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第3部 仇(あだ)
55:オトラル戦19:イディクート
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「うるさいのう。鳥がおらぬようになってしまったではないか。そのせいで、最近うまい鳥肉が食えておらぬ」
ウイグル勢の首領たるイディクートがつぶやけば、
「まったくです」
と相対する者が応じる。
前者は30代、後者は一回りほど年長であり、オゲ(日本風に言えば家老職)の官職にあった。
かなりまばらになったとはいえ、投石が城壁に当たる轟音がここまで届いておったのである。炭火を焚くカマドのかたわらで、2人は盤面を挟んで座る。昔、ソグド人がマニ教と共にウイグルに持ち込んだチェスの1種であった。
その天幕は、オトラル城からだいぶ離れておった。ただ最初からではない。徐々に徐々に離れて行ったのだった。その居心地の悪さゆえと言って良い。といってオトラル攻めの指揮官たるチャアダイやオゴデイから文句が来ることもなかった。
「義兄上たちとて、我の姿を見れば、全く気をつかわぬという訳にも行かぬであろう。何せ、ウイグルのカンの血筋を引く我である。更には駙馬を約束された身である。我が近くにおらぬ方が気安いであろう」
などとイディクートは周囲に漏らしておった。
とはいえ、遊牧帝国の主と言い得たは遠き昔のことであった。また、この者も妻の尻にしかれており、というより、ひどく恐れるゆえに、チンギス・カンの娘との婚姻を先延ばしにしておった。ゆえに、この者が自負するほどであったかは、はなはだ疑わしい。
実際のところを言えば、この時、率いる騎馬兵は300そこそこ。これでは、戦力としては何の頼りにもならぬことは、誰の目にも、無論2人の王子にも明らかであった。
また、この者自身、なるべく戦というものに関わらずに、この遠征を終わり、故郷に帰りたい。そう願っておったゆえに、現況はある一点を除いてむしろ願ったり叶ったりではあった。
ただ、ウイグル勢がまったく役に立っておらなかった訳ではない。チャアダイとオゴデイ各々にビチェーチ(ここは狭義の書記官の意味)として派遣されておるは、このイディクートの配下であった。
ウイグル語はトルコ語の1種であり、それをウイグル文字にて表記しておった。この時、このウイグル文字をもって、モンゴル語を記録するようになっておったのだった。ところで、ウイグル文字も、やはりソグド人がもたらしたソグド文字にもとづく。
餅は餅屋に似た言葉がモンゴルにあったかは分からないが、まさにそういう格好になっておったのである。
互いの駒は手についた油のためにベトベトであった。羊肉が香ばしい匂いを上げ続けている。これは羊皮の中に肉と熱した石を入れ、更には外側からカマドの火であぶる――現代風に言えば、肉汁をたんまりと閉じ込めた料理であった。
この2人は、食べては一つの駒を動かし、動かしては食べるを繰り返しておった。
下ごしらえの手間に加え焼き上がるのに時間がかかる料理であるが、ウイグルの陣中は兵は少ないといえども、王族専用の料理人はおり、問題はない。またイディクート本人も、急いで何かをしなければならぬということは無論ない。むしろ料理人からそれを受け取った後は、自ら焼き加減を見ながらつまむという楽しみがあった。その点では、それもまた良しであった。
ただそれにありつけたのは、攻囲の始まりから少しの間に留まり、今はそれを夢想して垂涎するしかなかった。かたわらにあるは、干し肉を湯で戻したものであり、それで口寂しさをまぎらわすのみであった。冬ゆえということもあるが、王侯貴族たる彼らならば、必ずしもそれにしばられる必要は無いはずであった。
これまでに、生かしておった牡羊は、たびたび徴集されておったのだ。最前線の兵のためと言われれば拒めるはずもなかった。
それで鳥の不在を嘆くといったことになる訳である。配下の者に獲らせた鳥なら、誰はばかることなく――無論、まったく分けぬということは、自らの評判を悪くするだけなので避けるべきであるが――それでも優先的に自らが食べることはできるゆえに。
両人とも、この遠征に参加する前は太りじしと言って良い体つきであったが、今や、その面影はなかった。
(補足 1.西征の時にイディクートがどの程度の軍勢を率いたかは明らかではない。ただジュワイニーには、ナイマンのクチュルグ追討には300の兵を率いて参戦したとあるので、ここでも同数とした。少なすぎるかと想わぬでもないが、王侯貴族を除いてほとんどが農耕定住化したとすれば、こんなものかとも想う。
いずれにしろ、チンギスとしてはイディクートが参戦すれば、それで良しというか、最低限の義務は果たしたとみなしたのだろう。
2.イディクートのイディは『主』、クートはザルヌーク(第3部28話)のところで論じたクトルグと同意であり、ゆえに単純には『幸運の主』となる。これでは、なかなか様にならぬが、『天恵の主』、『天命の主』とすれば、日本語の語感にても悪くないとなろう。
3.家畜は冬が進み行くにつれ痩せて行くので、かつては冬の始まりに多少なりとも屠って冬に備えるのが一般的であった。干し肉にするか否かは、その地の気温などによる。モンゴルの如くの厳寒の地では保存目的では不要であるが、食味など他の理由で干し肉にすることもある)
ウイグル勢の首領たるイディクートがつぶやけば、
「まったくです」
と相対する者が応じる。
前者は30代、後者は一回りほど年長であり、オゲ(日本風に言えば家老職)の官職にあった。
かなりまばらになったとはいえ、投石が城壁に当たる轟音がここまで届いておったのである。炭火を焚くカマドのかたわらで、2人は盤面を挟んで座る。昔、ソグド人がマニ教と共にウイグルに持ち込んだチェスの1種であった。
その天幕は、オトラル城からだいぶ離れておった。ただ最初からではない。徐々に徐々に離れて行ったのだった。その居心地の悪さゆえと言って良い。といってオトラル攻めの指揮官たるチャアダイやオゴデイから文句が来ることもなかった。
「義兄上たちとて、我の姿を見れば、全く気をつかわぬという訳にも行かぬであろう。何せ、ウイグルのカンの血筋を引く我である。更には駙馬を約束された身である。我が近くにおらぬ方が気安いであろう」
などとイディクートは周囲に漏らしておった。
とはいえ、遊牧帝国の主と言い得たは遠き昔のことであった。また、この者も妻の尻にしかれており、というより、ひどく恐れるゆえに、チンギス・カンの娘との婚姻を先延ばしにしておった。ゆえに、この者が自負するほどであったかは、はなはだ疑わしい。
実際のところを言えば、この時、率いる騎馬兵は300そこそこ。これでは、戦力としては何の頼りにもならぬことは、誰の目にも、無論2人の王子にも明らかであった。
また、この者自身、なるべく戦というものに関わらずに、この遠征を終わり、故郷に帰りたい。そう願っておったゆえに、現況はある一点を除いてむしろ願ったり叶ったりではあった。
ただ、ウイグル勢がまったく役に立っておらなかった訳ではない。チャアダイとオゴデイ各々にビチェーチ(ここは狭義の書記官の意味)として派遣されておるは、このイディクートの配下であった。
ウイグル語はトルコ語の1種であり、それをウイグル文字にて表記しておった。この時、このウイグル文字をもって、モンゴル語を記録するようになっておったのだった。ところで、ウイグル文字も、やはりソグド人がもたらしたソグド文字にもとづく。
餅は餅屋に似た言葉がモンゴルにあったかは分からないが、まさにそういう格好になっておったのである。
互いの駒は手についた油のためにベトベトであった。羊肉が香ばしい匂いを上げ続けている。これは羊皮の中に肉と熱した石を入れ、更には外側からカマドの火であぶる――現代風に言えば、肉汁をたんまりと閉じ込めた料理であった。
この2人は、食べては一つの駒を動かし、動かしては食べるを繰り返しておった。
下ごしらえの手間に加え焼き上がるのに時間がかかる料理であるが、ウイグルの陣中は兵は少ないといえども、王族専用の料理人はおり、問題はない。またイディクート本人も、急いで何かをしなければならぬということは無論ない。むしろ料理人からそれを受け取った後は、自ら焼き加減を見ながらつまむという楽しみがあった。その点では、それもまた良しであった。
ただそれにありつけたのは、攻囲の始まりから少しの間に留まり、今はそれを夢想して垂涎するしかなかった。かたわらにあるは、干し肉を湯で戻したものであり、それで口寂しさをまぎらわすのみであった。冬ゆえということもあるが、王侯貴族たる彼らならば、必ずしもそれにしばられる必要は無いはずであった。
これまでに、生かしておった牡羊は、たびたび徴集されておったのだ。最前線の兵のためと言われれば拒めるはずもなかった。
それで鳥の不在を嘆くといったことになる訳である。配下の者に獲らせた鳥なら、誰はばかることなく――無論、まったく分けぬということは、自らの評判を悪くするだけなので避けるべきであるが――それでも優先的に自らが食べることはできるゆえに。
両人とも、この遠征に参加する前は太りじしと言って良い体つきであったが、今や、その面影はなかった。
(補足 1.西征の時にイディクートがどの程度の軍勢を率いたかは明らかではない。ただジュワイニーには、ナイマンのクチュルグ追討には300の兵を率いて参戦したとあるので、ここでも同数とした。少なすぎるかと想わぬでもないが、王侯貴族を除いてほとんどが農耕定住化したとすれば、こんなものかとも想う。
いずれにしろ、チンギスとしてはイディクートが参戦すれば、それで良しというか、最低限の義務は果たしたとみなしたのだろう。
2.イディクートのイディは『主』、クートはザルヌーク(第3部28話)のところで論じたクトルグと同意であり、ゆえに単純には『幸運の主』となる。これでは、なかなか様にならぬが、『天恵の主』、『天命の主』とすれば、日本語の語感にても悪くないとなろう。
3.家畜は冬が進み行くにつれ痩せて行くので、かつては冬の始まりに多少なりとも屠って冬に備えるのが一般的であった。干し肉にするか否かは、その地の気温などによる。モンゴルの如くの厳寒の地では保存目的では不要であるが、食味など他の理由で干し肉にすることもある)
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