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第3部 仇(あだ)

35:ブハーラー戦8:声8:何の特徴もなき男と長老の場合

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 (前書きです。
 末尾に補足を追記しました(2021.10.28))



 果たしていつからその想いを抱き続けておったのか。
 もしかしたら物心ついたとほぼ同時に。
 ただ、それをなすことなく済ますことができたらと考えておったのも事実であった。
 罪を犯したくはなかった。

 モンゴル軍が殺してくれたならば。
 正直、そう想っておった。
 というより、それを願っておった。

 ただ、主人は、敵のカンの命令、
――お前たちに、スルターンが我の隊商から強奪した財産が渡っておろう。それを我に返せとの。
――それに従うことで、生き永らえようとしておった。
 主人にとっては、命乞いのための賄賂に過ぎず、そのなしたことを想えば、むしろ割安な出費に過ぎなかったのではないか

 主人が、この戦を招いたのでなかったか。
 首謀者ではないのか。
 全ての元凶ではないのか。

 己自身は会合に出席したことは、一度もなかった。
 しかし大略は〈唇薄き者〉から聞いておった。
 後には、彼からの手紙にて詳細を知るを得ておった。

 どこまでが、主人にこの惨状を招いた罪をあがなえさせようとしてであったか。

 どこまでが、このところ、うち続く背中へのむち打ちによる打擲についに耐えかねてであったか。
 上着をはおると、その重さでさえ、激しい痛みにさらされた。
 しかも、すぐに血に染まる。
 ゆえに、白の上衣はこのところまとっていない。
 それを隠すために、色の濃い衣を常用しておった。

 そして、どこまでが、代々の奴隷
――己は母よりこれを引き継いだ
――の足かせから逃れるためであったか。

 その日のたそがれどき、〈何の特徴もなき男〉は、全身を震わせ、屋敷の外に出た。
 何によるのか、
――冬のこの時期に汗ということはあるまい。
――その色の濃い衣でさえ隠せぬ大きな染みが体の前面についておった。
――ならば、彼自身の傷であるはずがない。

 彼は屋敷を少し離れて、一つのものを捨てた。
 しなびた長老の陰茎であった。
 歩き去るのを待って、
――その様をうかがっておった野良犬がすぐにそれをくわえていった
――想わぬ馳走にシッポをふりふりして。
 打擲の後、いつもの如く己の体を求めて来たので、懐剣でそれを切断したのだった。
 ここまで持って来て捨てたのは、それが再びくっつけられるのを恐れたゆえであった。
 果たして、そんなことができるのかは分からなかったが、主人は莫大な財産を持っておる。
 モンゴルに多少取られたとしてさえ、残りでブハーラー1番の医者を呼ぶことができるほどに。
 それを憂いたのであった。

 〈何の特徴もなき男〉は〈唇寒き男〉の屋敷を目指した。

 やがて礼拝を呼びかけるアザーンの声が聞こえる中、
――モンゴル軍が進駐し、夜間外出禁止令が布告されておる中、モスクへの赴きは免除されており、ゆえに、外に出ておる者もおらぬ、
――1人歩く彼の衣の染みを、夜のとばりが隠し行く。


(補足 イスラームにおける奴隷について
以下、一般的に、
1.奴隷解放は美徳とされる。
2.奴隷でないイスラーム教徒を、奴隷に落とすことはできない。
3.母が奴隷の場合、子も奴隷となる。ただし、その子が、『母奴隷の主人』を父とする場合(つまり、主人と女奴隷の子)はその限りではない。
その例として、1部2章「スルターンとカリフ」で出て来たカリフ・ナーシルはトルコ人奴隷を母に、やはりアッバース朝カリフのマームーンはイラン人奴隷を母とする。
4.奴隷は、社会的身分というより、主人との関係に過ぎず、奴隷のままで高位を得ることは可能である。

付記 これらイスラーム社会にて、軍人奴隷の供給元としてトルキスタン(ここでは大雑把にアムダリヤ以北と考えてもらって良い。遊牧勢はシルダリヤ以北に多いが、南側のソグドの地にもおる)のトルコ系遊牧民の子供が好まれたのは、一つには騎射が巧みであることが理由であった。もう一つは、イスラーム教徒でない者が相対的に多かったということである。
 ただ、後代になるほど、トルコ系遊牧民の間にもイスラームが広がるので、実際はどうなのかな?とは想う。
イスラーム教徒の子供を、そうでないといつわってというのも、多かったのではと想う。
略奪や戦争で手に入れた子供を売るのである。

補足:WEB上のコトバンクで「ナーシル」、「マームーン」、「アブド」で検索すれば、上記の確認及び詳細な情報の入手ができます。

ところで、上記の点をかんがみて、少し推測を広げてみると、としたのが以下の話。
まあ、余談ついでに、という奴です。
1部3章「和平協定3(スルターンとオグル、そしてニザーム)」でスルターンに言わせた如く、
『ホラズム朝の祖はガルチスターンで(セルジューク朝の重臣に)買われた』のだが、
『ガルチスターンはアムダリヤ川南岸にあるメルヴの南にある山がちの地である』
つまり、本来の供給元たるアムダリヤ以北とは全く逆側から手に入れておる。
セルジューク朝の時、アムダリヤの南で勢威を張ったトルコ系とくれば、ガズナ朝である。
そして、この時ガズナ朝とセルジューク朝は対立しており、ゆえに軍兵候補でもある少年奴隷の直接売買は禁じられておったろうと想われる。
また、このガルチスターンという地は、セルジューク朝とグール勢の間の地であり、このことからも、グール勢が間に入って、この奴隷の売買が成立したと想われる。
つまり、ガズナ朝のトルコ系の子供が、売買もしくは略奪によりグール勢に渡り、それがセルジューク朝に売られたのである。
つまり、ホラズム朝の祖は、ガズナ朝のトルコ系に発するのではないかと。
無論、全て推測に過ぎない。)
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