暗き冥界の底で貴方の帰りを待つ

片海 鏡

文字の大きさ
上 下
50 / 62
六章 霧に消える別れ結びの冬

50.其の楽園は白く

しおりを挟む
 朝焼けを迎えようと、世界は薄暗い。
 地上の神殿の門扉が開かれ、地上の空気が流れ込む。
 全てを凍り付かせそうな風にゼネスは驚き、思わず目を細め、苦い顔をする。
 神であるが故に人間の様に凍える事は無い。だが、この風に多くの生物が凍てつく寒さの中、身を寄せ合っているのが容易に想像出来た。
 自分が行くしかない。
 紺色のローブを身に纏うゼネスは、どこか晴れやかな表情を浮かべる。

「ゼネス」

 番人達が控える中、ただ一人見送りとして神殿へやって来たシャルシュリアは、僅かに不安の色を滲ませながら彼を呼んだ。

「シャルシュリア」

 ゼネスはシャルシュリアの手を握り、大事そうに優しく指を絡める。
 互いの吐く息は白く、冷たいはずの彼の肌は雪解けを迎えた春の様に温かい。

「行ってくるよ」
「あぁ……」

 シャルシュリアの金の瞳が、僅かに揺れ動く。
 言葉を詰まらせてしまう彼を、ゼネスは待った。
 互いに覚悟を決めたはずが、別れの時となれば、あともう少しと名残惜しくなってしまう。

「すまない」
「貴方が謝る事なんて、一つもない。冥界と地上では、摂理が違う。母の暴走を止めるには、地上の神々を頼りにするしかないだ」

 ゼネスは微笑みを浮かべると、シャルシュリアの手を離した。

「自分で、出来る限りの事はやってみる」
「こちらからも、応援を向かわせる。無理をしない様に」
「ありがとう。行ってくる」

 冥界の神殿を出て、ゼネスは再び地上へと帰還する。
 頬に刺さる程の冷気。
 天は、地上に落ちてしまいそうな程に重く、暗い灰色の雲で覆い尽くされている。
 幸いだったのは、風が止み、雪が降っていない事くらいだ。周囲のほとんどは聳える壁の様に雪が積もっている。シャルシュリアが事前に番人へ命令したのか、メネシアの領域へと向かう道筋は除雪され、歩き易い様に整えられていた。
 ゼネスは心の中でシャルシュリアに感謝をしつつ、前へと足を踏み出す。

 長い、長い道のりだ。

 全てが白く塗り固められ、数える程しか鳥のさえずりが聞こえず、雪の中を歩く獣の足跡は何処にも見当たらない。森の木々は雪の重みに耐えきれず軒並みに折れてしまい、生き物達は住処を追われてしまった。それは人間も同様であり、建物が倒壊し、集落が壊滅してしまっている。  
 地域を司る神の加護や慈悲が感じられない。
 ようやく吹雪が止んだと呟き、移動する人間たちの目は暗く、手を引かれる子供の足取りはおぼつかない。木の枝から落ちる雪の音に子供は泣き出し、母が優しく諭し慰めた。
 歩みを進めるゼネスの目には、静寂の惨状が広がっている。
 冥界の書庫に収納され、制作が続ける本の山を思い出す。
 生きる事すら許されない残酷な光景に、ゼネスの足取りは早くなっていく。

 そして。

 絢爛なる常春の楽園。花咲き誇るメネシアの領域に、ゼネスは舞い戻った。
温かい。極彩色の如く視界に広がる美しい景色は、かつて生活した日々の中と何も変わらない。建ち並ぶ大理石の建物の数々、四季と世界を隔てず花々が咲き、果実は一年中たわわに実り、清らかな泉は枯れる事を知らない。
 今まで目にした光景と裏腹であり、あまりの異常さに背筋が凍り付く。
 逃げ延びた人々は喜びと安堵の表情を浮かべているが、ゼネスには喉が渇く様な違和を生んでいる。

「ゼネス!!」

 小麦色の長い髪には花々を飾り、白い衣に身を包んだ美しい肢体の持ち主。
 春をその身に抱くメネシアは我が子の帰還に喜び、手を広げ駆け寄る。
 しかし、ゼネスは彼女の顔を見た瞬間、身体が硬直した。

「は、母上……」

 頭が真っ白になる。何かが、身体を駆け巡る。
 反応が遅れてしまった。
 メネシアはゼネスに優しく抱擁し、彼女の喜びに共鳴するように蕾だった花々が咲き誇る。
 ゼネスの全身を質量のある柔らかな感触が包む。纏わりつく様な、強く甘い香が漂っている。

「ただいま戻りました。母上」

 ゼネスの頭の中では、警鐘が鳴り響いている。
 言わなければならない話が沢山ある。しかし全身が粟立ち、逃げ出そうとする本能を必死に抑え込み、なんとか平静を装うのが精一杯だ。

「心配したのよ? 何か悪さをされなかった?」
「いえ……皆さん、良くしていただきました」

 ほんの一瞬、メネシアの眉が動いた。

「そうなのね。冥界は薄暗い世界だから、地上とは全く違う価値観で動いていると思ったけれど……そうではない様で、安心したわ」

 真新しい上質な紺色のローブを見て、客人として扱われたのだと察したのだろう。
柔らかく微笑みを浮かべるメネシアであるが、ゼネスの顔はやや暗い。

「どうしたの?」
「なんだか疲れてしまって……申し訳ありませんが、休ませてはいただけませんか? どうやら、久しぶりの地上にまだ慣れていないようなんです」

 様子を窺うように母の緑色の瞳が、ゼネスを覗き込んでいる。
 全てを見透かされていそうで居心地が悪く、けれど目線を離すわけにはいかない。

「そうね。冥界の神殿からここまでは、距離もあるから休みなさい」
「ありがとうございます」

 メネシアの背後で待機をしていた従者が、ゼネスの羽織っていたローブに手を掛ける。

「あっ」

 ゼネスは、思わず避けてしまった。
 焦り、思考がぐちゃぐちゃに絡み合う。なぜそうなるのか、自分の事でありながら分からず、しかしメネシアの視線の痛さに逃げられず、ゼネスは何とか踏み止まる。
 
「も、申し訳ありません。長旅の中で、獣に襲われかけた事があって、少し過敏になっている様です」
「あら……本当に大変だったのね。わかったわ。落ち着くまでは、その格好でいなさい。でも、汚れているのだから、お風呂に入って、ちゃんと着替えるのよ?」
「はい……母上」

 従者は申し訳なさそうにしながら一歩引き、ゼネスは気を遣う様に微笑みを向けた後、自分の部屋へと戻る。
 メネシアは息子の後姿を見送るが、その瞳には多くの感情が濁りを見せる。





 寝台。机。椅子。花瓶に飾られた白い花。半分ほどしか入っていない本棚。使いかけのインク瓶と使い古された羽ペン。ゼネスが居ない間も常に清掃が行われていたのか、大理石で作られたその部屋は埃1つ見当たらない。
 見慣れている筈が、違和感を禁じ得ない。
 どの様に過ごしていたか思い出そうとするが、記憶にあるのは外の景色ばかりだ。
何故こんな気持ちになるのか。落ち着かないゼネスは、本を一冊手に取り、開いた。

「は……?」

 白い。どこのページを捲っても、何も書かれてはいない。他の本も開いてみるが、全て白紙だ。
 インクと羽ペンがあるのだから、何か記したものがある筈だ。そう思いゼネスは探してみるが、どこにも無かった。

「なんだ。これは……」

 本当にここが自室なのか。いや、自分の記憶を頼りに来たのだから、自室の筈だ。
 ゼネスは混乱し、急いで部屋を出る。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

仮面の兵士と出来損ない王子

天使の輪っか
BL
姫として隣国へ嫁ぐことになった出来損ないの王子。 王子には、仮面をつけた兵士が護衛を務めていた。兵士は自ら志願して王子の護衛をしていたが、それにはある理由があった。 王子は姫として男だとばれぬように振舞うことにしようと決心した。 美しい見た目を最大限に使い結婚式に挑むが、相手の姿を見て驚愕する。

貴族軍人と聖夜の再会~ただ君の幸せだけを~

倉くらの
BL
「こんな姿であの人に会えるわけがない…」 大陸を2つに分けた戦争は終結した。 終戦間際に重症を負った軍人のルーカスは心から慕う上官のスノービル少佐と離れ離れになり、帝都の片隅で路上生活を送ることになる。 一方、少佐は屋敷の者の策略によってルーカスが死んだと知らされて…。 互いを思う2人が戦勝パレードが開催された聖夜祭の日に再会を果たす。 純愛のお話です。 主人公は顔の右半分に火傷を負っていて、右手が無いという状態です。 全3話完結。

【旧作】美貌の冒険者は、憧れの騎士の側にいたい

市川パナ
BL
優美な憧れの騎士のようになりたい。けれどいつも魔法が暴走してしまう。 魔法を制御する銀のペンダントを着けてもらったけれど、それでもコントロールできない。 そんな日々の中、勇者と名乗る少年が現れて――。 不器用な美貌の冒険者と、麗しい騎士から始まるお話。 旧タイトル「銀色ペンダントを離さない」です。 第3話から急展開していきます。

『これで最後だから』と、抱きしめた腕の中で泣いていた

和泉奏
BL
「…俺も、愛しています」と返した従者の表情は、泣きそうなのに綺麗で。 皇太子×従者

新訳 美女と野獣 〜獣人と少年の物語〜

若目
BL
いまはすっかり財政難となった商家マルシャン家は父シャルル、長兄ジャンティー、長女アヴァール、次女リュゼの4人家族。 妹たちが経済状況を顧みずに贅沢三昧するなか、一家はジャンティーの頑張りによってなんとか暮らしていた。 ある日、父が商用で出かける際に、何か欲しいものはないかと聞かれて、ジャンティーは一輪の薔薇をねだる。 しかし、帰る途中で父は道に迷ってしまう。 父があてもなく歩いていると、偶然、美しく奇妙な古城に辿り着く。 父はそこで、庭に薔薇の木で作られた生垣を見つけた。 ジャンティーとの約束を思い出した父が薔薇を一輪摘むと、彼の前に怒り狂った様子の野獣が現れ、「親切にしてやったのに、厚かましくも薔薇まで盗むとは」と吠えかかる。 野獣は父に死をもって償うように迫るが、薔薇が土産であったことを知ると、代わりに子どもを差し出すように要求してきて… そこから、ジャンティーの運命が大きく変わり出す。 童話の「美女と野獣」パロのBLです

王子様と魔法は取り扱いが難しい

南方まいこ
BL
とある舞踏会に出席したレジェ、そこで幼馴染に出会い、挨拶を交わしたのが運の尽き、おかしな魔道具が陳列する室内へと潜入し、うっかり触れた魔具の魔法が発動してしまう。 特殊な魔法がかかったレジェは、みるみるうちに体が縮み、十歳前後の身体になってしまい、元に戻る方法を探し始めるが、ちょっとした誤解から、幼馴染の行動がおかしな方向へ、更には過保護な執事も加わり、色々と面倒なことに――。 ※濃縮版

【完】三度目の死に戻りで、アーネスト・ストレリッツは生き残りを図る

112
BL
ダジュール王国の第一王子アーネストは既に二度、処刑されては、その三日前に戻るというのを繰り返している。三度目の今回こそ、処刑を免れたいと、見張りの兵士に声をかけると、その兵士も同じように三度目の人生を歩んでいた。 ★本編で出てこない世界観  男同士でも結婚でき、子供を産めます。その為、血統が重視されています。

処理中です...