながら意地悪に笑う郡司さんから、私は勢いよく顔を背けた。
それでも、続く彼の呟きが耳をくすぐる。


「甘い。……なんでかな」


視界から追い出したはずなのに、郡司さんが指先を舐める仕草が脳裏に蘇る。
彼のすること、なにもかもが意味深で、私の胸はドキドキと早鐘のように打ち鳴ってしまう。
これ以上からかわれたら、平気な顔して座っていられない。


残像よ、消えろ!!とばかり、固く目を閉じた時、劇場内に流れていたBGMがやんだ。
そっと目を開けてみると、照明が落ちていた。
スクリーンには、本編上映前のCMが映し出され、ざわざわしていた場内も静まっていく。
聞き覚えのあるキャッチコピーの音声が耳に届き、私は爆音を立てている胸に手を当てながら、恐る恐る顔を上げた。


スクリーンを真っすぐ見て、心の中で『あ』と呟く。
ウチのライバル会社でもある、国内二位の化粧品メーカーのCMが大きく映し出されていた。
もちろん、私よりも郡司さんの反応の方が早い。
暗がりの中でも、その横顔が一気に真剣味を帯びるのがわかって、私は肩を竦めてシートに背を預けた。
逆に郡司さんの方は、わずかに身を乗り出し、顎を撫でながらスクリーンの一点を凝視している。


ついほんの一瞬前まで、容赦なく私をからかっていたチャラい男だったというのに、こうも簡単に『尊敬できる先輩』の姿に切り替わられては。
悔しいけれど、私は、CMに集中している郡司さんの横顔に目を奪われてしまう。


化粧品のCMが終わると、郡司さんも私と同じようにシートに深く身を沈めた。
長い足を組み上げた彼の横顔は、さっきまでとは打って変わって厳しい。
腕組みをして、なにか思案している様子。
どうやら先ほどのCMのせいで、自分の仕事のことで頭がいっぱいになっているようだ。
それを見ると、私も今更ながら今日のデート……いや、お出かけの本来の目的を再びしっかりと意識することができた。


ほんと、いつも思う。
郡司さんのオンオフのスイッチの切替の早さは半端じゃない。
スクリーンを睨むように見つめている郡司さんの頭からは、私を『間接キス』でからかっていたことも、すっかり消えてなくなってるんじゃないか、とまで思えた。
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