甘いSpice

恵蓮

文字の大きさ
上 下
1 / 45
彼の背中を見送る切ない朝

1

しおりを挟む
寝乱れた髪を、指先で梳かれる感覚。
零れてくる髪に頬をくすぐられ、私は薄く目を開けた。
私を覗き込んでいた彼と、至近距離から目が合った。
思わずバチッと瞬きをした私に、彼は目を細めて柔らかい表情を浮かべる。


「おはよう」


短い朝の挨拶。
続いて、唇にキスが落とされる。
彼のちょっと乾いた唇を受け止めながら、私はそっと目を閉じた。
だけど、温もりは余韻を残すことなく離れていってしまう。


「あ……」


きっと、今回はこのキスで最後だ。
だからこそ、もっとゆっくりしてほしかったのに。
残念な思いを隠せず、声を漏らしてしまった私に構わず、彼は背を向けた。
そのまま、ベッドを軋ませて立ち上がる。
私に横顔を向けたままで、手早く服を身に着け始める。
私はゆっくり上体を起こした。


「……ねえ。もう行っちゃうの?」


スマホで時間を確認すると、まだ午前五時半。
窓にかかったカーテンの隙間から射し込む朝日は、十月中旬を迎えたこの時期、まだまだ弱い。


「今日の出勤、午後からでしょ? 朝ごはん作るから、もうちょっとゆっくり……」

「悪い。午後一で会議なんだ。その前に会議資料確認しておかないと」


顎を引き、自分の手元を見つめ、ネクタイをキュッと締める彼……神尾かみおしのぶに、淡々とした口調で遮られ、私もそれ以上言えずに黙り込んだ。


あまりにもあっさりと断られて拗ねて、肩を竦めてベッドの上で膝を抱える。
忍はそんな私には目もくれず、部屋を出て洗面所に向かっていった。
ほどなくして、水が流れる音が聞こえてくる。


「……はあ」


私は膝に額をのせ、無意識に声に出して溜め息を漏らした。


一年前、大阪に転勤した忍。
私は普通に東京で働いているから、お互い覚悟の上で始めた遠距離恋愛だ。
ところが実際に始めてみると、ほんの数日の滞在ですぐ日常に帰っていく彼の背中を見送るたびに、切なくて寂しくて心が折れる。
もうちょっともうちょっとだけ、と引き留めようとして我儘を言ってしまい、困らせてしまうことばかりだ。


ちょっとウェーブがかった、すっきりとしたショートヘア。
私と同じように寝癖がついていて、わずかにぴょんぴょん跳ねている。
接客業という仕事柄、愛想笑いが身についてしまったとかで、意識せずとも口角が上がるそうだ。
わかってるけど、このタイミングで見ると、なんとも残酷な微笑み……。


またしばらく会えなくなるのに、切ないのは私だけ?とひねくれてしまう。
心なしか、いつもより急いで身支度しているようにも見える。
心の温度差を感じて複雑な心境の私の前で、彼は慣れた手つきでネクタイを結び始めた。


私、若槻わかつき愛美まなみ
大手化粧品メーカーの企画広報部に勤務する、二十六歳のOLだ。
ただの一般職、事務アシスタントだけど、仕事は楽しく、充実している。


同じ大学の先輩で、日本でも有数の高級ホテルチェーンに勤務するホテルマンの忍は、二歳年上。
私が社会人一年目の時に飲み会で出会い、なんとなく意気投合して、恋人として付き合い始めた。
彼との付き合いも、今年でもう四年目だ。


去年、大阪にオープンしたホテルのフロントチーフに抜擢されて、忍の転勤が決まった。
必然的に遠距離恋愛をする羽目に陥り、私は最初、いつかの結婚を視野に入れて、仕事を辞めてついて行くことも考えた。
だけど、私も社会人三年目を迎えて、仕事にやりがいを見出せるようになった頃だった。
結局、お互いに『結婚』という言葉を口にすることはなく、忍からも『一緒に来い』と言ってもらえず、遠距離恋愛が始まった。


月に一度……いや、最近は二ヵ月に一度くらいのペースで、忍が休暇を合わせて東京に来てくれるのを待つだけの恋愛。
それでも、こうして一年続いた。
……だけど。


「去年、ついて行くべきだったのかなあ……」


そんな弱音を零した時、顔を洗ってしっかりと髪をセットした忍が部屋に戻ってきた。


「なに?」


私の独り言が聞こえたのか、彼は短く訊ねかけてくる。
それには慌てて首を横に振って誤魔化した。


忍はこれから新幹線で大阪に戻り、そのまま仕事に就くつもりなんだろう。
染めた形跡のない黒い髪をちょっとツンツンさせている。
すっきりと額が出ていて、ホテルマンらしい清潔なヘアスタイル。
彼は私にチラッと目を遣ると、ドア口に置いてあったカバンを手に取り、「じゃ」と言って廊下を引き返していった。


「あ、待って」


それを見て、私は急いでベッドから降りる。
寝間着の上からストールを被り、玄関先まで忍を見送りに出ると、彼は靴に足を突っ込みながら、私を肩越しに振り返った。


「寝てていいよ。愛美、まだ早いだろ」


それには黙って首を横に振る。
爪先を床にトントンと鳴らしてから、真っすぐ背を伸ばした忍を見上げて、私は胸にギュッと握り拳を当てた。


「忍。次、いつ来てくれる?」


思わず気が急いて訊ねたけれど、忍は『う~ん』と唸って眉を寄せた。


「最近、土日の休日希望、通らないんだよな……シフト出たら、また連絡する」

「そ、それなら! 次は私が行っちゃダメ?」


忍の返事は予想していたから、私は勢い込んでそう畳みかけた。
それにも忍は「え?」と眉間の皺を深める。


「忍が夜勤じゃない時! 夜、部屋で二人で過ごせれば、それでいい。忍の仕事中は、私も一人で大阪観光してればいいし……」

「あ~……どっちにしても、シフト出ないとわからないな」


忍は間延びした声で返事を濁し、ドアに手をかけた。
それを見て、私も言葉に詰まってしまう。


「また連絡する。じゃあな、愛美」

「……うん。行ってらっしゃい」


彼が薄く開けたドアから、早朝の冷たい空気が室内に吹き込んでくる。
思わずストールを胸元でギュッと握りしめ、肩を竦めている間に、忍は部屋から出ていった。
目の前でバタンと音を立てて閉まるドアを見つめて、私はお腹の底から深い溜め息を漏らした。


何度迎えても、忍の背中を見送る朝は寂しい。
一緒に過ごしている時は温かいからこそ、この瞬間はいつも堪らなく寒くなる。
一晩かけて注ぎ込まれた熱が、一気に奪い取られていく、そんな感じだ。
この寒さを感じる朝を繰り返す度に、私は我儘になる。
それを自覚しているから、『シフト』を理由に次の約束を明言しない忍にも、それ以上強くは言えない。
閉まったドアの前で立ち尽くし、私は俯いて唇を噛んだ。
でもすぐに気を取り直そうとして、大きく深呼吸する。
そしてようやく、玄関に背を向けた。


普段の私の出勤時間だと、二度寝しても間に合う。
だけど、ベッドには忍の匂いも温もりも、まだしっかり残っている。
ベッドに戻ったら起きられなくなりそうで、私は甘い誘惑をなんとか断ち切った。
先にテレビを点けて、朝の情報番組にチャンネルを合わせてから、キッチンに入ってコンロにケトルをのせてお湯を沸かす。
トースターに食パンを一枚放り込み、焼き上がるのを待つ間、顔を洗って化粧水をはたいた。
頃合いを見てキッチンに戻り、コーヒーを淹れ、焼き上がったパンにジャムを塗る。
一口齧りながら部屋に戻り、テレビで今日の天気をチェックした。
どうやら、この後明るい太陽が昇りそうな予報。
よかった。寂しい朝から始まる一日が雨にでもなったら、ますます気分が落ち込んでしまう。


パンを食べ終えて、髪を乾かす。
化粧をして、服を選ぶ。
週始めの朝、ちょっと気分を上向かせたくて、明るいベージュのパンツスーツをチョイスした。
これなら一日アクティブに動けそうだ。
服を着て食器を片付けていると、テーブルの上に置いたままだったスマホが震えた。
手に取って、受信したLINEメッセージを確認する。


『今日も一日、ガンバレ。またな』


東京駅に向かう電車に乗ったのだろうか。
忍からのメッセージに、私はつい大きく『うん』と頷いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完】秋の夜長に見る恋の夢

Bu-cha
恋愛
製薬会社の社長の一人娘、小町には婚約者がいる。11月8日の立冬の日に入籍をする。 好きではない人と結婚なんてしない。 秋は夜長というくらいだから、恋の夢を見よう・・・。 花が戦場で戦う。この時代の会社という戦場、そして婚約者との恋の戦場を。利き手でもない左手1本になっても。 ベリーズカフェさんにて恋愛ランキング最高17位 他サイトにて溺愛彼氏特集で掲載 関連物語 『この夏、人生で初めて海にいく』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高32位 『女神達が愛した弟』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高66位 『女社長紅葉(32)の雷は稲妻を光らせる』 ベリーズカフェさんにて恋愛ランキング最高 44位 『初めてのベッドの上で珈琲を』 ベリーズカフェさんにて恋愛ランキング最高 12位 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高9位 『拳に愛を込めて』 ベリーズカフェさんにて恋愛ランキング最高29位 『死神にウェディングドレスを』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高11位 『お兄ちゃんは私を甘く戴く』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高40位

アラフォーだから君とはムリ

天野アンジェラ
恋愛
38歳、既に恋愛に対して冷静になってしまっている優子。 18の出会いから優子を諦めきれないままの26歳、亮弥。 熱量の差を埋められない二人がたどり着く結末とは…? *** 優子と亮弥の交互視点で話が進みます。視点の切り替わりは読めばわかるようになっています。 1~3巻を1本にまとめて掲載、全部で34万字くらいあります。 2018年の小説なので、序盤の「8年前」は2010年くらいの時代感でお読みいただければ幸いです。 3巻の表紙に変えました。 2月22日完結しました。最後までおつき合いありがとうございました。

【完結】末っ子王子は、他国の亡命王女を一途に恋う

空原海
恋愛
「僕は一体いつになったら、アーニャとの再会が叶うんだ……?」  第三王子バルドゥールの恋のお相手は、他国の亡命王女アンナ。  二年前まで亡命滞在していたアンナは、自国の内乱が落ち着き、呼び戻されてしまう。  と同時に、アンナは女王即位のため、建国の逸話をなぞって旅に出ることに。  それは初代女王を描いた絵本、『海を渡ったアーニャ』が関わっているようで……。 ※ 北欧神話とスラヴ神話の神々の名称が出てきますが、実際の神話とは異なります。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

お狐様の言うことを聞くだけのお仕事!

相馬かなで
恋愛
会社員の羽咲澪(はさきみお)は、周りに合わせるということが大の苦手。 ある日、澪は社長の誕生日会の席で、素直に社長へのお酌を断ってしまう。 上司に罵倒され、落ち込む澪に追い討ちをかける様に社長からクビを申し付けられる。 無職になった澪は 帰り道、重い足取りで家に帰ろうとするのだがその足は見知らぬ神社の前で止まる。 ___ここは、どこ? 「澪、おかえり」 そこには、狐の面をした見知らぬ青年が立っていた。 ♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎ 2018年9月20日START!

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

恋煩いの幸せレシピ ~社長と秘密の恋始めます~

神原オホカミ【書籍発売中】
恋愛
会社に内緒でダブルワークをしている芽生は、アルバイト先の居酒屋で自身が勤める会社の社長に遭遇。 一般社員の顔なんて覚えていないはずと思っていたのが間違いで、気が付けば、クビの代わりに週末に家政婦の仕事をすることに!? 美味しいご飯と家族と仕事と夢。 能天気色気無し女子が、横暴な俺様社長と繰り広げる、お料理恋愛ラブコメ。 ※注意※ 2020年執筆作品 ◆表紙画像は簡単表紙メーカー様で作成しています。 ◆無断転写や内容の模倣はご遠慮ください。 ◆大変申し訳ありませんが不定期更新です。また、予告なく非公開にすることがあります。 ◆文章をAI学習に使うことは絶対にしないでください。 ◆カクヨムさん/エブリスタさん/なろうさんでも掲載してます。

強引な初彼と10年ぶりの再会

矢簑芽衣
恋愛
葛城ほのかは、高校生の時に初めて付き合った彼氏・高坂玲からキスをされて逃げ出した過去がある。高坂とはそれっきりになってしまい、以来誰とも付き合うことなくほのかは26歳になっていた。そんなある日、ほのかの職場に高坂がやって来る。10年ぶりに再会する2人。高坂はほのかを翻弄していく……。

処理中です...