(本編&番外編 完結)チンギス・カンとスルターン

ひとしずくの鯨

文字の大きさ
上 下
82 / 206
第3部 仇(あだ)

40:閑話(巨大な地方軍・安禄山とキタイ)地図付き

しおりを挟む
 下手な地図を追加しました。
 安禄山は平盧・范陽・河東の3節度使を兼ねます。
 地図を見て分かるように、安禄山は唐の北東辺の広大な地(黄河が南流した後の東側のほぼ全ての国境線)の防衛をほぼ一人で、になっておることになります。
 北宋がその末期に何とか取り戻そうとする燕雲16州より広大な地域です。
 唐代の節度使は、軍事のみならず、政治・財政に渡って大きな権限を与えられたとされます。 (2021.11.12追記)

前書きです。

 前話に書いたように、最初は可敦(カトン)城の話を書こうと想い、キタイの歴史を調べていたら、安禄山が視界に入り、ついつい面白くて、想わずずるずると沼に引き込まれてしまいました。
 ブハーラー出身のソグド人は安姓を名乗るから、本編の流れとまったく関係ないわけでもなし、それにみんな安禄山大好きだろうし、まあ、いいかという訳で、今回はそういう話です。

前書き終わりです。




 大陸では、君主のお膝元におる巨大な中央軍というのが、軍編成の基本をなす。
 反乱を恐れるがゆえである。
 例えば、本編でモンゴル軍が前例のない大軍でホラズムに攻め込むを得たのは、チンギス自ら率いる親征のゆえである。
 また文治国家として名高い宋の都開封にはやはり膨大な軍勢が常駐しておった。
 極めつけはこれであろう。

 隋の煬帝の大業8年(612)の高句麗遠征はその数113万、公称200万という。これに食糧や物資を運ぶ部隊も加えれば、合計300万を越えた。(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』57貢、講談社、2005年)。

 他方で、巨大な地方軍というのは、ありえないとなる。
 ありえないとは言いすぎであろうが、望ましくないというのは妥当なところであろう。
 その好例がある。
 唐代の安禄山である。
 ところで、この安禄山、私自身、どこかで安姓なのだから、その祖先はブハーラー出身のソグド人なのだと書いたが。

 前掲書97貢によれば、実父は康氏であり、後に母が安延偃(あんえんえん)に嫁いだと。

 康姓とすれば、その祖はサマルカンド出身となる。

 お詫びも兼ねて『旧唐書』にある安禄山の部分を訳してみよう。
「安禄山は営州の柳城[遼寧省、朝陽市]の雑種[=混血]の胡人[=ソグド人]なり。
 母の阿史徳氏は、また突厥の巫師[シャマン]であり、[神]卜をなりわいとする。
 [突厥のカガンは阿史那氏であるが、阿史徳氏はその姻族である。ゆえに突厥きっての名族といえる]
 禄山はおさなくして孤となり[=父を亡くし]、母にしたがいて突厥中に在り。
 将軍の安波至の兄の[安]延偃がその母をめとる。」
 [ ]内はひとしずくの鯤による追記。

 その安禄山は唐の北辺の防衛を託された節度使なのであるが、その相対するのが、キタイ勢であったのである。
 キタイはシラムレン川やラオハ川流域を牧地とする。東流するシラムレン川に南からラオハ川が合流する。
 モンゴル語でシラは黄色、ムレンは川。ちなみに黄河の方はモンゴル語でカラ[黒]・ムレンという。
 ラオハ川はグーグルマップでは老哈河。

 安禄山が拠点とする営州からすれば、まさに目と鼻の先である。
 奇妙な言い方になるが、安禄山が強大な反乱軍を形成しえたのは、唐朝から見てそれを許容する事情があったということである。
 つまり、その北におるキタイがそれだけ強大であり、脅威であったということである。
 そして、キタイとしのぎを削る安禄山は、ついに一転して唐朝へと牙をむく。

 前掲書100貢によれば、
 755年、15万の兵が范陽(はんよう)を発し、洛陽を陥落させる。

 范陽(幽州)とは、今の北京(キタイの燕京(南京)、金の中都、元の大都)であり、ここも安禄山の拠点の一つです。

 安禄山は三地域の節度使を兼ねたので、その委ねられた地域というのは、かなり広域です。
 ・平盧節度使:キタイとの国境地帯でもあり最前線基地とも言い得る営州。
 ・范陽節度使:今の北京を中心とする幽州(営州の南にある)。燕と言った方が分かりやすいかもしれません。
 ・河東節度使:太原を中心とし、黄河の屈曲部(オルドス)の東にあるので、河東と呼ばれる地(幽州の西にある)。代北とも。雲州を含みます。

 ところで、キタイにすれば、安禄山が反乱を起こしたのは、まさに願ったりかなったりであろう。
 何せそれまでは、自らをはばむ如くにおった強大な地方軍閥――単純に軍勢と言っても良い――が一転、矛先を唐朝へと違える。
 結局、この反乱は鎮圧されるも、これを契機に唐朝は衰亡へ向かうとされる。

 とはいえ、もう一つの巨大勢力ウイグルがあった。
 唐朝に対しては、まさに叛服常ならずというキタイであったが、
 ウイグルに対しては、いつからかは分からぬが、臣従を明確にし、通婚するようになった。
 更に839年、この巨大帝国が北方のキルギスの侵攻により、瓦解する。
 後世の我々でさえ、なぜ、あれほどの大帝国がかくももろくに?と不思議に想う。
 臣従しておるキタイ勢にすれば、まさに、アレッ?という奴であったろう。

 という訳で邪魔者はいなくなった。
 これからは我々キタイの天下よ・・・・・・という状況で、
 そこで新たなライバル、第2の強大な地方軍閥、沙陀(さだ)の登場となる。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

空母鳳炎奮戦記

ypaaaaaaa
歴史・時代
1942年、世界初の装甲空母である鳳炎はトラック泊地に停泊していた。すでに戦時下であり、鳳炎は南洋艦隊の要とされていた。この物語はそんな鳳炎の4年に及ぶ奮戦記である。 というわけで、今回は山本双六さんの帝国の海に登場する装甲空母鳳炎の物語です!二次創作のようなものになると思うので原作と違うところも出てくると思います。(極力、なくしたいですが…。)ともかく、皆さまが楽しめたら幸いです!

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

帝国夜襲艦隊

ypaaaaaaa
歴史・時代
1921年。すべての始まりはこの会議だった。伏見宮博恭王軍事参議官が将来の日本海軍は夜襲を基本戦術とすべきであるという結論を出したのだ。ここを起点に日本海軍は徐々に変革していく…。 今回もいつものようにこんなことがあれば良いなぁと思いながら書いています。皆さまに楽しくお読みいただければ幸いです!

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

改造空母機動艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。  そして、昭和一六年一二月。  日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。  「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。

札束艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 生まれついての勝負師。  あるいは、根っからのギャンブラー。  札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。  時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。  そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。  亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。  戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。  マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。  マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。  高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。  科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!

風を翔る

ypaaaaaaa
歴史・時代
彼の大戦争から80年近くが経ち、ミニオタであった高萩蒼(たかはぎ あおい)はある戦闘機について興味本位で調べることになる。二式艦上戦闘機、またの名を風翔。調べていく過程で、当時の凄惨な戦争についても知り高萩は現状を深く考えていくことになる。

連合艦隊司令長官、井上成美

ypaaaaaaa
歴史・時代
2・26事件に端を発する国内の動乱や、日中両国の緊張状態の最中にある1937年1月16日、内々に海軍大臣就任が決定していた米内光政中将が高血圧で倒れた。命には別状がなかったものの、少しの間の病養が必要となった。これを受け、米内は信頼のおける部下として山本五十六を自分の代替として海軍大臣に推薦。そして空席になった連合艦隊司令長官には…。 毎度毎度こんなことがあったらいいな読んで、楽しんで頂いたら幸いです!

処理中です...