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第2部開戦
4(モンゴルの進軍1)
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まだらのトクの祭祀を済ませた数日後、チンギスはケルレンの大オルドにおる軍勢を率いて合流地へと出発した。
その先頭を進む二隊には一方の旗手には黒の小トクを、他方にはまだらの小トクを一本ずつかかげさせた。
儀式に用いた大トクと残りの小トクは全て近衛隊があずかり、携えておった。
トクとは旗の如くに見えなくはないが、あくまでご神体である。軍神宿るトクはそれを携える軍勢を加護すると信じられておる。
チンギスは各々の遊牧地におる隊長たちに対しては、十分な準備の時間を与えるために、またその経路沿いの牧草のことも慮り、直接その地に至れとの軍令を発しておった。
合流地はかつてのナイマンのオルドであり、そこがどこにあるかは厳密には分からない。
ただ道教の師である長春真人を訪ねた使者が旧暦五月にそこにてチンギスから命を受けたと、西遊記が伝えておる(注1)。
それゆえその時そこにおったのは確かである。
モンゴル高原西半でかつて覇を唱えたナイマン勢のオルドならば、その季節の最も水と草の豊富なところというのは想像に難くない。またチンギスがそこを集結地に選んだ理由もそこにあろう。
秘史7巻194節(注2)によれば、モンゴルとの決戦を間近に控え、ナイマン勢を率いるタヤン・カンが布陣したのは、ハンガイ山脈中のカチル川沿いである。
ハンガイ山脈とは東西に長く連なる大山脈であり、ケルレンの大オルドとアルタイ山脈の間にある。つまり西に向かうチンギスたちにとってその経路上にある。
日本人からすれば、山脈と聞けば険阻なものとして避けるべきとの印象であり、何故平原を進まぬのかとなろう。
しかし乾燥地にては山麓は水と草を得やすきところであり、川沿いに進めないならば、山脈の北麓沿い、南麓沿いが東西方向に進まんとする軍にとっては=かつてのナイマン軍、今のモンゴル軍にとって=最も望ましき軍征路となる。たとえ多少高低があり、まっすぐ進めないことが多いとしてもである。
実際この山脈からは多くの川が流れ出て、大河オルホンやセレンゲの源流をなす。残念ながらカチル川がそのいずれであるかは定かでない。
ここから先は耶律楚材の西遊録が頼りになる(注3)。
楚材は中都(今の北京)近郊にて戌寅(一二一八年)の春旧暦三月一六日チンギスより西征に扈従すべしとの命を受けたとする。ただ西征の原因となったオトラル虐殺は早くとも同年の春以降であり、またモンゴルの進軍は翌年である。ゆえに、これはありえない。翌一二一九年の間違いである。
楚材は百日もせずにモンゴル軍の集結地に到着し、そこには既に大軍が集結しておったとする。またその地を山川あいまつわりと伝え、ハンガイ山脈中であろうとの推定と矛盾しない。
チンギスはハンガイ山脈中のいくつもの河谷沿いに別れて集結を図ると共に、長征に備えて馬群を太らせたのである。
王子のトゥルイの部隊、イェスンゲ率いる諸弟の部隊、駙馬たるオイラトの部隊、更にはモンゴル高原を牧地とする万人隊長、千人隊長たちの軍勢がここにて合流した。
楚材が合流地に着いたのは旧暦五、六月頃であろう。既に夏間近あるいは夏といって良い。続いて楚材は『明年』と記す。しかしその年の内、しかも到着後すぐ、遅くともせいぜい一月後には出発したとせねば、楚材自身の次の記述と合わぬ。盛夏に金山(アルタイ山脈)を過ぎたとの。
先述の如く楚材は出発年を一年早く誤っておるので、結果としては辻褄が合う。
(楚材の「西遊録」は、長春が高弟に記させた「西遊記」に比べ、詳細さではかなり劣る。それは、楚材が西征の後、しばらく経って、記憶を探りながら書いたゆえと想われる。この誤りも、そうした執筆経緯によるものと想われる。もしかしたら、楚材は一年余り前に別件で燕京を離れておったのかもしれない。)
そもそも遊牧勢が軍を集結させて一年近く留まるならば、その地の草を食べ尽くしてしまい、軍馬を太らせるどころか、飢え死にさせることになりかねぬ。
通常モンゴル軍は夏動かぬが、アルタイほどの高山にては最も水と草を得やすい季節は夏であり、大量の軍馬を引き連れておることを想えば、やはり夏アルタイを越えたのである。
アルタイの峠道については、西遊記が車の通行の不可能なところは、オゴデイが兵を出して道を通したことを伝える。(注4)
それもあって、このアルタイ越えに際しては、オゴデイが自ら出迎えに来て、先導した。
ところで聖武親征録(以下親征録)にはチンギスはイルティシュ川(アルタイ山の西にある)に至り、そこにて夏を過ごし、秋進軍したとある。
ゆえにそこにて小休憩の後出発したのであろう。
文官たる楚材は軍勢の後から進んだ可能性も高く、とすれば親征録とのズレもよりうなずけるものとなろうか。
注1:岩村忍訳『長春眞人西遊記』筑摩書房 1948年 21貢
注2:参照した秘史の訳書については、参考文献に記しております。
注3 松崎光久訳『耶律楚材文集』(中国古典新書続編)明徳出版社 平成13年 95貢
注4 岩村 前掲訳書 58貢
その先頭を進む二隊には一方の旗手には黒の小トクを、他方にはまだらの小トクを一本ずつかかげさせた。
儀式に用いた大トクと残りの小トクは全て近衛隊があずかり、携えておった。
トクとは旗の如くに見えなくはないが、あくまでご神体である。軍神宿るトクはそれを携える軍勢を加護すると信じられておる。
チンギスは各々の遊牧地におる隊長たちに対しては、十分な準備の時間を与えるために、またその経路沿いの牧草のことも慮り、直接その地に至れとの軍令を発しておった。
合流地はかつてのナイマンのオルドであり、そこがどこにあるかは厳密には分からない。
ただ道教の師である長春真人を訪ねた使者が旧暦五月にそこにてチンギスから命を受けたと、西遊記が伝えておる(注1)。
それゆえその時そこにおったのは確かである。
モンゴル高原西半でかつて覇を唱えたナイマン勢のオルドならば、その季節の最も水と草の豊富なところというのは想像に難くない。またチンギスがそこを集結地に選んだ理由もそこにあろう。
秘史7巻194節(注2)によれば、モンゴルとの決戦を間近に控え、ナイマン勢を率いるタヤン・カンが布陣したのは、ハンガイ山脈中のカチル川沿いである。
ハンガイ山脈とは東西に長く連なる大山脈であり、ケルレンの大オルドとアルタイ山脈の間にある。つまり西に向かうチンギスたちにとってその経路上にある。
日本人からすれば、山脈と聞けば険阻なものとして避けるべきとの印象であり、何故平原を進まぬのかとなろう。
しかし乾燥地にては山麓は水と草を得やすきところであり、川沿いに進めないならば、山脈の北麓沿い、南麓沿いが東西方向に進まんとする軍にとっては=かつてのナイマン軍、今のモンゴル軍にとって=最も望ましき軍征路となる。たとえ多少高低があり、まっすぐ進めないことが多いとしてもである。
実際この山脈からは多くの川が流れ出て、大河オルホンやセレンゲの源流をなす。残念ながらカチル川がそのいずれであるかは定かでない。
ここから先は耶律楚材の西遊録が頼りになる(注3)。
楚材は中都(今の北京)近郊にて戌寅(一二一八年)の春旧暦三月一六日チンギスより西征に扈従すべしとの命を受けたとする。ただ西征の原因となったオトラル虐殺は早くとも同年の春以降であり、またモンゴルの進軍は翌年である。ゆえに、これはありえない。翌一二一九年の間違いである。
楚材は百日もせずにモンゴル軍の集結地に到着し、そこには既に大軍が集結しておったとする。またその地を山川あいまつわりと伝え、ハンガイ山脈中であろうとの推定と矛盾しない。
チンギスはハンガイ山脈中のいくつもの河谷沿いに別れて集結を図ると共に、長征に備えて馬群を太らせたのである。
王子のトゥルイの部隊、イェスンゲ率いる諸弟の部隊、駙馬たるオイラトの部隊、更にはモンゴル高原を牧地とする万人隊長、千人隊長たちの軍勢がここにて合流した。
楚材が合流地に着いたのは旧暦五、六月頃であろう。既に夏間近あるいは夏といって良い。続いて楚材は『明年』と記す。しかしその年の内、しかも到着後すぐ、遅くともせいぜい一月後には出発したとせねば、楚材自身の次の記述と合わぬ。盛夏に金山(アルタイ山脈)を過ぎたとの。
先述の如く楚材は出発年を一年早く誤っておるので、結果としては辻褄が合う。
(楚材の「西遊録」は、長春が高弟に記させた「西遊記」に比べ、詳細さではかなり劣る。それは、楚材が西征の後、しばらく経って、記憶を探りながら書いたゆえと想われる。この誤りも、そうした執筆経緯によるものと想われる。もしかしたら、楚材は一年余り前に別件で燕京を離れておったのかもしれない。)
そもそも遊牧勢が軍を集結させて一年近く留まるならば、その地の草を食べ尽くしてしまい、軍馬を太らせるどころか、飢え死にさせることになりかねぬ。
通常モンゴル軍は夏動かぬが、アルタイほどの高山にては最も水と草を得やすい季節は夏であり、大量の軍馬を引き連れておることを想えば、やはり夏アルタイを越えたのである。
アルタイの峠道については、西遊記が車の通行の不可能なところは、オゴデイが兵を出して道を通したことを伝える。(注4)
それもあって、このアルタイ越えに際しては、オゴデイが自ら出迎えに来て、先導した。
ところで聖武親征録(以下親征録)にはチンギスはイルティシュ川(アルタイ山の西にある)に至り、そこにて夏を過ごし、秋進軍したとある。
ゆえにそこにて小休憩の後出発したのであろう。
文官たる楚材は軍勢の後から進んだ可能性も高く、とすれば親征録とのズレもよりうなずけるものとなろうか。
注1:岩村忍訳『長春眞人西遊記』筑摩書房 1948年 21貢
注2:参照した秘史の訳書については、参考文献に記しております。
注3 松崎光久訳『耶律楚材文集』(中国古典新書続編)明徳出版社 平成13年 95貢
注4 岩村 前掲訳書 58貢
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