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番外編 ウルゲンチ戦ーーモンゴル崩し
第42話 最終章 死地のその先8ーートクチャルはといえば
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先話にて述べたアミーン・アル・ムルクのヘラートからの逃走。本話にては、この経緯を述べるとしよう。
トクチャルはその新婚の初夜を迎えた後の妻の上気した顔を憶えていた。そして恥ずかしげに白き絹の衣でそれまであらわになっておった裸身を覆い隠してからの「どうかご無事にお戻り下さい」との言葉も。それから幾度、戦に出たであろうか。その度ごとに妻は同じ言葉でトクチャルを送り出してくれた。
分かっておる。こたびもそう答えたが、何か大きな功を上げたいとの想いは、トクチャルの内にずっと強くあった。
「あの者は運が良いだけだ」
「己の力ではない」
「妻のおかげだよ」
そうした声はトクチャルの耳にも入って来ておった。
トクチャル自身全く軍征の経験がない訳ではない。先の金国遠征時には留守営の守りを、またメルキト勢への追討においては先鋒軍を託されもした。
それでも古くから仕える武将達に比べれば、その功績は明らかに見劣りし、その委ねられる大任は、そもそもこの者が姻族たるオンギラトの血統のゆえ――チンギスの正妻ボルテはこの出身である――そして更にはチンギスの娘をもらったゆえであることは、他人に言われずとも、トクチャル自身が重々承知しておった。
そしてそうした声はやはりこの西方への進軍中にも聞かれたし、己がジェベ、スベエテイに続いてスルターン追討の万人隊を指揮することになると、更に強くなった。副官として常にかたわらにいてくれる従弟(年下のいとこ)は「やっかみだ。気にするな」と言ってくれたが。見返してやる。勲功を上げて。との心持ちが日々強くなっておった。
果たしてそのゆえか。高ぶった心のままに追討軍を指揮しておったゆえか。はやる心のままに、ことを進めんとしたゆえか。トクチャルは気付いたら、軍令違反の咎に問われておった。
己は敵を追い、敵と戦い、敵を捕らえあるいは殺し、そして当然のこととして略奪した。それとも己が対したのは敵ではなかったのか。先に矢を放ったはあやつらでなかったか。先に槍を突き入れたはあやつらでなかったか。
スルターン・ムハンマドを追ってホラーサーンを進軍しておったトクチャルであったが、チンギスからの早馬により、部隊の進軍中止並びに帰還の命と共に、自身は至急の呼び出しを受けた。
「何かの間違いであろう」
想わずトクチャルはそう問い返した。
「いえ。カンは確かにそのようにトクチャル・駙馬へ伝えるよう命じられました」
と伝令は返すのみ
「我も間違いではと想います。しかし戻りませぬと更に軍令違反を重ねることになり、それでは余計にカンのお気持ちを損ねることになりましょう。ここは至急お戻りになり、まずは申し開きをされることです」
と従弟に諭された。
「そうだな。それしかあるまい」
しぶしぶトクチャルは己を納得させると、チンギスの下に赴くことにした。
しかしそのトクチャルの声にチンギスが耳を貸すことはなかった。そしてただこっぴどく叱られた。いかに敵が先に矢を放ったのです。私が殺したのは略奪したのは敵なのですよと申し上げても、聞き入れてもらえなかった。
「お前が我の許しを請うことなく、攻めて、略奪をなしたために、アミーン・アル・ムルクは恐れ、逃れ、敵側に付いたではないか」と責められ、「本来なら、斬るところだ」とさえ告げられ、万人隊長の任を解かれた。
トクチャルはまるで悪い夢を見ておるようであった。いつも通りをなしたはずであるのに。カンはまさか我に敵に矢を射かけられるままにしておれと、そう言われるのか。トクチャルは憧れを抱いておったカンに言われたことも、その下された処罰も、今の状況も、その全てが信じられず、受け入れられず、煩悶し続けるしかなかった。
しかしそのようなトクチャルにも助け船を出してくれる者が現れた。トゥルイであった。わざわざ自らトクチャルの天幕を訪ねて来た。トクチャルはチンギスに近付くことを禁じられており、その天幕も軍営の端へ――本来、婿殿の地位には相応しくないところへと遠ざけられておった。
トクチャルはトゥルイに天幕の一番奥の主人の座を譲ると、その前にひざまずいた。
「我が父上に話をしておいた。そなたの身は我の預かりとなった」と言われ、更には「先鋒軍を任せたい。そこで功を上げれば、カンもお許しになろう」と続けられた。
トクチャルは余りの驚きにしばし黙り込み、
「あり難きことです。何とお礼を申し上げれば良いのか、分かりませぬ」
ようやく、つかえつつ何とか答えた。
「先の任務はそなたには不向きであったのだ。また我が姉妹をめとったために、そなたを羨み悪く言う者もおる。それがカンのお耳に入っておるは確かだ」
「カンはそのような言葉をお信じになるのですか」
それに対してはトゥルイは直接には答えずに、
「心配するな。トクチャル。我はそなたの味方だ。そなたの勇敢さは我がモンゴルにとって欠かすべからざるもの」
トクチャルはそう言われ、ただ無言で涙に暮れた。
トゥルイは外に待たせておった己の近習を呼ばわり、酒の入った革袋を持って来させ、自ら一口呑んで
「先鋒軍をよろしく頼むぞ」と告げてから、それをトクチャルに差し出した。
トクチャルは震える手でそれを受け取り、飲み干した。こぼれるのもかまわずに一気に。
「当たり前のことだ」そう言い残し、トゥルイは去った。
結局、この先鋒軍任命は、ニーシャープール攻めにてのトクチャルの戦死という悲劇的な結末を迎える。
人物紹介
モンゴル側
トゥルイ:チンギスと正妻ボルテの間の第4子。
人物紹介終了
トクチャルはその新婚の初夜を迎えた後の妻の上気した顔を憶えていた。そして恥ずかしげに白き絹の衣でそれまであらわになっておった裸身を覆い隠してからの「どうかご無事にお戻り下さい」との言葉も。それから幾度、戦に出たであろうか。その度ごとに妻は同じ言葉でトクチャルを送り出してくれた。
分かっておる。こたびもそう答えたが、何か大きな功を上げたいとの想いは、トクチャルの内にずっと強くあった。
「あの者は運が良いだけだ」
「己の力ではない」
「妻のおかげだよ」
そうした声はトクチャルの耳にも入って来ておった。
トクチャル自身全く軍征の経験がない訳ではない。先の金国遠征時には留守営の守りを、またメルキト勢への追討においては先鋒軍を託されもした。
それでも古くから仕える武将達に比べれば、その功績は明らかに見劣りし、その委ねられる大任は、そもそもこの者が姻族たるオンギラトの血統のゆえ――チンギスの正妻ボルテはこの出身である――そして更にはチンギスの娘をもらったゆえであることは、他人に言われずとも、トクチャル自身が重々承知しておった。
そしてそうした声はやはりこの西方への進軍中にも聞かれたし、己がジェベ、スベエテイに続いてスルターン追討の万人隊を指揮することになると、更に強くなった。副官として常にかたわらにいてくれる従弟(年下のいとこ)は「やっかみだ。気にするな」と言ってくれたが。見返してやる。勲功を上げて。との心持ちが日々強くなっておった。
果たしてそのゆえか。高ぶった心のままに追討軍を指揮しておったゆえか。はやる心のままに、ことを進めんとしたゆえか。トクチャルは気付いたら、軍令違反の咎に問われておった。
己は敵を追い、敵と戦い、敵を捕らえあるいは殺し、そして当然のこととして略奪した。それとも己が対したのは敵ではなかったのか。先に矢を放ったはあやつらでなかったか。先に槍を突き入れたはあやつらでなかったか。
スルターン・ムハンマドを追ってホラーサーンを進軍しておったトクチャルであったが、チンギスからの早馬により、部隊の進軍中止並びに帰還の命と共に、自身は至急の呼び出しを受けた。
「何かの間違いであろう」
想わずトクチャルはそう問い返した。
「いえ。カンは確かにそのようにトクチャル・駙馬へ伝えるよう命じられました」
と伝令は返すのみ
「我も間違いではと想います。しかし戻りませぬと更に軍令違反を重ねることになり、それでは余計にカンのお気持ちを損ねることになりましょう。ここは至急お戻りになり、まずは申し開きをされることです」
と従弟に諭された。
「そうだな。それしかあるまい」
しぶしぶトクチャルは己を納得させると、チンギスの下に赴くことにした。
しかしそのトクチャルの声にチンギスが耳を貸すことはなかった。そしてただこっぴどく叱られた。いかに敵が先に矢を放ったのです。私が殺したのは略奪したのは敵なのですよと申し上げても、聞き入れてもらえなかった。
「お前が我の許しを請うことなく、攻めて、略奪をなしたために、アミーン・アル・ムルクは恐れ、逃れ、敵側に付いたではないか」と責められ、「本来なら、斬るところだ」とさえ告げられ、万人隊長の任を解かれた。
トクチャルはまるで悪い夢を見ておるようであった。いつも通りをなしたはずであるのに。カンはまさか我に敵に矢を射かけられるままにしておれと、そう言われるのか。トクチャルは憧れを抱いておったカンに言われたことも、その下された処罰も、今の状況も、その全てが信じられず、受け入れられず、煩悶し続けるしかなかった。
しかしそのようなトクチャルにも助け船を出してくれる者が現れた。トゥルイであった。わざわざ自らトクチャルの天幕を訪ねて来た。トクチャルはチンギスに近付くことを禁じられており、その天幕も軍営の端へ――本来、婿殿の地位には相応しくないところへと遠ざけられておった。
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それに対してはトゥルイは直接には答えずに、
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「当たり前のことだ」そう言い残し、トゥルイは去った。
結局、この先鋒軍任命は、ニーシャープール攻めにてのトクチャルの戦死という悲劇的な結末を迎える。
人物紹介
モンゴル側
トゥルイ:チンギスと正妻ボルテの間の第4子。
人物紹介終了
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