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第3部 仇(あだ)
85:母と子2:ウルゲンチのテルケン・カトン2
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この後の数日間も続々と敗残の兵がここウルゲンチに到着しており、テルケンもわざわざ自ら出迎え、逃走の労苦をねぎらっておった。
フマルもそれに付き添い、更には食糧や宿営に不足がないか見て回り、足りぬところは手配を命じた。それもあって強い疲労の中で寝床に就く毎日であったのだが。
再び呼び出された。しかも夜中にもかかわらずである。
テルケンの傍らには、いつもおる侍女たちの他に、先客がおった。その大のお気に入りであるニザーム・アル・ムルクである。
挨拶のために近寄りひざまずかんとするのを、「よい。今日は儀礼は無用だ」とテルケンに止められた。
テルケンは長椅子に座しておった。その傍らの台上にて、宮女たちが宝玉をあしらった金や銀の装飾品をいかにも大切そうに布に包んでから箱に詰めておった。何のためにそんなことをしておるのか、そう想いその様に気を取られておると、
「タガイが戻って来ておらぬ」
とテルケンが口を開いた。
「まだ将兵が戻って来ておる最中です。希望はありましょう」
タガイは己にとっても兄弟であり、その生を願う気持ちはテルケンに劣らぬ。
テルケンは急に話を転じた。
「あのチンギスという輩はここに大軍を差し向けると想うか」
こちらが本題か。そう想うも、フマルは肝心の返答には窮した。新しき首都たるサマルカンドを落としたならば、次はかつての首都にして帝国発祥の地たるウルゲンチであろうとは誰もが考えること。
「フマルよ。やはり息子の勧めに従い、マーザンダラーンへ逃げることにしたぞ」
(注 マーザンダラーン:カスピ海南岸の山岳地帯)
異議を唱えることはできなかった。モンゴルに負ける気はなかったし、先日は守ってみせるとの気構えは示した。
ブハーラーやサマルカンドから逃げてきた将によれば、敵軍は十万から五十万までと大きくばらついておった。中にはそれを大きく越える数を報告する者もおったが、そこまでとは想い難かった。それでもかつてない、見たことがない、信じ難いとも言っておれば、ウルゲンチもまた少なくともこれまで経験したことのない大軍による攻囲を覚悟せねばならぬ。となれば、必ず守りますとは正直言い切れぬ。必ず勝てる戦でないことは残念ながらフマルにとっても明らかとなっておった。
「後はそなたに任せる。タガイが戻って来て、きっと助けてくれよう」
その言葉はフマルの心にむなしさしかもたらさなかった。
「この者は我と共に連れて行く」と言って、ニザームの方を目で示した。
こいつはテルケンからスルターンの元に送られておったが、その勘気に触れ、処刑すべしとして戻された。しかしテルケンは従わず、それどころか大歓迎にて迎え入れ、更には孫であり皇太子でもあるウーズラーグのワジール(この語は宰相を指す時もあるが、ここでは財務官)に任命した。そんな親子喧嘩を演じることができたのも、モンゴル侵攻前ならばのこと。
フマルはのどかな過去への郷愁に心を捉えられかけたが、それが長続きすることはなかった。未だ見ぬモンゴルの大軍は既にフマルの心にも重くのしかかり始めておった。ニザームはテルケンの個人財産や領地からの税収の管理官でもあったはず。持って行ける財産は全て持って行くということか。
「それから人質は全員殺せ。あの王どもだ。アムダリヤ川に沈めよ」
やはり平静な声がそう付け加えるのを聞いた。
ああ。我らが負けると判断されたか。でなければ、このウルゲンチに捕らえられておる者たち、既に征服した国々のかつての支配者たちを殺せとは命じぬはずだ。
「我が伴う護衛は少しで良い。ここはあれに従うとしよう。モンゴルに見つかりたくはないからな」
戦いもせず、ひたすら逃げ続ける子が子ならば、やはり親も親だ。遂にフマルは心中でそう吐き捨て、そしてこれ以上この場におる必要はまったくないと想いなした。
「それでは準備の件は、このワジールに頼まれるということでよろしいですか」
「ああ。一応そなたには告げておこうと想っただけだ」
親子共共我らを見限っておいて何を言うかとの憤懣が湧き上がり、それが表情に出るのを悟られる前に、フマルはテルケンに背を向けた。
ただ逃げるという道が、戦わぬという法があるなら、それを求めるべきではないか。その想いがフマルの心中に生じたのは、この時からであったかもしれぬ。いずれにしろ、その余りの憤りのために、自ら気付くことはなかったが。
人物紹介
ホラズム側
テルケン・カトン:先代スルターン・テキッシュの正妻にして、現スルターン・ムハンマドの実母。カンクリの王女。
フマル・テギン:ウルゲンチの城主。テルケンの弟。カンクリの王族。この者は先のダーニシュマンドの訪問時、テルケンの謁見に同席した。(第3部第52話 テルケン・カトンへの使者3:ダーニシュマンドの野心7参照)
タガイ・カン:サマルカンド城代。テルケン・カトンの弟。カンクリの王族。
ニザーム・アル・ムルク:現在は皇太子ウーズラーグ・シャーのワジール。話中のスルターンとの絡みは、第1部第3章『和平協定3(スルターンとオグル、そしてニザーム)』にあります。
人物紹介終了
フマルもそれに付き添い、更には食糧や宿営に不足がないか見て回り、足りぬところは手配を命じた。それもあって強い疲労の中で寝床に就く毎日であったのだが。
再び呼び出された。しかも夜中にもかかわらずである。
テルケンの傍らには、いつもおる侍女たちの他に、先客がおった。その大のお気に入りであるニザーム・アル・ムルクである。
挨拶のために近寄りひざまずかんとするのを、「よい。今日は儀礼は無用だ」とテルケンに止められた。
テルケンは長椅子に座しておった。その傍らの台上にて、宮女たちが宝玉をあしらった金や銀の装飾品をいかにも大切そうに布に包んでから箱に詰めておった。何のためにそんなことをしておるのか、そう想いその様に気を取られておると、
「タガイが戻って来ておらぬ」
とテルケンが口を開いた。
「まだ将兵が戻って来ておる最中です。希望はありましょう」
タガイは己にとっても兄弟であり、その生を願う気持ちはテルケンに劣らぬ。
テルケンは急に話を転じた。
「あのチンギスという輩はここに大軍を差し向けると想うか」
こちらが本題か。そう想うも、フマルは肝心の返答には窮した。新しき首都たるサマルカンドを落としたならば、次はかつての首都にして帝国発祥の地たるウルゲンチであろうとは誰もが考えること。
「フマルよ。やはり息子の勧めに従い、マーザンダラーンへ逃げることにしたぞ」
(注 マーザンダラーン:カスピ海南岸の山岳地帯)
異議を唱えることはできなかった。モンゴルに負ける気はなかったし、先日は守ってみせるとの気構えは示した。
ブハーラーやサマルカンドから逃げてきた将によれば、敵軍は十万から五十万までと大きくばらついておった。中にはそれを大きく越える数を報告する者もおったが、そこまでとは想い難かった。それでもかつてない、見たことがない、信じ難いとも言っておれば、ウルゲンチもまた少なくともこれまで経験したことのない大軍による攻囲を覚悟せねばならぬ。となれば、必ず守りますとは正直言い切れぬ。必ず勝てる戦でないことは残念ながらフマルにとっても明らかとなっておった。
「後はそなたに任せる。タガイが戻って来て、きっと助けてくれよう」
その言葉はフマルの心にむなしさしかもたらさなかった。
「この者は我と共に連れて行く」と言って、ニザームの方を目で示した。
こいつはテルケンからスルターンの元に送られておったが、その勘気に触れ、処刑すべしとして戻された。しかしテルケンは従わず、それどころか大歓迎にて迎え入れ、更には孫であり皇太子でもあるウーズラーグのワジール(この語は宰相を指す時もあるが、ここでは財務官)に任命した。そんな親子喧嘩を演じることができたのも、モンゴル侵攻前ならばのこと。
フマルはのどかな過去への郷愁に心を捉えられかけたが、それが長続きすることはなかった。未だ見ぬモンゴルの大軍は既にフマルの心にも重くのしかかり始めておった。ニザームはテルケンの個人財産や領地からの税収の管理官でもあったはず。持って行ける財産は全て持って行くということか。
「それから人質は全員殺せ。あの王どもだ。アムダリヤ川に沈めよ」
やはり平静な声がそう付け加えるのを聞いた。
ああ。我らが負けると判断されたか。でなければ、このウルゲンチに捕らえられておる者たち、既に征服した国々のかつての支配者たちを殺せとは命じぬはずだ。
「我が伴う護衛は少しで良い。ここはあれに従うとしよう。モンゴルに見つかりたくはないからな」
戦いもせず、ひたすら逃げ続ける子が子ならば、やはり親も親だ。遂にフマルは心中でそう吐き捨て、そしてこれ以上この場におる必要はまったくないと想いなした。
「それでは準備の件は、このワジールに頼まれるということでよろしいですか」
「ああ。一応そなたには告げておこうと想っただけだ」
親子共共我らを見限っておいて何を言うかとの憤懣が湧き上がり、それが表情に出るのを悟られる前に、フマルはテルケンに背を向けた。
ただ逃げるという道が、戦わぬという法があるなら、それを求めるべきではないか。その想いがフマルの心中に生じたのは、この時からであったかもしれぬ。いずれにしろ、その余りの憤りのために、自ら気付くことはなかったが。
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テルケン・カトン:先代スルターン・テキッシュの正妻にして、現スルターン・ムハンマドの実母。カンクリの王女。
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タガイ・カン:サマルカンド城代。テルケン・カトンの弟。カンクリの王族。
ニザーム・アル・ムルク:現在は皇太子ウーズラーグ・シャーのワジール。話中のスルターンとの絡みは、第1部第3章『和平協定3(スルターンとオグル、そしてニザーム)』にあります。
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