甘いSpice

恵蓮

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彼の背中を見送る切ない朝

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いつもより少し早くオフィスに着くと、まだ他の社員はほとんど出社しておらず、閑散としていた。
大手化粧品メーカーの企画広報部。それが私のオフィス。
テレビや雑誌を媒体にした広告の企画立案を手掛ける部署で、私の職務は総合職社員のアシスタントだ。
プレゼンに使うプロポを作ったり、企画書を作成したり。
その他庶務事項諸々……と、業務内容はわりと雑多。
業務時間中は賑やかで活気のあるオフィスだけど、始業時間まで一時間半もあるせいか、見渡す先の遠い島に、ポツリポツリと男性の背中が見えるだけ。


私はデスクにバッグを置き、パソコンを起動させてから、マイカップを手に給湯室に向かった。
急いで取りかからなきゃいけない仕事はないけれど、週末前の金曜日、定時を迎えると同時に退社したせいで、やり残したファイリングがあった。


お茶でも飲みながら、始業前に片付けよう。
ティーバッグだけどお気に入りのイングリッシュブレックファストティーを淹れて、香りを楽しみながらデスクに戻る。
ドスッと椅子に腰を下ろし、息を吹きかけながらカップに口をつけた。
その時。


「……週明けから、やけに早いね。週末、仕事終わらなかったのか?」


誰もいないと思っていたのに、背後から気怠げな低い声が近付いてきて、私は思わず身体を竦ませた。
振り返って確認しなくても、誰だかわかる。
朝っぱらからこんな低血圧な声を出す人、うちの部ではただ一人しかいない。


「お……おはようございます。郡司ぐんじさん」


慌てて立ち上がり、とりあえず愛想笑いを浮かべながら朝の挨拶。
私の目線の先に、予想通りの人……私がメインアシスタントを務めている三年上の先輩、郡司脩平しゅうへいが立っていた。
その彼が私に返したのは、挨拶ではなく随分と頭ごなしな命令だった。


「随分と急いで帰ったもんな。残したのが俺の企画書だったら許さない。優雅にお茶なんか飲んでないで、さっさとやれ」


なんだろう……?
気怠そうなのはまあいいとしても、なぜか妙に言い方が刺々しい。
私、なにか機嫌損ねるようなことしたかな……。
一応気にしてみたものの、特に記憶にない。
結局私は、愛想笑いを凍り付かせたまま、文句を言った。


「郡司さんに頼まれた企画書なら、ちゃんと終わってます。まだ始業前だし、ゆっくりお茶くらい」


そんな私に、社内外の女性たちから圧倒的な人気を誇るモテ男が、胸の前で腕組みをして眉を寄せた。


「なに? 今日、反抗的だな」


もともと不機嫌そうだったけど、さらに気分を害したようだ。
でも、私が反抗的と言うんじゃなく、郡司さんが妙に突っかかってくるせい。
そうは思ったものの言葉にはせず、私はそおっと彼に背を向けた。


郡司さんは企画広報部のチーフで、今年二十九歳になったばかり。
部内一の業績を誇る、デキる男だ。
来春の人事では役職昇格の噂もある将来有望なエリート広報マンで、どこか色気漂う切れ長の鋭い目元が印象的な、社内でも指折りのイケメンでもある。
好みの問題はあるけれど、確かにみんなが騒ぐのも納得のイイ男には違いない。
おかげで、メインアシスタントの私は、変なやっかみを受けることも多い。
オフィスで人間関係に波風は立てたくないから、私は仕事以外の場では郡司さんに近付かないようにしていた。
なのに。


「きゃっ……!?」


軽く背を屈めた郡司さんが、肩にかかる私の髪をどけて首筋に息を吹きかけてくる。
そこに微かな風を感じて、私はビクッと身体を震わせた。


「ちょっと……! やめてください」


声をひっくり返らせて抗議する私に、郡司さんは腕組みをしてクッと笑った。
私は慌てて首筋を手で押さえ、大きく一歩足を引いて彼から離れた。


「朝っぱらから、おっかない顔するなよ」


郡司さんはまだくっくっと肩を揺らしながら、軽い口調で言いのける。
一気に高まった警戒心を全身に漲らせ、私は郡司さんを睨みつけた。
だけど、郡司さんには、私の睨みなんか痛くも痒くもないらしい。


「可愛い顔が台無しだよ。愛美チャン」


――何故?
この人は、いつもこうして私を構ってくる。
目を細め、なんともチャラい言い方をして、私の反応を楽しんでいる。
私は不覚にもカッと頬を染めてしまい、慌てて顔を背けた。
それでも、身体中の全神経を彼に研ぎ澄ませたまま。
そっと、視界の端っこで窺ってしまう。


サラッとした焦げ茶色の前髪が、目元を掠めて揺れる。
なにもしないとサラサラのストレートヘアだけど、無造作にセットしているとウェーブ感があって、ちょっと業界人っぽい。
スッと通った鼻筋に、わずかに開いた薄い唇。
長身でスリムなのに、上着を脱いで白シャツで仕事をする姿を見れば、結構胸板が厚いのがわかる。
そんな男っぽい身体から漂う気怠げな空気は、朝っぱらからやけに色っぽい。
この言動でもわかる通り、郡司さんはただのイケメンエリート社員ではない。
社内きってのプレイボーイとしても有名だった。
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