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四章 大河に告げる夏の小嵐

28.語らいから生まれる疑問

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 地上の時間にして7日後、シャルシュリアは自分で歩けるようになり、健康状態に問題は無くなったが、まだ復帰とはいかない。ニネティスはまだ彼の復帰を許可せず、転生の剣を返そうとしないからだ。ただ待つわけにはいかず、シャルシュリアは復帰の準備をする為に、彼女と忘却の神エーデが行ってきた業務内容と冥界の現状を把握に努める事にした。

「凄い量だ……」

 書庫へやって来たゼネスの口から、感嘆の言葉が漏れる。
吹き抜けの六角形の広い書庫。玉座の間よりも遥かに広く、壁は全て本棚で覆い尽くされている。天上は暗闇の彼方にあり、階層に分かれる書庫の本棚へと亡霊達は本を入れ、管理と整理を行っている。
 ゼネス達のいる一階には宴会が出来そうな程広々とした机が立ち並び、その上には紙が山の様に積まれ、亡霊達が製本作業を行っている。出来上がった本は亡霊達が本棚へと運び、別の部屋から新たな紙の山を持った亡霊が次から次へと入って来る。その繰り返しだ。

「書庫だけでなく執務室など、事務作業を行う部屋が館にはいくつも存在している」

 出会った当初と同じく沢山の宝石と金の装飾を着け、星空を抱くローブを身に纏ったシャルシュリアの元に、書庫の館長らしき大きな亡霊が近寄る。

「本としてまとめられているのは、判決が下った魂達ですか?」
「そうだ。生前の人生、その際に侵した罪、判決が記されている。転生は命の女神が行っているので、その詳細に関しては記されていない」

 ゼネスは本棚に近付き、背表紙を眺める。本の厚さがそれぞれ異なり、1人1人の名前と誕生から死亡までの暦が記されている。どの様な内容が記されているか興味がそそられるゼネスだが、本を取らなかった。これは英雄譚ではなく、一人一人の人生が書かれている。神とは言え冥界の部外者である自分が、安易に踏み込んではいけない様に思えたからだ。

「療養中に出来上がった本は287冊か。確認する為に、持って来てくれ。それと、現在作られている分の内容も知りたい。箇条書きで報告書を寄越すように、執務室の者に伝えてくれ」

 大きな亡霊の報告を聞いたシャルシュリアはそう言い、他の亡霊達が本を持って来る。
 手押し式の台車に積み上げられた本を手に取り、シャルシュリアは凄まじい速さでページを捲り、次から次へと読んで行く。

「……適切もあるが、妥当もあるな」

 あっと言う間にシャルシュリアは287冊を確認し終えた。大きな亡霊は皆に片付けるよう指示を出す素振りを見せる。
 仮に罪状が極悪であると共通の認識はあっても、裁判を担当した神によって言い渡す刑罰に差が出る。ニネティスが見舞いにやってきた際、裁判官達と協議し、過去の裁判に倣い判決を下していると話していたが、シャルシュリアは何か思う所がある様子だ。

「全部修正されるのですか?」
「妥当の判決は、苦園に落とされた亡霊のもの。罰がぶつ切りか、削ぎ落しかの違い程度だ。そのままでも、支障はない」

 結果は同じでも、その過程に対する解釈に差が出た様だ。苦園の囚人はそれ相応の罪を犯しているのが、平然と言う姿に改めてシャルシュリアが冷徹さを持つ冥界の王であるとゼネスは実感する。

「報告書の作成には、ある程度時間が掛るだろう。次に向かうぞ」
「どちらに?」
「酒場だ。ゼネスの事だから、行けてはいないだろう」
「あはは……仰る通りです」

 見透かされていた事に、思わずゼネスは苦笑する。

 ゼネスは剣捜索の為に、苦園へ向かう際は大階段を上る。
 シャルシュリアから酒場の場所を教えてもらったその日、いつもは走って行くその道のりを注意深く見ながら歩いた。
 玉座の間と大階段の丁度真ん中に位置するその場所に、葡萄の実を食む紅玉の瞳の牡山羊の像が設置されている事に気づいた。瞳以外はそこまで派手さがなく、他の装飾品に埋もれてしまうその像の右横の壁には扉がある。扉は開け放たれた状態ではあるが、言葉を話せない亡霊達で賑わっていても、静寂に包まれている。走っていただけでなく、その二つの要素からゼネスはこれまで気づけなかった。
 興味惹かれるその場所を目の前にして、ゼネスは一歩が踏み出せずにいた。何食わぬ顔で入れば良いのだが、どこか勇気が持てず、出入り口の周りをうろついては諦め、大階段へと向かう日々が続いていた。

「冥界なので飲めないのですが、お勧めの酒ってありますか?」
「そうだな……純米酒はどうだろうか。最近、酒蔵に就任させた東方の職人が作り始めた米と水を原料とする酒だ」
「米が、酒に??」

 地方によっては米が広く栽培され、人間達の主食となっている。それを知っているゼネスではあるが、あの小さな粒を使って酒が造られるなんて想像が出来ず、冥界側が様々な人間達の文化を吸収している事に驚かされる。

「工程は葡萄酒と違いはあるが、分類としては同じ醸造酒だ」
「大量の粒が発酵をして…………」

 穀物である米の粒は植物の種であり、そこに発芽させる為の糖が含まれている。まだ未成熟の時に実を潰すと、米になる前の白い液体が出てくる。知っている限りの米の特徴を思い返してみるが、やはり酒と繋がらずゼネスは内心首を傾げる。

「沢山の粒が液体になるなんて、不思議ですね」
「麦も酒になるのだから、おかしな話ではないだろう」
「えっ、麦も!?」

 ゼネスは麦の酒もあるとは知らず、驚いた。
 霊峰の周囲、母である豊穣の女神を信仰する都に住んでいるゼネスだが、作られている酒は葡萄酒だけだった。他の町や村の住民から贈られる供物の中にある酒も葡萄酒だけであり、それ意外について耳にした事は一度もなかった。たまたまと思いたいゼネスであるが、麦は彼の住む地域一帯の主食であり、パンなどの様々な加工食品が作られている。中には質の良い肉を作る為に、飼料用として栽培されていると耳にした事もある。
 麦の歴史は古く、文明の発展の過程で酒が生まれても何ら不思議は無い。シャルシュリアの発言からとうの昔に製法が確立している。
 製法が分からずとも、〈ある〉と知れる環境がなかった事に、ゼネスは疑問が湧いた。

「原料だけでなく、蔵によっても味に差が出るそうだ。地上へ戻った曙には、様々な場所へ旅に行ってはどうだ?」
「面白そうですね。美味しいお酒を見つけたら、こちらに持って行きますね」

 一度も出たことが無かった都から、睡蓮の泉まで難なく1人で行けるようになった。冥界の中を何十回と周り、掃除を続けた。1人でも動けると自信のついたゼネスは、酒巡りだけでなく、自分の知らない世界を見に行く絶好の機会だと思い、嬉々として言った。

「そう気を遣うな。ゼネスは地上の神だろう。わざわざ冥界に戻る必要は無い」
「良いじゃないですか。俺は地上と同じ位、冥界は居心地が良くて好きですよ」

 気を遣っているのではない。ただ、シャルシュリアと美味しい物を共有したいだけ。
素直にそう思うゼネスであるが、前回の口が滑ってしまった件で恥ずかしくなってしまい、言葉には出せなかった。

「薄暗い冥界を気に入るなんて、変わっているな」

 シャルシュリアはそう言いながらも、目を細めて静かに微笑んだ。
 天上に吊り下がる籠に閉じ込められた光達が、いつになく強く、それでいながら柔らかな輝きを放っている。灯りに照らされた彼の美しい表情に、ゼネスの心は温かさを増し、目を離す事が出来なかった。
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