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第3部 仇(あだ)
42:閑話3:キタイと沙陀:地図付き
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前書き
ちょっとイルキンが突厥に由来することを追記しようと想って調べていたら、またまた沼があり、少し足をひたしてみたら、底なし沼と分かり、急いで引き返しました。
そう、イルキンに関して、改訂及び追記を行いました。(2021.11.25)
前書き終わり
ようやくキタイさんと沙陀(さだ)さんである。
まず遼史の太祖[=耶律阿保機(やりつあぼき)]本紀から興味深きところを見てみよう。
『[年号は不明]時に小黄室韋は附かず、太祖は計を以てこれを降す。
[↑これは『第3部39話ブハーラー戦12:本丸戦4:亡霊3:阿海の夢』に出た大黄室韋の別れである]
唐の天復元年[西暦901]歳辛酉、痕徳董(コントクキン)可汗(カガン)は立ち[=即位し]、太祖を以て本部の夷離菫(イリキン)となす。
[太祖は]征討をもっぱらにし、室韋(シツイ)・于厥(ウケツ)及び奚(ケイ)の[元]帥の轄剌哥を連破し、俘[虜]を獲ること甚だ衆し。
冬10月、[太祖に]大迭烈府の夷離菫を授ける。
明年[902]秋7月、兵40万を以て河東の代北を伐ち、9郡を攻め下し、生口[=捕虜]9万5千を獲り、[駱]駝・馬・牛・羊は紀すに勝えるべからず[=多過ぎて記すことができない]。
明年[903年]春、女直[=女真]を伐ち、これを下し、その戸300を獲る。
これより先に[=かつて]徳祖[=阿保機の父]は奚の7千戸を俘[=捕虜]とし、饒楽の清河に徙したが、
是れに至りて[=この時]、創りて奚の迭剌部と為し、13県に分ける。
冬10月、遂に太祖は于越[オゲ=官職]を拜し、軍国事を総知す[=統べる]。』
[]はひとしずくの鯨による補足。
漢籍の旧暦(太陰歴)では、季節の割り振りは春1~3月、夏4~6月、秋7~9月、冬10~12月であり、閏月を入れて、太陽暦とのずれを修正する。
太陰歴では「日にち」は(お空にある)月により刻むので、まさに十五夜はいつも満月となり、3日はその名の通り三日月となる。
歴史時代にては、太陰歴の方が便利であろうとは想われる。何せお月様を見れば、おおよその日にちが分かる。
太陽歴とは皆さん御存知の通り今の日本の暦であり、天文との絡みでいえば、春分・夏至・秋分・冬至に合わせて暦を刻む。
でも、例えば現代でもテレビが無くなり、ネットが無くなれば、あれっ、今日何日だっけと確認しようと想っても、太陽歴ではなかなか難しいことは明らかである。
室韋・于厥は西のモンゴル高原におり、奚はすぐ南におり、河東代北は南西に少し離れた華北の地。女真は北東におる。
まさに阿保機さん、八面六臂の活躍振りである。
これは、この時のキタイの威勢を示すものであるとともに、もう一つのことを示しておる。
つまり、キタイというのは、四囲に敵がおるのである。
このことは、頭の隅に置いておいて良い。
ところで、後世の我々は、遙輦(ヨウレン)氏族出身の痕徳董カガンの死後、阿保機が即位することを知っている。
これは単にカガンの交替というには留まらぬ。
遙輦氏族と阿保機の氏族は異なり、それまで支配的であった遙輦氏族から、阿保機の氏族へとカガンの地位が移るのである。
当然、遼史の撰者も知っておれば、ここの時期の記事は、それを説明しうる出来事が選択されて記載されておると見て良い。
なるほど、阿保機は毎年の如く戦果を挙げている。
遊牧君主の資質の一つが優れた軍事指揮官たることは、あらためて説くまでもあるまい。
まさに、阿保機はそれを実証したのであるから、それを以てカガンに推戴され、即位した。
もちろん、これはこれで良いのだが、もう一つの側面として、阿保機の授けられた官称号である「大 迭烈(てつれつ)府の夷離菫 (イルキン、もしくはイリキン)」から考えてみたい。
イルキンとは、もともと突厥第一帝国が臣従する他の勢力のうち、特に有力なもの、ウイグルや薛延陀(せつえんだ)の首長に授けた称号とされる。
他方で、キタイでは、王族たる阿保機が帯びているのだから、このイルキンの官称号は変質しているといえる。
前者は単純で分かりやすい。
要は他の勢力のトップである。
ひるがえって、後者は何なのか?
ここで、それでは、まず「大迭烈府」とは何なのか? となる。
遼史の国語解は、これを「迭剌(テツラ)部の府」とする。
これについては現在、2案ある。
①遼史は確かに、太祖本紀などで、阿保機を迭剌部とするから、これを信じるなら、単純に出身部族の長と解することができる。
②他方で愛新覚羅[2006、26貢]は、契丹小字墓誌の解読を通じて、迭剌氏を奚の可汗の氏族とする。
ここで遼史記事中で注意を引くのが、「太祖が軍国事を総知する」の直前にある文である。
ここで注目したいのは「奚の迭剌部」との表現である。
通常、いわゆる部族名は、それを名乗る父系氏族が決まっている。
仮に迭剌部が阿保機の出身部族とすると、ここは、奚の捕虜を再編成して、奚の中に(阿保機の一族が支配する)迭剌部を創ったことになり、何のことか分からぬとなる。
ここは、奚の捕虜を再編成して、奚の(氏族たる迭剌氏が支配する)迭剌部を創ったとしないと意味が通らぬ。
(ところで、下記のいずれであるかは、はっきりしない。
・この迭剌氏が、そもそもこの奚の7千戸の長であり、その地位を保つを認めたのか、
・それとも、別に帰付しておった奚の迭剌氏を、この時、奚の捕虜たちの長として任命したのか)
また、上掲書によれば、阿保機の弟の迭剌(←人名)の子孫は、この奚可汗帳の迭剌氏と6度通婚したとある。
更にいえば、この弟自身の名が迭剌である。
これは、母が迭剌氏出身であり、そのゆえをもって名づけられた可能性が高い。
とすると、上記の文の「是れに至りて」は誤りの可能性が高い。
つまり奚の捕虜の再編成は徳祖の時なのではないかと想われる。
いずれにしろ、この奚の迭剌部は、徳祖に属したのであり、ゆえにこれは阿保機兄弟に相続されたはずである。
ゆえに、阿保機兄弟はかなりの軍勢を有することになったと想われる。
代北を伐ったとされる40万が誇張であるは明らかであるが、これの十分の一の4万としてさえ、これを阿保機の一族から出すのは難しかろう。
ゆえに、やはり阿保機は、遙輦氏を中核とする中央軍を委ねられておるとみて良かろう。
より厳密に言えば、遙輦氏を中核とするキタイ連合軍において、阿保機の軍は、上記の奚の迭剌部の軍を加えたゆえに、相対的に大きくなった。
これが遙輦氏を上回るほどであったかは、はっきりしない。
ただ、これと軍才から、阿保機に指揮官が委ねられたと想われる。
抱える軍勢の多寡が連合軍内の立場や発言力に直結するは明らかであろう。
また、自部隊の戦果が大きいほど、その略取した捕虜の配分も大きくなる。
つまり「阿保機の軍才」と「奚の迭剌部の軍」を礎に連戦連勝すれば、阿保機の軍勢はますます膨れあがる。
そして最終的に阿保機のカガン即位へと結実する。
また阿保機は奪権の後、主筋たる遙輦氏を丁重に扱うことを忘れなかった。
自らの一族とともに(大賀氏も含めて)遙輦氏もまた耶律という王族にまとめたのである。
武力だけの人ではないということである。
このように見て来ると、上記②が有力に想われる。
ただ、そもそも、これは大きく私の手に余る問題であるので、ここで終わりにしたい。
最後の『軍国事を総知する』とは、本来、皇帝 (キタイならカガン)がなすことである。
阿保機にそれだけの大権がこの時点で与えられたか、誇大にそう表現しているかは、はっきりしない。
ところで、上記の遼史の中では、代北の記事が注意を引く。
ここは安禄山がかつて任じられた3節度使の1つ、北辺防衛拠点の1つでもある河東節度使が置かれておるところである。
そしてここにおったのが沙陀の勢力である。
例え徒花としてさえ華がある安禄山に比べ、まさに地味さが際立つ奴ら。
その名を聞いて想わず首をかしげる奴ら。
誰ソレの代表格、その沙陀である。
ゆえにという訳でもないのだが、ここで2つの論文を紹介しておこう。
森部 豊、石見 清裕『唐末沙陀「李克用墓誌」訳注・考察』2003
(WEB上の大阪大学学術情報庫にてPDF形式にて公開。2021.11.23確認)
森部 豊『唐末五代の代北におけるソグド系突厥と沙陀』2004
(WEB上の京都大学学術情報リポジトリにてPDF形式にて公開。2021.11.23確認)
私が何かくどくどしく述べるより、これを読んだ方が、ずっと沙陀についての理解が深まる。
以下では森部・石見(2003)を時に参照しつつ論を進めたい。
というのも、この墓誌の主たる李克用こそ、この時、河東節度使に任じられて、沙陀を率いておったのである。
その節度使就任は中和3(883)年のこととなる。(森部・石見(2003)34貢)
亡くなるのは908年である。
その間、克用はここを拠点として軍閥の強大化に努めたのである。
付言するが、また唐朝は滅んでいない。
とはいえ、まさに死に体であり、およそ150年前の安禄山の時より状況は深刻と言えよう。
そうした中で、自勢力を生き延びさせるべく動くことが、地方軍閥の指導者には求められたのである。
(河東というのは、まぎらわしい言葉である。
『第3部40話閑話 (巨大な地方軍・安禄山とキタイ)』で説明した如く、黄河の屈曲部 (オルドス)のすぐ東の地を言う。
屈曲部を挟んで逆側 (=西側)が河西 (モンゴルの時の西夏)の地である。
そして河北は河東の更に東側の黄河以北の地(およそ沿岸地帯まで)を指す。)
ところで、この墓誌には上記の阿保機率いるキタイ勢との戦は伝えておらぬ。
といって戦が無かった訳ではあるまい。
墓誌というのは、故人の功を伝えるものである
――それも時にかなり誇張して
――ゆえに、そうでないものは省かれる。
またこれより沙陀側が負けたのも遼史の伝える通りと想われる。
沙陀側が勝ったなら、それを克用の墓誌が伝えぬことはなかろう。
ただ、後に沙陀勢は、克用の子の存勖(そんきょく)の代に、滅びた唐の再興を謳って後唐を建国するのであるから、この時の敗北が壊滅的であったとは考えがたく、ゆえに遼史の伝える戦果が過大であるは疑いえない。
もっとも自軍を40万と号している時点で、それは明らかとも言えるが。
(おまけ
在野の歴史ファンの立場からしても、現在のネット社会の成立に伴い、色色と失うものもあれば、得られるものもあるというのが現状でしょう。
得られるものとしては、グーグルマップ。
そして、本話や第2部9話(詳細はこの後に再録)で紹介した素晴らしい論文が、ネット経由でただで手に入れられること。
(柿沼陽平『唐代砕葉鎮史新探』帝京大学文化財研究所研究報告第18集(2019)。
2021.11.11現在、WEB『帝京大学文化財研究所』にてPDFの形式で公開されている)。
歴史の楽しみ方は色色とは想います。
歴史小説というのも、その一つでしょう。
また、こうした論文を手に入れ、それに時を忘れるほどに引き込まれるならば、それも豊かな時の過ごし方と言えると想います。
李克用の墓誌なんて、私からすれば、それこそ垂涎ものなんですよ。
どれだけの方に共感していただけるかは分かりませんが)
参考文献(年代順)
・森部 豊、石見 清裕『唐末沙陀「李克用墓誌」訳注・考察』2003
・森部 豊『唐末五代の代北におけるソグド系突厥と沙陀』2004
・愛新覚羅烏拉煕春『契丹文墓誌より見た遼史』松香堂 2006年
ちょっとイルキンが突厥に由来することを追記しようと想って調べていたら、またまた沼があり、少し足をひたしてみたら、底なし沼と分かり、急いで引き返しました。
そう、イルキンに関して、改訂及び追記を行いました。(2021.11.25)
前書き終わり
ようやくキタイさんと沙陀(さだ)さんである。
まず遼史の太祖[=耶律阿保機(やりつあぼき)]本紀から興味深きところを見てみよう。
『[年号は不明]時に小黄室韋は附かず、太祖は計を以てこれを降す。
[↑これは『第3部39話ブハーラー戦12:本丸戦4:亡霊3:阿海の夢』に出た大黄室韋の別れである]
唐の天復元年[西暦901]歳辛酉、痕徳董(コントクキン)可汗(カガン)は立ち[=即位し]、太祖を以て本部の夷離菫(イリキン)となす。
[太祖は]征討をもっぱらにし、室韋(シツイ)・于厥(ウケツ)及び奚(ケイ)の[元]帥の轄剌哥を連破し、俘[虜]を獲ること甚だ衆し。
冬10月、[太祖に]大迭烈府の夷離菫を授ける。
明年[902]秋7月、兵40万を以て河東の代北を伐ち、9郡を攻め下し、生口[=捕虜]9万5千を獲り、[駱]駝・馬・牛・羊は紀すに勝えるべからず[=多過ぎて記すことができない]。
明年[903年]春、女直[=女真]を伐ち、これを下し、その戸300を獲る。
これより先に[=かつて]徳祖[=阿保機の父]は奚の7千戸を俘[=捕虜]とし、饒楽の清河に徙したが、
是れに至りて[=この時]、創りて奚の迭剌部と為し、13県に分ける。
冬10月、遂に太祖は于越[オゲ=官職]を拜し、軍国事を総知す[=統べる]。』
[]はひとしずくの鯨による補足。
漢籍の旧暦(太陰歴)では、季節の割り振りは春1~3月、夏4~6月、秋7~9月、冬10~12月であり、閏月を入れて、太陽暦とのずれを修正する。
太陰歴では「日にち」は(お空にある)月により刻むので、まさに十五夜はいつも満月となり、3日はその名の通り三日月となる。
歴史時代にては、太陰歴の方が便利であろうとは想われる。何せお月様を見れば、おおよその日にちが分かる。
太陽歴とは皆さん御存知の通り今の日本の暦であり、天文との絡みでいえば、春分・夏至・秋分・冬至に合わせて暦を刻む。
でも、例えば現代でもテレビが無くなり、ネットが無くなれば、あれっ、今日何日だっけと確認しようと想っても、太陽歴ではなかなか難しいことは明らかである。
室韋・于厥は西のモンゴル高原におり、奚はすぐ南におり、河東代北は南西に少し離れた華北の地。女真は北東におる。
まさに阿保機さん、八面六臂の活躍振りである。
これは、この時のキタイの威勢を示すものであるとともに、もう一つのことを示しておる。
つまり、キタイというのは、四囲に敵がおるのである。
このことは、頭の隅に置いておいて良い。
ところで、後世の我々は、遙輦(ヨウレン)氏族出身の痕徳董カガンの死後、阿保機が即位することを知っている。
これは単にカガンの交替というには留まらぬ。
遙輦氏族と阿保機の氏族は異なり、それまで支配的であった遙輦氏族から、阿保機の氏族へとカガンの地位が移るのである。
当然、遼史の撰者も知っておれば、ここの時期の記事は、それを説明しうる出来事が選択されて記載されておると見て良い。
なるほど、阿保機は毎年の如く戦果を挙げている。
遊牧君主の資質の一つが優れた軍事指揮官たることは、あらためて説くまでもあるまい。
まさに、阿保機はそれを実証したのであるから、それを以てカガンに推戴され、即位した。
もちろん、これはこれで良いのだが、もう一つの側面として、阿保機の授けられた官称号である「大 迭烈(てつれつ)府の夷離菫 (イルキン、もしくはイリキン)」から考えてみたい。
イルキンとは、もともと突厥第一帝国が臣従する他の勢力のうち、特に有力なもの、ウイグルや薛延陀(せつえんだ)の首長に授けた称号とされる。
他方で、キタイでは、王族たる阿保機が帯びているのだから、このイルキンの官称号は変質しているといえる。
前者は単純で分かりやすい。
要は他の勢力のトップである。
ひるがえって、後者は何なのか?
ここで、それでは、まず「大迭烈府」とは何なのか? となる。
遼史の国語解は、これを「迭剌(テツラ)部の府」とする。
これについては現在、2案ある。
①遼史は確かに、太祖本紀などで、阿保機を迭剌部とするから、これを信じるなら、単純に出身部族の長と解することができる。
②他方で愛新覚羅[2006、26貢]は、契丹小字墓誌の解読を通じて、迭剌氏を奚の可汗の氏族とする。
ここで遼史記事中で注意を引くのが、「太祖が軍国事を総知する」の直前にある文である。
ここで注目したいのは「奚の迭剌部」との表現である。
通常、いわゆる部族名は、それを名乗る父系氏族が決まっている。
仮に迭剌部が阿保機の出身部族とすると、ここは、奚の捕虜を再編成して、奚の中に(阿保機の一族が支配する)迭剌部を創ったことになり、何のことか分からぬとなる。
ここは、奚の捕虜を再編成して、奚の(氏族たる迭剌氏が支配する)迭剌部を創ったとしないと意味が通らぬ。
(ところで、下記のいずれであるかは、はっきりしない。
・この迭剌氏が、そもそもこの奚の7千戸の長であり、その地位を保つを認めたのか、
・それとも、別に帰付しておった奚の迭剌氏を、この時、奚の捕虜たちの長として任命したのか)
また、上掲書によれば、阿保機の弟の迭剌(←人名)の子孫は、この奚可汗帳の迭剌氏と6度通婚したとある。
更にいえば、この弟自身の名が迭剌である。
これは、母が迭剌氏出身であり、そのゆえをもって名づけられた可能性が高い。
とすると、上記の文の「是れに至りて」は誤りの可能性が高い。
つまり奚の捕虜の再編成は徳祖の時なのではないかと想われる。
いずれにしろ、この奚の迭剌部は、徳祖に属したのであり、ゆえにこれは阿保機兄弟に相続されたはずである。
ゆえに、阿保機兄弟はかなりの軍勢を有することになったと想われる。
代北を伐ったとされる40万が誇張であるは明らかであるが、これの十分の一の4万としてさえ、これを阿保機の一族から出すのは難しかろう。
ゆえに、やはり阿保機は、遙輦氏を中核とする中央軍を委ねられておるとみて良かろう。
より厳密に言えば、遙輦氏を中核とするキタイ連合軍において、阿保機の軍は、上記の奚の迭剌部の軍を加えたゆえに、相対的に大きくなった。
これが遙輦氏を上回るほどであったかは、はっきりしない。
ただ、これと軍才から、阿保機に指揮官が委ねられたと想われる。
抱える軍勢の多寡が連合軍内の立場や発言力に直結するは明らかであろう。
また、自部隊の戦果が大きいほど、その略取した捕虜の配分も大きくなる。
つまり「阿保機の軍才」と「奚の迭剌部の軍」を礎に連戦連勝すれば、阿保機の軍勢はますます膨れあがる。
そして最終的に阿保機のカガン即位へと結実する。
また阿保機は奪権の後、主筋たる遙輦氏を丁重に扱うことを忘れなかった。
自らの一族とともに(大賀氏も含めて)遙輦氏もまた耶律という王族にまとめたのである。
武力だけの人ではないということである。
このように見て来ると、上記②が有力に想われる。
ただ、そもそも、これは大きく私の手に余る問題であるので、ここで終わりにしたい。
最後の『軍国事を総知する』とは、本来、皇帝 (キタイならカガン)がなすことである。
阿保機にそれだけの大権がこの時点で与えられたか、誇大にそう表現しているかは、はっきりしない。
ところで、上記の遼史の中では、代北の記事が注意を引く。
ここは安禄山がかつて任じられた3節度使の1つ、北辺防衛拠点の1つでもある河東節度使が置かれておるところである。
そしてここにおったのが沙陀の勢力である。
例え徒花としてさえ華がある安禄山に比べ、まさに地味さが際立つ奴ら。
その名を聞いて想わず首をかしげる奴ら。
誰ソレの代表格、その沙陀である。
ゆえにという訳でもないのだが、ここで2つの論文を紹介しておこう。
森部 豊、石見 清裕『唐末沙陀「李克用墓誌」訳注・考察』2003
(WEB上の大阪大学学術情報庫にてPDF形式にて公開。2021.11.23確認)
森部 豊『唐末五代の代北におけるソグド系突厥と沙陀』2004
(WEB上の京都大学学術情報リポジトリにてPDF形式にて公開。2021.11.23確認)
私が何かくどくどしく述べるより、これを読んだ方が、ずっと沙陀についての理解が深まる。
以下では森部・石見(2003)を時に参照しつつ論を進めたい。
というのも、この墓誌の主たる李克用こそ、この時、河東節度使に任じられて、沙陀を率いておったのである。
その節度使就任は中和3(883)年のこととなる。(森部・石見(2003)34貢)
亡くなるのは908年である。
その間、克用はここを拠点として軍閥の強大化に努めたのである。
付言するが、また唐朝は滅んでいない。
とはいえ、まさに死に体であり、およそ150年前の安禄山の時より状況は深刻と言えよう。
そうした中で、自勢力を生き延びさせるべく動くことが、地方軍閥の指導者には求められたのである。
(河東というのは、まぎらわしい言葉である。
『第3部40話閑話 (巨大な地方軍・安禄山とキタイ)』で説明した如く、黄河の屈曲部 (オルドス)のすぐ東の地を言う。
屈曲部を挟んで逆側 (=西側)が河西 (モンゴルの時の西夏)の地である。
そして河北は河東の更に東側の黄河以北の地(およそ沿岸地帯まで)を指す。)
ところで、この墓誌には上記の阿保機率いるキタイ勢との戦は伝えておらぬ。
といって戦が無かった訳ではあるまい。
墓誌というのは、故人の功を伝えるものである
――それも時にかなり誇張して
――ゆえに、そうでないものは省かれる。
またこれより沙陀側が負けたのも遼史の伝える通りと想われる。
沙陀側が勝ったなら、それを克用の墓誌が伝えぬことはなかろう。
ただ、後に沙陀勢は、克用の子の存勖(そんきょく)の代に、滅びた唐の再興を謳って後唐を建国するのであるから、この時の敗北が壊滅的であったとは考えがたく、ゆえに遼史の伝える戦果が過大であるは疑いえない。
もっとも自軍を40万と号している時点で、それは明らかとも言えるが。
(おまけ
在野の歴史ファンの立場からしても、現在のネット社会の成立に伴い、色色と失うものもあれば、得られるものもあるというのが現状でしょう。
得られるものとしては、グーグルマップ。
そして、本話や第2部9話(詳細はこの後に再録)で紹介した素晴らしい論文が、ネット経由でただで手に入れられること。
(柿沼陽平『唐代砕葉鎮史新探』帝京大学文化財研究所研究報告第18集(2019)。
2021.11.11現在、WEB『帝京大学文化財研究所』にてPDFの形式で公開されている)。
歴史の楽しみ方は色色とは想います。
歴史小説というのも、その一つでしょう。
また、こうした論文を手に入れ、それに時を忘れるほどに引き込まれるならば、それも豊かな時の過ごし方と言えると想います。
李克用の墓誌なんて、私からすれば、それこそ垂涎ものなんですよ。
どれだけの方に共感していただけるかは分かりませんが)
参考文献(年代順)
・森部 豊、石見 清裕『唐末沙陀「李克用墓誌」訳注・考察』2003
・森部 豊『唐末五代の代北におけるソグド系突厥と沙陀』2004
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亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。
戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。
マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。
マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。
高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。
科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
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連合艦隊司令長官、井上成美
ypaaaaaaa
歴史・時代
2・26事件に端を発する国内の動乱や、日中両国の緊張状態の最中にある1937年1月16日、内々に海軍大臣就任が決定していた米内光政中将が高血圧で倒れた。命には別状がなかったものの、少しの間の病養が必要となった。これを受け、米内は信頼のおける部下として山本五十六を自分の代替として海軍大臣に推薦。そして空席になった連合艦隊司令長官には…。
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