(本編&番外編 完結)チンギス・カンとスルターン

ひとしずくの鯨

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第2部開戦

6(モンゴル進軍3 どこでアルタイを越えたか?中編):「ビシュバリク(北庭)の重要性@唐朝」と「玄奘さんの旅の話」

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サブタイトルを変更しました。内容は変更ありません。(2021.8.1修正)
下記でグーグルマップの表記を「高昌古城」としていましたが、「高昌故城」の間違いでした。申し訳ありません。(2021.7.30修正)
(残り1編でこの話題は終わりのはずでしたが、ついつい話しが長くなり、今回は中編、次回が後編となります。)

 チンギスが西征に赴くに際して、イルティッシュ川で夏営したことは、親征録やラシードが伝えるところなので、これは定説となっています。
 歴史史料の伝えるところは、それと明らかに矛盾する史料でも伝わっておらなければ、あるいは、現実的にありえないということでもなければ、否定されることはないので、それも当然といえます。
 実際、前話の2の場合の如く、ありえることです。
 ただそれでは、いずこを通ってそこに至ったかというと、共通の理解があった訳ではありません。
 イルティッシュ川上流に直接至る峠道、つまりもっと北にある峠道を通って至ったのではないかとの説もあり、私自身も正直そう想っていました。
 ただ、一端ウルングゥ川の源流あたりに出て、そこからイルティッシュ川の方に広がったとすると、一つの可能性に想い至らざるを得ません。
 往時の軍征路は、ウルングゥ川の源流に出るものに限られたのではないかと。
 もちろん、峠道がそこしかなかったというのはあり得ません。ただ馬車や牛車が通れる軍征路は、随分と南にあるこれに限られたのではないかと。
 この問題は考古学なり他の文献史料などにより解決されるべきものであり、当然私の手に余ります。
 ただここではそうであると仮定して考えてみたいと想います。
 というのは、もしそうだとすると、ビシュバリクの戦略的重要性がより際立つからです。
 元々ビシュバリクが天山南路の高昌と通じておることは良く知られておることです。何せ、ウイグルのイディクートは前者を夏営地、後者を冬営地として、行ったり来たりしておったのですから。
 高昌(カラ・ホージョとも。唐代の西州。)はトルファン盆地にあります。グーグルマップでは「高昌故城」で検索できます。
 また、ビシュバリクより東方に赴けば、ハミ(哈密。伊吾。伊州とも。グーグルマップでは「哈密市」)に至ることも、地図を見れば一目瞭然です。
 この両者はいずれも西夏の方につながります。
 ゆえに、そもそもある程度の戦略的重要性は明らかでした。
 今回議論しようとするのは、更にこれに加えてということです。
 ここで上で仮定した如く、アルタイの軍征路が南の方のものに限られるとします。
 すると、ビシュバリクにかなりの軍勢を置けば、モンゴル高原への出入り口にフタをすることができる、その通行を妨げることができるのです。
 好都合なことに、ここは良好な夏営地です。つまりかなりの遊牧の軍勢の駐屯が可能なのです。
 そして想えば、このビシュバリクは唐朝が北庭都護府を置いた地でもあります。
 そしてここの重要性を最も良く理解しておったのが唐朝というのは、充分にあり得ます。この地への侵攻を成功させ、それにより世界帝国へと雄飛するを得たのですから。
 まず玄奘三蔵の旅を伝える慈恩伝にある不可解な部分を取り上げましょう。概略すれば以下となります。
 玄奘は、(天山北路の)可汗浮図城を通って進もうと考えておったが、伊吾 (ハミ)にて高昌国の王に請われたので、(天山南路にある)高昌国経由で進んだ。(注1)
 ところで可汗浮図城というのは、ビシュバリクのことであり、往時ここは西突厥の重要拠点でした。
 他方、高昌国は、西突厥の有力な臣従国でした。
 玄奘の当面の目的は、西突厥の可汗の下に赴き、その版図内の通行における庇護を願い出ることにあったと想われます。
 それでは、可汗浮図城と高昌国のどちらを経由して赴くべきでしょうか。
『可汗浮図城の城主は突厥の王族、もしくは重臣であろう。トルコ系であろうし、ゆえに漢語は解さないと想われ、また仏教徒である可能性はかなり低い。
 他方、この時の高昌王はキク氏という漢人系であり、漢語は解すであろう、また仏教徒である可能性はかなり高い。』
 この程度の情報は、伊吾に到着する前に入手可能であったろうと想われます。
 そして仏僧であり漢人である玄奘がどちらを選ぶかは明らかでしょう。
 であれば、可汗浮図城を経由して行くという計画を前もって立てるはずはありません。
 実際、高昌にて玄奘は高待遇を受けます。
 更には往還20年分の旅費として、黄金百両、銀銭三万、綾及び絹等五百疋を高昌王より授かっています。
 加えて、国王は、お願いの手紙と共に綾絹五百疋と果物二車を、西突厥可汗へ献じます。(注2)
 この手紙ですが、これには興味深い表現が見られ、慈恩伝の原文の方から私が訳したいと想います。
『法師(玄奘のこと)はれ奴の弟であり、婆羅門バラモン(=インド)国に(仏)法を求めるを欲しております。
 願わくは、可汗は奴を憐れむ如くに(法)師を憐れみになり、
 かさねて(可汗に)請うに、以西諸国に(以下を)勅して(=命じて)ください。
「鄔落馬(=宿駅馬)を給して、(法師を国から国へと)逓送して(=伝え送り)境より出せ」と』
 恐らく手紙はトルコ語で書かれ、その訳が玄奘に伝えられ、それが慈恩伝に記されておると想われます。
 高昌王自身は漢族であるも、恐らくその母も妃も突厥王族と想われます。
 そのゆえもあってか、この手紙にはトルコ系の心情に訴える表現が見られます。
 それは高昌王が自らを「奴」と称しているところです。
 通常「臣」とすれば、充分礼儀にかないます。
 ここであえて「奴」としているのは、過大に謙遜して己の身分を「奴隷」としているのではありません。
「奴隷の如く忠実なる臣」との意味であり、強調されておるのは、あくまで「忠義」です。
 トルコ系の社会には、「奴隷は最も忠実な者である」という考えがそもそもあるのです。
 西域における奴隷(グラームやマムルークと称される)の重用の背景には、この「トルコ系の奴隷に対する考え」が強く働いておると考えられ、ここに紹介する次第です。
 そしてその重用があってこそ、この者たちの国家権力の掌握が可能になるのは、言わずもがなでしょう。
 そして可汗の下より西(つまり、更にその先)にある諸国に宿駅馬を出すべく命じて下さるよう、依頼しておるのも興味を引きます。(鄔落はトルコ語ウラグの音写で宿駅馬を意味します。)
 それでは可汗の下に至るまでの玄奘一行の世話は誰がするのかというと、その途中にある国々です。
 これは前述した可汗への贈り物が鍵となります。
 チンギスの時も、それがカンへの贈り物である場合、経由地のノヤンや王には、それを無事に届ける義務が果たされました。
 突厥の場合も同様と想われます。
(一応、高昌王はその途上にある二十四国に各々大綾一疋を贈っています(注2)。
 しかしこれでは対価としては不十分と想われます。)
 まさに高昌王の配慮は至れり尽くせりです。
 以上のように細かく検討してみれば、いかがでしょう。
 これほどのことをなす高昌王の仏教への信仰のあつさを、玄奘が伊吾到着まで知らぬというのは、より一層信じがたいとなりましょう。
 よって、玄奘が可汗浮図城を訪れる計画であったというのは、事実ではないと想います。
 それでは、何故このような記述が慈恩伝にわざわざ入れられたのか。
 慈恩伝は玄奘の弟子が書いたものです。
 恐らく玄奘に、勇敢な敵情視察者との相貌を与えたかったのではないか。
 玄奘は皇帝の命に背いて出国しています。
 ゆえに『玄奘は実は(仏典を持ち帰ることの他に、)敵国内の情勢・地理の把握をもまた目的としておったのである』。例え後付けであれ、そのような出国を正当化しうる言い訳を必要としておったのではないかと想われます。
 実際、その情報を強く唐政権が欲したからこそ、まさに『大唐西域記』という書物が残っておるのでしょうし。
(玄奘の帰国は645年とされ、唐の可汗浮図城・高昌国の攻略は640年とされるので、これらの地に限っていえば、タイミング的に間に合ってはいないのですが。)

 他方で、慈恩伝のこの部分は可汗浮図城の名が唐朝に知れ渡っておったことも、また示しておると見て良いでしょう。
 そして唐朝の動きも、またこれが重要戦略拠点であることを裏付けます。
 前述の攻略の後、ここに庭州を置きます。
 また則天武后の時(702年)、ここを格上げして、北庭都護府としています。
 私自身これを知らぬ訳ではありませんでしたが、余り重く見ていませんでした。
 せいぜい屯田(つまり農耕)が可能なゆえに、ここに置いたのだろうという程度にしか。
 ただモンゴル高原への出入り口を塞ぐことができるとの戦略的重要性を併せて考えるならば、北庭 (ビシュバリク)というのは唐朝にとって、極めて重要であったことが良く分かります。
 北庭の地自体が農耕可能なことに加え、高昌から兵糧を輸送するならば、自前の軍事力(屯田兵)をある程度は維持可能となります。
 これに帰附した遊牧勢を加えれば、まさにかなりの規模となりえます。
 この軍勢をもって北庭に拠るならば、アルタイ西方の遊牧勢を抑えつつ、(アルタイ東方の)モンゴル高原におる遊牧勢との連合もまた防ぎ得ます。
 遊牧勢がなぜ帰附するかといえば、まずは安心して遊牧できる後背地が欲しいからです。
 農耕民と異なり、城塞に集住して近くで屯田という訳にはいきません。
 そのなりわいというのは、自ずと散らばったものとなり、またいざという時に逃げ込める城塞近くでなしうる場合は稀と言って良いでしょう。
 背後に敵がおっては、遊牧というなりわいは成り立たぬと言って良いのです。
 唐朝は、まさにこの遊牧勢特有の事情をうまく利用して、次々に自らに帰附させるのですが。
 より重要なのは、いざという時頼りになるかです。
「親分、助けてくだせえ」と言った時に、
「ほい。来た。合点承知。」とばかりに助けてくれなければ、子分になってもしょうがないとなりましょう。
 少し堅い言葉でいえば、盟主たり得るには、当然自前の軍事力の維持・展開というのが必要となります。
 そして、ここ北庭 (ビシュバリク)では、先述の如くそれが可能なのです。

 ところで、唐が進軍した時、可汗浮図城 (ビシュバリク)は恐れて、来降したと伝えられます。
 いくら戦略上、重要な地であっても、ここは特に要害堅固の地という訳ではありません。相応の軍勢がないと守れないということです。

 注1長澤和俊訳『玄奘三蔵 大唐大慈恩寺三蔵法師伝』光風社 1988年 二三貢

 注2 前掲書二九貢
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