(本編&番外編 完結)チンギス・カンとスルターン

ひとしずくの鯨

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第3部 仇(あだ)

31:ブハーラー戦4: 声4

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 時は、ヒジュラ歴616年、
――本来はメッカ巡礼をなすべきズール・ヒッジャ月
――その初めの方である。
(西暦1220年2月初旬)

 ヒジュラ歴では、月が初めて見えた夜を1日 (ついたち)とする。(補足参照)
 それゆえ、この時、月明かりはとぼしい。
 そんな中で、飛来する石が見えるはずもない。
 更には、城壁の上、つまり敵がより高きところから放つとすれば、自ずと射程はこちらより長くなる。
 ゆえに、こちらは敵の石が当たるところから放たねば、石を当てられぬ。
 いつ石が飛んで来るか分からぬ。
 それが直撃するやもしれぬ。
 小さな石であれ、頭を砕くことはできる。
 大石ならば、体ごとひしゃげることになる。
 そのような中で、投石機のヒモを引かねばならなかったモンゴル兵の恐怖はいかばかりであったろうか。



 とはいえ、ブハーラー側の者たちも、また。
 己の身を直接に傷つけることは無いとはいえ、
――まさに己が住居を守り、財産を守り、何より己や家族の命を守る城壁が、
――その一石が当たる度に、くだけ、崩れてゆく。

 それは決して見えることはないとはいえ、人々の声を圧するその轟音と地響きで、知らずに済むということはない。

 ならば、その恐怖はモンゴル兵に劣るものではなかったろう。



 ブハーラー、
――ザラフシャンのうるおす宝玉の如き都、
――ハディース(注1)の編者ブハーリーのニスパ(出身地などに基づく2つ名)となった栄誉と共に、イスラームの深甚なる叡知をもって語り継がれるべき都、
――それは恐怖の支配するところとなっておった。



 注1ハディース:コーランに次いで重要な、ムハンマドの言行の伝承集。



 補足:ヒジュラ歴について
 その1日は日没に始まり、日没に終わる。
 これをどこまで風土に求めて良いか分からないが。
 暑く日差しの強いアラビア半島ゆえに、夕刻から日没にかけての方が過ごしやすい、そのゆえかとも想う。
 いずれにしろ、月下に進むキャラバンというのは、詩情をかき立てるものである。

 ところで、うるう月をはさまない純粋太陰暦でもある。
 それゆえ一年の季節に対して少しずつずれて行き、日中に飲食を断たねばならぬラマダン月が、暑く日が長い夏に来ると、大変だったりする。

 ムスリム史料はほぼこのヒジュラ歴にて記される。だから、西暦に換算しないと季節が分からない。

 ところで、歴史書の訳書や専門書などには、この西暦に換算した日付が載っておるのだが、どうやって換算しているのだろうかというのは疑問に想うところである。

 同じ出来事を伝える史料が、数日どころか、1年ずれているというのも珍しくない。(チンギスの西征を伝える史料も1年ずれているものがある。)
 もし、互いに参照していない史料が同じ日付を伝えていたならば、感涙ものとさえ言える。
 そう、1日というのは、歴史史料においては、最高度の厳密さを要求するものなのである。

 イランでは、ノウルーズという(新年を祝う)祭りが春分の日に行われる。
 ノウルーズの日をヒジュラ歴で記した史料があれば、そこより換算できるのだろうとは想うが、精度は?とも想う。
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