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一章

12話

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 翌日の早朝。クォギアは昨晩の件あり、あまり眠れなかった。
 神に抱擁され、微笑みを向けられ、信者が感激する。そんな単純に表せるものではない。
 自分の持つ無数の傷口に、当然のように触れられた。驚き、戸惑い、喜び……と、壁を作り続ける自分自身にここまで感情が湧き上がるとは思わなかった。
 人として、裁縫師として、ディルギスにどう接するべきか。
 ぐるぐると何度も考えては却下を繰り返した為、意識が覚醒し続け、ようやく疲れて眠ったのが夜明け前であった。

「はぁ……」

 何度ため息をつけば良いのか。
 風呂場に設置された洗面台で顔を洗わせてもらい、その後調理場へ向かい昨晩持って帰って来た蒸しパンと豚の串焼き、野菜炒めを食べた。
 世話係がいないので、ディルギスの朝の支度はクォギアがしなければならない。用意を済ませた後、適温のお湯が入った桶とタオルを手に寝台の前に立った。
 一度大きく深呼吸をした後、クォギアはほんの少し天幕に隙間を作り、声を通りやすくする。

「ディルギス様。おはようございます」
「うん。おはよう」

 天幕を開けて、ディルギスは出て来た。寝苦しかったのか、シャツの襟元のボダンを二つ開けてある。

「よく眠れましたか?」
「多少は。おまえこそ、どうだった?」
「慣れない場所だと緊張してしまって、あまり……」

 ディルギスはお湯で顔を洗い、クォギアからタオルを受け取る。

「無理をするなよ」
「はい」

 彼の眼差しは、遠い何かを懐かしむようだ。
 顔を洗い終えると、髪をヘアブラシで整え、新しいシャツに着替える。本来は使用人が担当すべきだが、簡易ならば自分でやる、とディルギス1人で全て行った。

「簡素なものですが、用意しました」

 木の皮で編んだサンダルが床の上に置かれている。

「そうか。苦労を掛ける」

 ディルギスの足の大きさを目で大雑把に測り、靴屋で買ったものだが、彼の足が丁度収まった。

「自分用に買ったもので、安物ですが……紅茶、淹れましょうか?」
「あぁ、頼む」

 生物としての食欲は完全に無くなっていない、とクォギアは密かに安心する。
 ティーセットと茶葉の入った缶が置かれた食事用のワゴンを寝台の近くへと持っていく。
 少し値段が高めの紅茶の茶葉。簡素に見えるが、どの様な場所でも溶け込める洗練されたデザインの白いティーポットとカップ。有名デザイナーを雇い、大きな焼き物工房が大量生産した品で、茶器の中では安価な部類に入が、丈夫で洗いやすいことから日常使いに愛用している人が多い。

「昨晩は、色んな場所を見て回ったんだな」
「はい。これから私物の買い物は北区の店中心になるので、夕食がてら物色していました」

 水の魔法で茶器を洗い、紅茶を淹れる準備をする。

「どうだった?」
「賑やかで活気がありました。店の品揃えも良かったです。皆さん明るくて……ディルギス様の事を気に掛けていらっしゃいました」
「…………そうか」

 ディルギスの表情は差ほど変らず、感情の色を見せない。
 お湯が注がれたティーポットの茶葉が蒸れるまでの間、2人は沈黙してしまう。
 小鳥の囀りが聞こえる。神殿の何処か寒さを感じる空気が、徐々に和らいできたのを感じる。

「今度は、庭でお茶の時間を設けましょうか」

 温められたティーカップへと紅茶が注がれる。
 満たされていくカップを見つめ、ディルギスがゆっくりと瞬きをした。

「まずは整備が必要だな。散歩道すら無さそうだ」

 口元には、僅かに笑みが零れている。
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