77 / 206
第3部 仇(あだ)
35:ブハーラー戦8:声8:何の特徴もなき男と長老の場合
しおりを挟む
(前書きです。
末尾に補足を追記しました(2021.10.28))
果たしていつからその想いを抱き続けておったのか。
もしかしたら物心ついたとほぼ同時に。
ただ、それをなすことなく済ますことができたらと考えておったのも事実であった。
罪を犯したくはなかった。
モンゴル軍が殺してくれたならば。
正直、そう想っておった。
というより、それを願っておった。
ただ、主人は、敵のカンの命令、
――お前たちに、スルターンが我の隊商から強奪した財産が渡っておろう。それを我に返せとの。
――それに従うことで、生き永らえようとしておった。
主人にとっては、命乞いのための賄賂に過ぎず、そのなしたことを想えば、むしろ割安な出費に過ぎなかったのではないか
主人が、この戦を招いたのでなかったか。
首謀者ではないのか。
全ての元凶ではないのか。
己自身は会合に出席したことは、一度もなかった。
しかし大略は〈唇薄き者〉から聞いておった。
後には、彼からの手紙にて詳細を知るを得ておった。
どこまでが、主人にこの惨状を招いた罪をあがなえさせようとしてであったか。
どこまでが、このところ、うち続く背中へのむち打ちによる打擲についに耐えかねてであったか。
上着をはおると、その重さでさえ、激しい痛みにさらされた。
しかも、すぐに血に染まる。
ゆえに、白の上衣はこのところまとっていない。
それを隠すために、色の濃い衣を常用しておった。
そして、どこまでが、代々の奴隷
――己は母よりこれを引き継いだ
――の足かせから逃れるためであったか。
その日のたそがれどき、〈何の特徴もなき男〉は、全身を震わせ、屋敷の外に出た。
何によるのか、
――冬のこの時期に汗ということはあるまい。
――その色の濃い衣でさえ隠せぬ大きな染みが体の前面についておった。
――ならば、彼自身の傷であるはずがない。
彼は屋敷を少し離れて、一つのものを捨てた。
しなびた長老の陰茎であった。
歩き去るのを待って、
――その様をうかがっておった野良犬がすぐにそれをくわえていった
――想わぬ馳走にシッポをふりふりして。
打擲の後、いつもの如く己の体を求めて来たので、懐剣でそれを切断したのだった。
ここまで持って来て捨てたのは、それが再びくっつけられるのを恐れたゆえであった。
果たして、そんなことができるのかは分からなかったが、主人は莫大な財産を持っておる。
モンゴルに多少取られたとしてさえ、残りでブハーラー1番の医者を呼ぶことができるほどに。
それを憂いたのであった。
〈何の特徴もなき男〉は〈唇寒き男〉の屋敷を目指した。
やがて礼拝を呼びかけるアザーンの声が聞こえる中、
――モンゴル軍が進駐し、夜間外出禁止令が布告されておる中、モスクへの赴きは免除されており、ゆえに、外に出ておる者もおらぬ、
――1人歩く彼の衣の染みを、夜のとばりが隠し行く。
(補足 イスラームにおける奴隷について
以下、一般的に、
1.奴隷解放は美徳とされる。
2.奴隷でないイスラーム教徒を、奴隷に落とすことはできない。
3.母が奴隷の場合、子も奴隷となる。ただし、その子が、『母奴隷の主人』を父とする場合(つまり、主人と女奴隷の子)はその限りではない。
その例として、1部2章「スルターンとカリフ」で出て来たカリフ・ナーシルはトルコ人奴隷を母に、やはりアッバース朝カリフのマームーンはイラン人奴隷を母とする。
4.奴隷は、社会的身分というより、主人との関係に過ぎず、奴隷のままで高位を得ることは可能である。
付記 これらイスラーム社会にて、軍人奴隷の供給元としてトルキスタン(ここでは大雑把にアムダリヤ以北と考えてもらって良い。遊牧勢はシルダリヤ以北に多いが、南側のソグドの地にもおる)のトルコ系遊牧民の子供が好まれたのは、一つには騎射が巧みであることが理由であった。もう一つは、イスラーム教徒でない者が相対的に多かったということである。
ただ、後代になるほど、トルコ系遊牧民の間にもイスラームが広がるので、実際はどうなのかな?とは想う。
イスラーム教徒の子供を、そうでないといつわってというのも、多かったのではと想う。
略奪や戦争で手に入れた子供を売るのである。
補足:WEB上のコトバンクで「ナーシル」、「マームーン」、「アブド」で検索すれば、上記の確認及び詳細な情報の入手ができます。
ところで、上記の点をかんがみて、少し推測を広げてみると、としたのが以下の話。
まあ、余談ついでに、という奴です。
1部3章「和平協定3(スルターンとオグル、そしてニザーム)」でスルターンに言わせた如く、
『ホラズム朝の祖はガルチスターンで(セルジューク朝の重臣に)買われた』のだが、
『ガルチスターンはアムダリヤ川南岸にあるメルヴの南にある山がちの地である』
つまり、本来の供給元たるアムダリヤ以北とは全く逆側から手に入れておる。
セルジューク朝の時、アムダリヤの南で勢威を張ったトルコ系とくれば、ガズナ朝である。
そして、この時ガズナ朝とセルジューク朝は対立しており、ゆえに軍兵候補でもある少年奴隷の直接売買は禁じられておったろうと想われる。
また、このガルチスターンという地は、セルジューク朝とグール勢の間の地であり、このことからも、グール勢が間に入って、この奴隷の売買が成立したと想われる。
つまり、ガズナ朝のトルコ系の子供が、売買もしくは略奪によりグール勢に渡り、それがセルジューク朝に売られたのである。
つまり、ホラズム朝の祖は、ガズナ朝のトルコ系に発するのではないかと。
無論、全て推測に過ぎない。)
末尾に補足を追記しました(2021.10.28))
果たしていつからその想いを抱き続けておったのか。
もしかしたら物心ついたとほぼ同時に。
ただ、それをなすことなく済ますことができたらと考えておったのも事実であった。
罪を犯したくはなかった。
モンゴル軍が殺してくれたならば。
正直、そう想っておった。
というより、それを願っておった。
ただ、主人は、敵のカンの命令、
――お前たちに、スルターンが我の隊商から強奪した財産が渡っておろう。それを我に返せとの。
――それに従うことで、生き永らえようとしておった。
主人にとっては、命乞いのための賄賂に過ぎず、そのなしたことを想えば、むしろ割安な出費に過ぎなかったのではないか
主人が、この戦を招いたのでなかったか。
首謀者ではないのか。
全ての元凶ではないのか。
己自身は会合に出席したことは、一度もなかった。
しかし大略は〈唇薄き者〉から聞いておった。
後には、彼からの手紙にて詳細を知るを得ておった。
どこまでが、主人にこの惨状を招いた罪をあがなえさせようとしてであったか。
どこまでが、このところ、うち続く背中へのむち打ちによる打擲についに耐えかねてであったか。
上着をはおると、その重さでさえ、激しい痛みにさらされた。
しかも、すぐに血に染まる。
ゆえに、白の上衣はこのところまとっていない。
それを隠すために、色の濃い衣を常用しておった。
そして、どこまでが、代々の奴隷
――己は母よりこれを引き継いだ
――の足かせから逃れるためであったか。
その日のたそがれどき、〈何の特徴もなき男〉は、全身を震わせ、屋敷の外に出た。
何によるのか、
――冬のこの時期に汗ということはあるまい。
――その色の濃い衣でさえ隠せぬ大きな染みが体の前面についておった。
――ならば、彼自身の傷であるはずがない。
彼は屋敷を少し離れて、一つのものを捨てた。
しなびた長老の陰茎であった。
歩き去るのを待って、
――その様をうかがっておった野良犬がすぐにそれをくわえていった
――想わぬ馳走にシッポをふりふりして。
打擲の後、いつもの如く己の体を求めて来たので、懐剣でそれを切断したのだった。
ここまで持って来て捨てたのは、それが再びくっつけられるのを恐れたゆえであった。
果たして、そんなことができるのかは分からなかったが、主人は莫大な財産を持っておる。
モンゴルに多少取られたとしてさえ、残りでブハーラー1番の医者を呼ぶことができるほどに。
それを憂いたのであった。
〈何の特徴もなき男〉は〈唇寒き男〉の屋敷を目指した。
やがて礼拝を呼びかけるアザーンの声が聞こえる中、
――モンゴル軍が進駐し、夜間外出禁止令が布告されておる中、モスクへの赴きは免除されており、ゆえに、外に出ておる者もおらぬ、
――1人歩く彼の衣の染みを、夜のとばりが隠し行く。
(補足 イスラームにおける奴隷について
以下、一般的に、
1.奴隷解放は美徳とされる。
2.奴隷でないイスラーム教徒を、奴隷に落とすことはできない。
3.母が奴隷の場合、子も奴隷となる。ただし、その子が、『母奴隷の主人』を父とする場合(つまり、主人と女奴隷の子)はその限りではない。
その例として、1部2章「スルターンとカリフ」で出て来たカリフ・ナーシルはトルコ人奴隷を母に、やはりアッバース朝カリフのマームーンはイラン人奴隷を母とする。
4.奴隷は、社会的身分というより、主人との関係に過ぎず、奴隷のままで高位を得ることは可能である。
付記 これらイスラーム社会にて、軍人奴隷の供給元としてトルキスタン(ここでは大雑把にアムダリヤ以北と考えてもらって良い。遊牧勢はシルダリヤ以北に多いが、南側のソグドの地にもおる)のトルコ系遊牧民の子供が好まれたのは、一つには騎射が巧みであることが理由であった。もう一つは、イスラーム教徒でない者が相対的に多かったということである。
ただ、後代になるほど、トルコ系遊牧民の間にもイスラームが広がるので、実際はどうなのかな?とは想う。
イスラーム教徒の子供を、そうでないといつわってというのも、多かったのではと想う。
略奪や戦争で手に入れた子供を売るのである。
補足:WEB上のコトバンクで「ナーシル」、「マームーン」、「アブド」で検索すれば、上記の確認及び詳細な情報の入手ができます。
ところで、上記の点をかんがみて、少し推測を広げてみると、としたのが以下の話。
まあ、余談ついでに、という奴です。
1部3章「和平協定3(スルターンとオグル、そしてニザーム)」でスルターンに言わせた如く、
『ホラズム朝の祖はガルチスターンで(セルジューク朝の重臣に)買われた』のだが、
『ガルチスターンはアムダリヤ川南岸にあるメルヴの南にある山がちの地である』
つまり、本来の供給元たるアムダリヤ以北とは全く逆側から手に入れておる。
セルジューク朝の時、アムダリヤの南で勢威を張ったトルコ系とくれば、ガズナ朝である。
そして、この時ガズナ朝とセルジューク朝は対立しており、ゆえに軍兵候補でもある少年奴隷の直接売買は禁じられておったろうと想われる。
また、このガルチスターンという地は、セルジューク朝とグール勢の間の地であり、このことからも、グール勢が間に入って、この奴隷の売買が成立したと想われる。
つまり、ガズナ朝のトルコ系の子供が、売買もしくは略奪によりグール勢に渡り、それがセルジューク朝に売られたのである。
つまり、ホラズム朝の祖は、ガズナ朝のトルコ系に発するのではないかと。
無論、全て推測に過ぎない。)
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
パーティーから追放され婚約者を寝取られ家から勘当、の三拍子揃った元貴族は、いずれ竜をも倒す大英雄へ ~もはやマイナスからの成り上がり英雄譚~
一条おかゆ
ファンタジー
貴族の青年、イオは冒険者パーティーの中衛。
彼はレベルの低さゆえにパーティーを追放され、さらに婚約者を寝取られ、家からも追放されてしまう。
全てを失って悲しみに打ちひしがれるイオだったが、騎士学校時代の同級生、ベガに拾われる。
「──イオを勧誘しにきたんだ」
ベガと二人で新たなパーティーを組んだイオ。
ダンジョンへと向かい、そこで自身の本当の才能──『対人能力』に気が付いた。
そして心機一転。
「前よりも強いパーティーを作って、前よりも良い婚約者を貰って、前よりも格の高い家の者となる」
今までの全てを見返すことを目標に、彼は成り上がることを決意する。
これは、そんな英雄譚。
あさきゆめみし
八神真哉
歴史・時代
山賊に襲われた、わけありの美貌の姫君。
それを助ける正体不明の若き男。
その法力に敵う者なしと謳われる、鬼の法師、酒呑童子。
三者が交わるとき、封印された過去と十種神宝が蘇る。
毎週金曜日更新
異世界妖魔大戦〜転生者は戦争に備え改革を実行し、戦勝の為に身を投ずる〜
金華高乃
ファンタジー
死んだはずの僕が蘇ったのは異世界。しかもソーシャルゲームのように武器を召喚し激レア武器を持つ強者に軍戦略が依存している世界だった。
前世、高槻亮(たかつきあきら)は21世紀を生きた日本陸軍特殊部隊の軍人だった。しかし彼の率いる部隊は不測の事態で全滅してしまい、自身も命を失ってしまう。
しかし、目を覚ますとそこは地球とは違う世界だった。
二度目の人生は異世界。
彼は軍人貴族の長男アカツキ・ノースロードという、二十二歳にも関わらず十代前半程度でしかも女性と見間違えられるような外見の青年として生きていくこととなる。運命のイタズラか、二度目の人生も軍人だったのだ。
だが、この異世界は問題があり過ぎた。
魔法が使えるのはいい。むしろ便利だ。
技術水準は産業革命期付近。銃等の兵器類も著しい発展を迎える頃だから大歓迎であろう。
しかし、戦術レベルなら単独で戦況をひっくり返せる武器がソーシャルゲームのガチャのように出現するのはどういうことなのか。確率もゲームなら運営に批判殺到の超低出現確率。当然ガチャには石が必要で、最上位のレア武器を手に入れられるのはほんのひと握りだけ。しかし、相応しい威力を持つからかどの国も慢心が酷かった。彼の所属するアルネシア連合王国も他国よりはマシとは言え安全保障は召喚武器に依存していた。
近年は平穏とはいえ、敵国の妖魔帝国軍は健在だと言うのに……。
彼は思う。もし戦争になったらガチャ武器に依存したこの世界の軍では勝てない。だから、改革を進めよう。
これは、前世も今世も軍人である一人の男と世界を描いた物語。
【イラスト:伊於さん(Twitter:@io_xxxx)】
蒼穹(そら)に紅~天翔る無敵皇女の冒険~ 四の巻
初音幾生
歴史・時代
日本がイギリスの位置にある、そんな架空戦記的な小説です。
1940年10月、帝都空襲の報復に、連合艦隊はアイスランド攻略を目指す。
霧深き北海で戦艦や空母が激突する!
「寒いのは苦手だよ」
「小説家になろう」と同時公開。
第四巻全23話
【完結】船宿さくらの来客簿
ヲダツバサ
歴史・時代
「百万人都市江戸の中から、たった一人を探し続けてる」
深川の河岸の端にある小さな船宿、さくら。
そこで料理をふるうのは、自由に生きる事を望む少女・おタキ。
はまぐり飯に、菜の花の味噌汁。
葱タレ丼に、味噌田楽。
タケノコご飯や焼き豆腐など、彼女の作る美味しい食事が今日も客達を賑わせている。
しかし、おタキはただの料理好きではない。
彼女は店の知名度を上げ、注目される事で、探し続けている。
明暦の大火で自分を救ってくれた、命の恩人を……。
●江戸時代が舞台です。
●冒頭に火事の描写があります。グロ表現はありません。
【非18禁】馬なみ侍 ~異物亦(また)奇遇あること~
糺ノ杜 胡瓜堂
歴史・時代
【pixivより転載】
色々あって、約1年ぶりにこちらに戻ってきました!
現在は「pixiv」「ノクターンノベルズ」「ノベルピア」で18禁小説をメインに投稿しております。
舞台は江戸時代です。
タイトルどおり、アソコが「馬並み」(!)のお侍さんが主人公なので、モロに性的なストーリーではありますが、直接的な官能描写や官能表現は「一切」ありません。
このお話は江戸時代の南町奉行、根岸 鎮衛(1737-1815)が書き記した「耳嚢」(みみぶくろ)の巻之一に収録されている「異物亦(また)奇遇あること」という短い記述をベースにしています。
個人的に江戸時代が好きで、よく当時書かれたものを読んでいるのですが、ダントツに面白いのが、下級旗本(町人という説も!)から驚異的な出世を遂げ、勘定奉行から南町奉行までを歴任した根岸 鎮衛(ねぎし やすもり)が江戸の事件、噂話、珍談、奇談、猥談から怪談にいたるまでを、30年以上に渡って書き溜めた「耳嚢」でしょう。
岩波文庫から全三巻で注釈付きの良書が出ているので江戸時代の入門書としても最適です。
耳嚢の中には、今回ベースにした並外れた巨根の男性のエピソードの類話が数話あったように記憶しています。
約七千文字のハッピーエンドの短編、お気軽にお読みください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる