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番外編 ウルゲンチ戦ーーモンゴル崩し
第54話 最終章 死地のその先20
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人物紹介
モンゴル側
チンギス・カン:モンゴル帝国の君主
チャアダイ:同上の第2子
オゴデイ:同上の第3子
人物紹介終了
チャアダイは宿営地に入るとすぐにカラチャルらを率いてチンギスの天幕に向かった。
どうあっても怒られるものと想いつつも、チャアダイはあえて詫びは述べず、言葉少なにただ
「ウルゲンチを落とし、こうして戻りました。」と報告した。
略奪品や捕虜は既にボオルチュが一手に引き受けて先に運んでおったので、それを捧げることもできず、形ばかりであれ父上を喜ばせることもできなかった。果たして誰にそして何に向けられておるのか己でさえ分からぬ怒気が声に籠もることを抑えられなかった。
ただチンギスは叱るどころか、穏やかにチャアダイを迎え、その挨拶振りをとがめられることもなかった。
「チャアダイよ。ご苦労であった。後ほど歓迎の宴を開くゆえ、それまで休み、軍征の疲れを取るが良い。そこでまたゆるりと話をしようぞ」
(果たしてオゴデイが取りなしてくれたのか)
天幕を出ながら、解せぬチンギスの優しさの理由についてチャアダイはとりあえずそう考えることにした。
ようやく軍装を解き、また少しとはいえ休んだこともあるのであろう。何より先の謁見にてのチンギスの温かさのゆえに、さすがのこの者の気持ちも緩んだか。宴の席に着いたチャアダイの表情は、先ほどとは打って変わって柔らかいものとなっておった。
隣の席のオゴデイは、今日ばかりは父上にも我にもとがめられることはないと想ったのか、始まる前から既に酩酊しており、父上への取りなしの件もモエトゥケンの件も尋ねることはできぬ有り様であった。
自らのために父上が開いてくれる宴である。まずはご挨拶にと、父上が一段高きところに座を占めるや、その前に進み出てひざまずいた。しかしチャアダイが口を開く前に、父上の怒声が聞こえた。少しざわついておった宴の席が一瞬で静まり返る。
「チャアダイよ。そなたはまた我が命に従わなかった。そうやって全てを台無しにしてしまう」
ウルゲンチのことを叱責されておるものと想い、チャアダイは振り仰いだ。ただその表情は恐れおののくどころか不遜なものであった。恐れておらぬ訳ではない。どうしてもこんな顔になってしまうのであった。
とはいえそれがその場にふさわしい表情か否かは全く別の話であり、父上の怒りに油を注ぐことはこれまでも度々あった。また叱られるのか。
父上の顔が目に入る。ただそれは声の発する怒りにふさわしいものではなかった。むしろ悲しげでさえあった。ただそれゆえにこそチャアダイは戸惑った。果たして父上はなぜそのような顔をされておるのか。
とはいえ続け様に発される父上の言葉がそれを問うことを許さぬ。
「我の命に決して逆らわぬと誓うか」
「はい」
その内心でいかに疑問が渦巻こうとまずはそう答えざるを得ぬ。
「それでは泣かぬと誓えるか」
惑いを大きくせざるを得なかった。父上の言っておることが理解できなかったのだ。子供時分でさえ父上に叱られても、泣くは恥と想い涙をこらえたチャアダイである。ましてや成人して後、父上に涙を見せた記憶はなかった。
父上は我に何を求めておられるのか。助けを求めオゴデイの方を見る。ただオゴデイは目が合うとすぐに下を向いた。どうやら泥酔しておる訳ではないらしい。あるいは父上の勘気を目の当たりにして酔いも吹っ飛んだか。いずれにしろ自身に怒りが及ぶのを恐れておるのだ。
頼りにならぬ奴との憤慨混じりに、今度は側近たちの方を見回すが、何故か顔をそらし、視線を合わそうとすらせぬ。助け船を出してくれても良さそうなボオルチュでさえ例外ではなかった。
「泣かぬと誓うか」
再びチンギスの怒声であった。何故そのような戯れ言まがいのことを我に言われるのか。さすがにそう口に出して問うことはできずとも、その想いを以てチャアダイはにらみ上げた。
ただ父上の表情からはやはり悲しみしか読み取れなかった。オゴデイやボオルチュが何かを言うことをためらうほどの憤怒は愚か、怒りの一片さえないと言って良かった。
チャアダイは遂に一つのことに想い至った。察しが良いとは言えぬ。むしろ常に内に何らかの憤りを抱えておるゆえに、周囲のことに鈍感とさえ言えるこの者であったが。
それでもここが戦場であること。更にはチンギスの表情と言葉。オゴデイ以下の振る舞い。それらが一番に顔を見せるべき我が子モエトゥケンの不在とつながったのである。
「はい」
ようやくそう誓った時には既に涙が溢れそうになっておった。急いで下を向き、
「失礼とは存じますが、中座することを許して頂けますか。慣れぬ地の水ゆえ、このところ、おなかの調子が悪いのです」
自分でも信じられぬほどすらすらと嘘が出た。
「許す。我が命を忘れるなよ」
とのみチンギスは告げた。
それからチャアダイは涙が乾ききるまで席に戻ることはなかった。といって宴の主賓がいつまでも戻って来ぬようではと、呼び戻しに来る者もおらなかった。
モンゴル側
チンギス・カン:モンゴル帝国の君主
チャアダイ:同上の第2子
オゴデイ:同上の第3子
人物紹介終了
チャアダイは宿営地に入るとすぐにカラチャルらを率いてチンギスの天幕に向かった。
どうあっても怒られるものと想いつつも、チャアダイはあえて詫びは述べず、言葉少なにただ
「ウルゲンチを落とし、こうして戻りました。」と報告した。
略奪品や捕虜は既にボオルチュが一手に引き受けて先に運んでおったので、それを捧げることもできず、形ばかりであれ父上を喜ばせることもできなかった。果たして誰にそして何に向けられておるのか己でさえ分からぬ怒気が声に籠もることを抑えられなかった。
ただチンギスは叱るどころか、穏やかにチャアダイを迎え、その挨拶振りをとがめられることもなかった。
「チャアダイよ。ご苦労であった。後ほど歓迎の宴を開くゆえ、それまで休み、軍征の疲れを取るが良い。そこでまたゆるりと話をしようぞ」
(果たしてオゴデイが取りなしてくれたのか)
天幕を出ながら、解せぬチンギスの優しさの理由についてチャアダイはとりあえずそう考えることにした。
ようやく軍装を解き、また少しとはいえ休んだこともあるのであろう。何より先の謁見にてのチンギスの温かさのゆえに、さすがのこの者の気持ちも緩んだか。宴の席に着いたチャアダイの表情は、先ほどとは打って変わって柔らかいものとなっておった。
隣の席のオゴデイは、今日ばかりは父上にも我にもとがめられることはないと想ったのか、始まる前から既に酩酊しており、父上への取りなしの件もモエトゥケンの件も尋ねることはできぬ有り様であった。
自らのために父上が開いてくれる宴である。まずはご挨拶にと、父上が一段高きところに座を占めるや、その前に進み出てひざまずいた。しかしチャアダイが口を開く前に、父上の怒声が聞こえた。少しざわついておった宴の席が一瞬で静まり返る。
「チャアダイよ。そなたはまた我が命に従わなかった。そうやって全てを台無しにしてしまう」
ウルゲンチのことを叱責されておるものと想い、チャアダイは振り仰いだ。ただその表情は恐れおののくどころか不遜なものであった。恐れておらぬ訳ではない。どうしてもこんな顔になってしまうのであった。
とはいえそれがその場にふさわしい表情か否かは全く別の話であり、父上の怒りに油を注ぐことはこれまでも度々あった。また叱られるのか。
父上の顔が目に入る。ただそれは声の発する怒りにふさわしいものではなかった。むしろ悲しげでさえあった。ただそれゆえにこそチャアダイは戸惑った。果たして父上はなぜそのような顔をされておるのか。
とはいえ続け様に発される父上の言葉がそれを問うことを許さぬ。
「我の命に決して逆らわぬと誓うか」
「はい」
その内心でいかに疑問が渦巻こうとまずはそう答えざるを得ぬ。
「それでは泣かぬと誓えるか」
惑いを大きくせざるを得なかった。父上の言っておることが理解できなかったのだ。子供時分でさえ父上に叱られても、泣くは恥と想い涙をこらえたチャアダイである。ましてや成人して後、父上に涙を見せた記憶はなかった。
父上は我に何を求めておられるのか。助けを求めオゴデイの方を見る。ただオゴデイは目が合うとすぐに下を向いた。どうやら泥酔しておる訳ではないらしい。あるいは父上の勘気を目の当たりにして酔いも吹っ飛んだか。いずれにしろ自身に怒りが及ぶのを恐れておるのだ。
頼りにならぬ奴との憤慨混じりに、今度は側近たちの方を見回すが、何故か顔をそらし、視線を合わそうとすらせぬ。助け船を出してくれても良さそうなボオルチュでさえ例外ではなかった。
「泣かぬと誓うか」
再びチンギスの怒声であった。何故そのような戯れ言まがいのことを我に言われるのか。さすがにそう口に出して問うことはできずとも、その想いを以てチャアダイはにらみ上げた。
ただ父上の表情からはやはり悲しみしか読み取れなかった。オゴデイやボオルチュが何かを言うことをためらうほどの憤怒は愚か、怒りの一片さえないと言って良かった。
チャアダイは遂に一つのことに想い至った。察しが良いとは言えぬ。むしろ常に内に何らかの憤りを抱えておるゆえに、周囲のことに鈍感とさえ言えるこの者であったが。
それでもここが戦場であること。更にはチンギスの表情と言葉。オゴデイ以下の振る舞い。それらが一番に顔を見せるべき我が子モエトゥケンの不在とつながったのである。
「はい」
ようやくそう誓った時には既に涙が溢れそうになっておった。急いで下を向き、
「失礼とは存じますが、中座することを許して頂けますか。慣れぬ地の水ゆえ、このところ、おなかの調子が悪いのです」
自分でも信じられぬほどすらすらと嘘が出た。
「許す。我が命を忘れるなよ」
とのみチンギスは告げた。
それからチャアダイは涙が乾ききるまで席に戻ることはなかった。といって宴の主賓がいつまでも戻って来ぬようではと、呼び戻しに来る者もおらなかった。
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