76 / 206
第3部 仇(あだ)
34:ブハーラー戦7: 声7:副長老の場合2
しおりを挟む
副長老は昨日から、半狂乱の如くとなって自らを責める妻の声を聞かされておった。
「なぜ、あなたは止めなかったの。いつも酔っ払っているから、何もできなかったじゃない」
昨日の朝のこと、モンゴル兵が急に来て、我が家の一人娘を連れて行ったのだ。
結婚してずい分経ってから、ようやくできた娘であった。
妻の気持ちも分かる。
ただ妻の非難は、半分は当たっており、半分は的外れであった。
的外れなのは、酔っているということだった。
我は酒を呑めども、まった酔えなくなっておった。
当たっているのは、何もしなかったということだ。
ただ理由はあった。
それも正当なる理由が。
モンゴル兵とは顔を会わす訳にはいかない。
それを機縁にして、
――神の定められた終章が、
――我とあの者の終章が、
――始まるゆえに。
奴らは、我をこそ捜しに家に来たのだ。
にもかかわらず、我を見つけられなかった。
だから、仕方なく、娘を連れて行ったのだ。
これは間違いないことだった。
――我が内なる声が告げる、そのゆえに。
――そして妻は、我が何をなしたかを知らぬゆえに。
――そして今日、やはり我が徴集されたゆえに。
そして命じられた。
ブハーラーの本丸の濠を埋めよと。
これが我のなしたことへの罰か。
(注:本書では一般に城塞・城砦と訳されているものを、その軍事機能から本丸と訳しています)
我の他にも、同じ命を受けておる者がたくさんおった。
とすれば、この者たちも我と同様、何事かの罪をなしたとなる。
神に呪われる如くのものを。
確かに、それは罰と言い得るものであった。
未だ本丸に立て籠もっておるホラズム兵が矢で狙い撃って来る、
――その状況でそれをなさねばならなかったゆえに。
そして、見た目以上の地獄絵図と言い得るゆえに。
――一方にすれば、同国人に矢で狙い撃たれ、
――他方にすれば、同国人が敵軍の攻め落とす手伝いをしておる。
我は、布袋を首にかけて、腹の前当たりに垂らし、それに石を入れては、両手で支えて、濠まで運んだ。
何度か往復しても、矢に狙い撃たれることはなかった。
神は、我を見逃してくれておるのかもしれぬ。
神は、我のなしたことを知らぬのかもしれぬ。
そう想えて来た。
他に既に狙い撃たれておる者がおった。
あれらこそが、
――神に呪われるべき何事かを、
――より罪深き何事かを、
――なしたに違いなかった。
我が矢で射抜かれておらぬこと、
――我に矢が当たっておらぬこと
――それが何より証明しておろう。
ただ同時に困ったことが起こっておった。
手が震え出したのだ。
酒が切れたのだった。
それを抑えるためには、酒が必要なのは明らかであった。
とはいえ、家に戻ることはできぬ。
ここより逃げようとする者は斬るとのあの者の命が出ておったし、実際、それをなそうとした者の死骸がそこかしこに転がっておった。
このまま、これを続けるしかなかった。
そう想い、震える手で袋をひっくり返し、石を放り捨てようとした時、その震える手がいうことをきかず、袋をうまくひっくり返すことができなかった。
ただ袋には、石を捨てんとした勢いがついておれば、それに首を引っ張られた。
想わずバランスを崩し、濠に真っ逆さまに落ちた。
ただ幸いだったのは、水面まで至らず、途中で止まったことだった。
必死で伸ばした手足のいずれかを岸にひっかけるを得たのだ。
残りのブラブラしておる手足で支えを求め、何とか頭を上にするを得た。
我は神に呪われておらぬ。
この時、ようやくそう想えた。
我は〈唇寒き男〉の戯れ言に感化されておったに過ぎない。
急いで上がろうとする。
ただ首にかけた袋には未だ石が入っており、ゆえに重く、なかなか体が持ち上がらない。
なぜ、頭から落ちたとき、袋が外れて落ちなかったのか、せめて石だけでも落ちてくれれば、と想う。
と同時に、不安になる。
これは、もしかしたら、神意なのではないかと。
ただ想い直す。
もし、石の入った袋や石が落ちる際に、我の頭を直撃しておったらと。
我はただでは済まぬ。
いずれにしろ、ケガをしよう。
となれば、果たして、こうして留まるを得たか。
むしろ、これこそが神意であると。
神は我の死を欲しておらぬと。
我は神の定めた終章が、我の予想と異なっておる可能性があることに、
――こと、ここに至って、ようやく気付くを得たのだ。
神は全知であれ、人は全知たりえぬ。
我は、いつのまにか、傲岸にも、自らを全てを知っておる如くに想いなしておったのだ。
ただ石を捨てるには、少なくとも片手を岸から離さねばならず、更には、体と岸の間に少し間を開けねばならない。
下に落ちそうで、とても恐ろしくてできない。
ようやく少し上がったと想ったら、手がかり足がかりとする岸の土が崩れ、ずり落ちる。
そうこうしておるうちに、石が上から降って来た。
矢に射られるのを恐れて、ろくに下も見ずに急ぎ石を捨てておるに違いない。
副長老は、「石を放るな。やめろ」と叫び、更には同様の言葉を何度も叫ぶ。
果たして、その声が聞こえないのか、
石は続々と落ちて来た。
やがて、副長老の声は半ば枯れ果て、叫んでもまともな声にならぬ中、石に打たれ、ずり落ち、石に打たれ、ずり落ちを繰り返す。
やがて足が水面につき、やがて腰が水に濡れ、やがて首から下がすっかり水につかる。
あがいておると、口の中に泥水が入り、想わずむせる。
ただ、ここで副長老は確かな足がかりを得た。
石の如くが岸から突き出ておったのだ。
我には神の恩寵がある。
そう確信し、神をたたえる言葉を声高に叫ばんとするも、声はまったく枯れ果てておった。
やがてブハーラーの濠は埋められた。
副長老もろともに。
「なぜ、あなたは止めなかったの。いつも酔っ払っているから、何もできなかったじゃない」
昨日の朝のこと、モンゴル兵が急に来て、我が家の一人娘を連れて行ったのだ。
結婚してずい分経ってから、ようやくできた娘であった。
妻の気持ちも分かる。
ただ妻の非難は、半分は当たっており、半分は的外れであった。
的外れなのは、酔っているということだった。
我は酒を呑めども、まった酔えなくなっておった。
当たっているのは、何もしなかったということだ。
ただ理由はあった。
それも正当なる理由が。
モンゴル兵とは顔を会わす訳にはいかない。
それを機縁にして、
――神の定められた終章が、
――我とあの者の終章が、
――始まるゆえに。
奴らは、我をこそ捜しに家に来たのだ。
にもかかわらず、我を見つけられなかった。
だから、仕方なく、娘を連れて行ったのだ。
これは間違いないことだった。
――我が内なる声が告げる、そのゆえに。
――そして妻は、我が何をなしたかを知らぬゆえに。
――そして今日、やはり我が徴集されたゆえに。
そして命じられた。
ブハーラーの本丸の濠を埋めよと。
これが我のなしたことへの罰か。
(注:本書では一般に城塞・城砦と訳されているものを、その軍事機能から本丸と訳しています)
我の他にも、同じ命を受けておる者がたくさんおった。
とすれば、この者たちも我と同様、何事かの罪をなしたとなる。
神に呪われる如くのものを。
確かに、それは罰と言い得るものであった。
未だ本丸に立て籠もっておるホラズム兵が矢で狙い撃って来る、
――その状況でそれをなさねばならなかったゆえに。
そして、見た目以上の地獄絵図と言い得るゆえに。
――一方にすれば、同国人に矢で狙い撃たれ、
――他方にすれば、同国人が敵軍の攻め落とす手伝いをしておる。
我は、布袋を首にかけて、腹の前当たりに垂らし、それに石を入れては、両手で支えて、濠まで運んだ。
何度か往復しても、矢に狙い撃たれることはなかった。
神は、我を見逃してくれておるのかもしれぬ。
神は、我のなしたことを知らぬのかもしれぬ。
そう想えて来た。
他に既に狙い撃たれておる者がおった。
あれらこそが、
――神に呪われるべき何事かを、
――より罪深き何事かを、
――なしたに違いなかった。
我が矢で射抜かれておらぬこと、
――我に矢が当たっておらぬこと
――それが何より証明しておろう。
ただ同時に困ったことが起こっておった。
手が震え出したのだ。
酒が切れたのだった。
それを抑えるためには、酒が必要なのは明らかであった。
とはいえ、家に戻ることはできぬ。
ここより逃げようとする者は斬るとのあの者の命が出ておったし、実際、それをなそうとした者の死骸がそこかしこに転がっておった。
このまま、これを続けるしかなかった。
そう想い、震える手で袋をひっくり返し、石を放り捨てようとした時、その震える手がいうことをきかず、袋をうまくひっくり返すことができなかった。
ただ袋には、石を捨てんとした勢いがついておれば、それに首を引っ張られた。
想わずバランスを崩し、濠に真っ逆さまに落ちた。
ただ幸いだったのは、水面まで至らず、途中で止まったことだった。
必死で伸ばした手足のいずれかを岸にひっかけるを得たのだ。
残りのブラブラしておる手足で支えを求め、何とか頭を上にするを得た。
我は神に呪われておらぬ。
この時、ようやくそう想えた。
我は〈唇寒き男〉の戯れ言に感化されておったに過ぎない。
急いで上がろうとする。
ただ首にかけた袋には未だ石が入っており、ゆえに重く、なかなか体が持ち上がらない。
なぜ、頭から落ちたとき、袋が外れて落ちなかったのか、せめて石だけでも落ちてくれれば、と想う。
と同時に、不安になる。
これは、もしかしたら、神意なのではないかと。
ただ想い直す。
もし、石の入った袋や石が落ちる際に、我の頭を直撃しておったらと。
我はただでは済まぬ。
いずれにしろ、ケガをしよう。
となれば、果たして、こうして留まるを得たか。
むしろ、これこそが神意であると。
神は我の死を欲しておらぬと。
我は神の定めた終章が、我の予想と異なっておる可能性があることに、
――こと、ここに至って、ようやく気付くを得たのだ。
神は全知であれ、人は全知たりえぬ。
我は、いつのまにか、傲岸にも、自らを全てを知っておる如くに想いなしておったのだ。
ただ石を捨てるには、少なくとも片手を岸から離さねばならず、更には、体と岸の間に少し間を開けねばならない。
下に落ちそうで、とても恐ろしくてできない。
ようやく少し上がったと想ったら、手がかり足がかりとする岸の土が崩れ、ずり落ちる。
そうこうしておるうちに、石が上から降って来た。
矢に射られるのを恐れて、ろくに下も見ずに急ぎ石を捨てておるに違いない。
副長老は、「石を放るな。やめろ」と叫び、更には同様の言葉を何度も叫ぶ。
果たして、その声が聞こえないのか、
石は続々と落ちて来た。
やがて、副長老の声は半ば枯れ果て、叫んでもまともな声にならぬ中、石に打たれ、ずり落ち、石に打たれ、ずり落ちを繰り返す。
やがて足が水面につき、やがて腰が水に濡れ、やがて首から下がすっかり水につかる。
あがいておると、口の中に泥水が入り、想わずむせる。
ただ、ここで副長老は確かな足がかりを得た。
石の如くが岸から突き出ておったのだ。
我には神の恩寵がある。
そう確信し、神をたたえる言葉を声高に叫ばんとするも、声はまったく枯れ果てておった。
やがてブハーラーの濠は埋められた。
副長老もろともに。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
狂愛烈花
馳月基矢
歴史・時代
天正十年(一五八二年)六月。
織田信長が死に、明智光秀が死んだ。
細川忠興は彼らの死に様に憧憬する。
忠興は烈しいものが好きだ。
炎の烈しさを持った信長と氷の烈しさを持った光秀を、忠興は敬慕していた。
忠興の妻、珠もまた烈しく美しい女だ。
珠は光秀の娘。
天下の反逆者の血を引く珠を、忠興は誰の目にも触れぬよう、丹波の山奥に隠している。
戦国時代随一のヤンデレ、細川忠興の視点を介して綴る異説本能寺の変。
死んで全ての凶運を使い果たした俺は異世界では強運しか残ってなかったみたいです。〜最強スキルと強運で異世界を無双します!〜
猫パンチ
ファンタジー
主人公、音峰 蓮(おとみね れん)はとてつもなく不幸な男だった。
ある日、とんでもない死に方をしたレンは気づくと神の世界にいた。
そこには創造神がいて、レンの余りの不運な死に方に同情し、異世界転生を提案する。
それを大いに喜び、快諾したレンは創造神にスキルをもらうことになる。
ただし、スキルは選べず運のみが頼り。
しかし、死んだ時に凶運を使い果たしたレンは強運の力で次々と最強スキルを引いてしまう。
それは創造神ですら引くほどのスキルだらけで・・・
そして、レンは最強スキルと強運で異世界を無双してゆく・・・。
追放された聖女のお話~私はもう貴方達のことは護りません~
キョウキョウ
恋愛
護国の聖女に任命され、5年間ずっと1人だけで王国全土の結界を維持してきたクローディ。
彼女は、学園の卒業式で冤罪を理由に王太子から婚約破棄を言い渡される。
それだけでなく、国外追放を告げられた。
今まで頑張ってきた努力など無視して、聖女は酷い扱いを受ける。
こうして彼女は、結界の維持を放棄した。
テンプレなざまぁがメインのお話です。
恋愛要素は少なめです。
※カクヨムにも掲載中の作品です。
蒼穹(そら)に紅~天翔る無敵皇女の冒険~ 四の巻
初音幾生
歴史・時代
日本がイギリスの位置にある、そんな架空戦記的な小説です。
1940年10月、帝都空襲の報復に、連合艦隊はアイスランド攻略を目指す。
霧深き北海で戦艦や空母が激突する!
「寒いのは苦手だよ」
「小説家になろう」と同時公開。
第四巻全23話
【完結】神柱小町妖異譚
じゅん
歴史・時代
江戸中期の武蔵国を舞台に、人柱に選ばれたことをきっかけに土地神と暮らすことになった少女・小藤が、不条理であったり、人情味あふれる体験をする連作短編。
※全体の柱の物語はあるものの、連作短編なので、章ごとに話が完結しています。
ひとつの章だけでもお楽しみいただけます。
注:R-15ではありませんが、4章に若干、残酷なシーンがあります。
対象のシーンには、小見出しに★マークをつけます。
【登場人物】
●小藤(こふじ)16才
人柱になった心清らかな少女。芯は強い。正義感が強いのには理由がある。
●光仙(こうせん)見た目20代半ば
土地神。神々しく美しい容姿。
●阿光(あこう)/●吽光(うんこう)見た目10才ほど。
狛犬の神使。双子のようにそっくりな容姿。
パーティーから追放され婚約者を寝取られ家から勘当、の三拍子揃った元貴族は、いずれ竜をも倒す大英雄へ ~もはやマイナスからの成り上がり英雄譚~
一条おかゆ
ファンタジー
貴族の青年、イオは冒険者パーティーの中衛。
彼はレベルの低さゆえにパーティーを追放され、さらに婚約者を寝取られ、家からも追放されてしまう。
全てを失って悲しみに打ちひしがれるイオだったが、騎士学校時代の同級生、ベガに拾われる。
「──イオを勧誘しにきたんだ」
ベガと二人で新たなパーティーを組んだイオ。
ダンジョンへと向かい、そこで自身の本当の才能──『対人能力』に気が付いた。
そして心機一転。
「前よりも強いパーティーを作って、前よりも良い婚約者を貰って、前よりも格の高い家の者となる」
今までの全てを見返すことを目標に、彼は成り上がることを決意する。
これは、そんな英雄譚。
総統戦記~転生!?アドルフ・ヒトラー~
俊也
歴史・時代
21世紀の日本に生きる平凡な郵便局員、黒田泰年は配達中に突然の事故に見舞われる。
目覚めるとなんとそこは1942年のドイツ。自身の魂はあのアドルフ・ヒトラーに転生していた!?
黒田は持ち前の歴史知識を活かし、ドイツ総統として戦争指導に臨むが…。
果たして黒田=ヒトラーは崩壊の途上にあるドイツ帝国を救い、自らの運命を切り拓くことが出来るのか!?
更にはナチス、親衛隊の狂気の中ユダヤ人救済と言う使命も…。
第6回大賞エントリー中。
「織田信長2030」
共々お気に入り登録と投票宜しくお願い致します
お後姉妹作「零戦戦記」も。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる