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一章 冬の睡蓮と冥界

10.冥王との細やかな語らい (一部修正)

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 ゼネスは楽園の階段を上り、地上の神殿へと向かう。
 ここまで来ると、亡霊も番人もいない。地上から吹く風の中に、土と植物達の香りが交じり合う。1日も経っていない筈が懐かしさを感じ、それをきっかけにゼネスは疲労を感じ、足取りが重くなる。
休憩した後、川の中と水路を探させてもらおう。神殿の端でひと眠りさせてもらうのも、良いかもしれない。
 そんな事を思いながら階段を上りきると、ゼネスは目を見開いた。

「め、冥王陛下……!」

 ゼネスは慌てて姿勢を正す。
 瑠璃色の垂れ幕で彩られ、洞窟を切り開いたかのように作られた館に似た神殿の中、冥界と地上を隔てる荘厳な門扉の前にシャルシュリアが佇んでいた。

「やめろ。掃除係に任命はしたが、おまえは地上の神だ。敬われる筋合いはない」
「誰にでも敬意を持って接するのは、大切な事だと教わりました」

 彼の元へと歩み寄りながら、ゼネスは言った。

「ならば、様付けに留めて置け」

 小さくため息をついたシャルシュリアは、腕の中にいる黒い毛玉を撫でた。
 猫か兎かと思ったゼネスだったが、それはやけに丸く、手足や耳、尻尾もない。それどころか、目も鼻すらない。

「これが気になるか?」
「はい。初めて見る生き物なので、つい目が行ってしまいました」
「ここの番人だ」
「へぇ……へ!? あ、あの千の顔を持つ三匹の!?」

 ゼネスが驚いて声を上げると、毛玉は三つに分裂し、そのうちの一匹が彼の頭の上に飛び乗った。羽の様に軽く、乗っているとこちらが自覚をしていないと分からない程だ。

「山より大きいなんて噂があったので、てっきり……」

 恐る恐る触れてみると、体温を感じられる。しかし、呼吸運動や吐かれる息はない。大蛇や怪鳥とは別次元の不思議な生き物だ。

「今の姿も戦法の内だ。ただ正面に陣取るだけが、全てではない」

 この小さな姿であれば、柱の影から侵入者の隙を伺い、鋭利な牙や爪を持つ獣の姿やその一部に変化させ、一気に仕留める事も可能だ。千の顔とは比喩であり、彼等には何億通りもの生物の情報とそれを扱うにふさわしい知能を兼ね備えている。その証拠に、神殿の壁沿いには、彼等に挑戦をした勇士達の遺品が山のように転がっている。
 彼らを退け冥界下りを開始で来た英雄は、ゼネスが知る限りでも2人だけ。自然をも動かすほどに音楽に長けた英雄と、アイデンを上回る強靭な肉体と武術の才を持つ英雄。前者は獣達の心を動かす程の類稀なる美しい曲によって眠らせ、後者は体重と防御力を変化させる3匹を同時に槍の柄で薙ぎ払い、すかさず階段を降りた。どちらも至難の業だ。

「凄い生き物なんですね……」

 ゼネスは感心しつつ頭の上にいる毛玉を撫でていると、シャルシュリアの腕の中にいる毛玉が彼の右頬に擦り寄る。シャルシュリアはほんの少し口元を緩め、目を細める。玉座に居た時とは、全く別の柔らかな表情。
 レガーナの様に、三匹の獣達の様子を見に来たのだろう。シャルシュリアが彼等を深く愛しているのが感じ取れる。
 思わずゼネスは見惚れてしまった。

「それで、剣とその装備品は見つかったか?」

 シャルシュリアが目線をこちらへ向けられたとほぼ同時に、ゼネスは思わず毛玉から手を離した。しかし毛玉はまだ触っていて欲しかったのか、頭から降りて彼の視界を遮る。

「うわっ、ちょ、その、こ今回は見つかりませんでした。登り続け、入った部屋を見て回るのではなく、各層ごとに念入りに探した方が良さそうです」

 慌てて毛玉を持ち上げながら、愛想笑いをしながらゼネスは答える。見つめていたのがバレなくて安堵するものの、これはこれで恥ずかしい。

「やはり、そう簡単には見つからないか」

 戯れているだけと思っているのか、特に気にせずシャルシュリアは言う。最初に会った時と同じ冷たい表情に戻ってしまい、ゼネスはどこか寂しさを感じる。

「あっ」

 毛玉はゼネスの腕の中から飛び降り、他二匹と一緒に床の上をころころと回転しながら移動を開始する。

「あの子達は持ち場へ戻るそうだ。私も館へ戻るとしよう」

 シャルシュリアはそう言って、手を床へとかざす。蝋燭の灯りによって生み出された影は実体を取得し、浮かび上がると大きな扉を形成する。

「おまえはどうする?」
「ここの掃除をした後に、戻ります」

 館のベッドで休みたい欲求もあるが、神殿の中はまだ掃除と剣の捜索をしていない。疲れていたゼネスであったが、彼と会話するうちに最後までやりきると意思が固まった。

「真面目だな」

 シャルシュリアは皮肉の思いを込めず素直にそう言った。
 本人は気づいていないが、ゼネスの羽織るローブには血や泥の汚れが染みつき、背中や肩には植物の種が大量についている。 
 地上の神は華々しい活躍を好み、地道な努力や汚れ仕事は好かない者が多い。鍛冶の神や戦の神の様に楽しみを見出す者もいるが少数派だ。華々しい2神の子であるゼネスは、シャルシュリアの想定以上に与えられた職務を真剣に取り組んでくれている。
 それは、シャルシュリアにとって好感が持てるものだ。

「手を出せ」
「はい?」

 ゼネスが右手を差し出す。シャルシュリアは彼の手を掴む。
 彼の白銀の髪と大振りの耳飾りが揺れ、ゼネスの手の平へ金色の鍵を置いた。

「保管庫の鍵だ。どの層のものでも使えるようにしてある。こちらも早いうちに確認しておくと良い」
「は、はい……」
「ちゃんと休みは取るんだぞ」
「気を付けます」

 シャルシュリアは答えを聞くと、直ぐに影の扉の中へと消えて行った。扉は砂の様に崩れ落ち、灯りによって床に延びる柱の影へと溶けていく。
 一人残されたゼネスは、まだ冷たい感触の残る右手を見つめる。
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