後宮流転花――宋の孟皇后(第1部 完)

ひとしずくの鯨

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第2部

第5話 蘇軾3

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 もう少しばかり、蘇軾の獄の顛末を追おう。何しろ、この続資治通監長編という史料はふくよかにその時代の芳香を伝える。これに酔うを求めん。神宗の元豊2年(1079)11月己未の条は次の如くに伝える。



(前提:ここでは、蘇軾の詩が問題となっている。そこにて、自らが重用されぬことを恨み、神宗とその政策をそしっているとして、厳罰にくだすべきという訴えが諌官よりなされる)



『蘇軾は既に獄(御史ぎょしによる取り調べ)に下される。衆はこれを危ぶむも、あえて正言せいげん(はばからずに、直言)する者なし。

 直舎人院ちょくとねりいん王安礼おうあんれい王安石おうあんせきの弟)はひそかに進みていはく、

「いにしえより、度量が大きな君主は、言葉をもって人をとがめません。
 蘇軾は文士であり、もとより、その才をもって頼むところがあり、爵位は立ちどころに得られるべしと(詩にて)言っておったと。しかるに、かようなあり様(中央で重用されず、地方官に留まる状況)となっては、その(詩の)中にて恨みを吐かぬということもないでしょう。
 恐れるのは、後世にて(陛下が)才を容れることができないほどに狭量な君主であると評されること。願わくは、蘇軾の自白という手柄を諌官に得させることなく、陛下がこの獄を終わらせるを」

 神宗いわく、

「朕はもとより厳しく責めてはおらぬ。ただ、欲したは諌官を説得しうる道理である。まさに、卿(王安礼)のために、蘇軾を許すとしよう(注1)」

 そして神宗は王安礼をいさめて、いわく、

だい(屋敷。ここでは謁見に用いた殿)を去るさい、言を漏らすなかれ。蘇軾は衆から恨みを買っておる。恐れるは、諌官が蘇軾とのえにしのために、卿を害することである」


 始め(つまり、この謁見の前、)王安礼は殿の(控え室)におり、御史中丞の李定とまみえた。王安礼が蘇軾の安否の状況を問うと、

「蘇軾と(そなたの兄の)金陵丞相(王安石)はことを論じ、合わず。そなたも和解するなかれ。(なせば、)人は(罪人の蘇軾と)党をなしたとみなすぞ(注2)」

 これに至り(つまり、謁見の後、)舎人院とねりいんに帰る。諌官の張璪ちょうそうに遇う。張璪ちょうそうはいきどおり、色をなしていはく、

「そなたは果たして蘇軾を救うのか? いかなる(陛下の)みことのりをその獄へもたらすのか?」

 王安礼は答えず。

 その後、獄(取り調べ)は果たしてゆるみ、にわかに蘇軾の罪は薄くなる。(注3)』


 注1:ここは、「そなたにそう言われたならば、許すしかあるまい」くらいの意味合いであろう。
 ここ以降は、二人の親密さなり、信頼関係なりが濃密に読み取れるところである。そもそも、神宗にとって王安石はまつりごとの師匠のような存在であり、王一族が特別な存在であったことが良く分かる。
 他方、蘇軾は神宗――王安石体制の下で、地方に出される。ただ、王安石はこの元豊2年の時点では宰相を辞め、金陵に隠居している。


 注2:しばしば、史料に「死党」という言葉が見だせる。全員、死ぬべき党。蘇軾と党を組むならば、すなわち、死党ならんというわけである。つまり、脅しているのである。

 注3:蘇軾は黄州安置なので、無罪放免という訳ではなく、相応に重い処分が果たされている。これより重いとなると海南島への島流しとなる。神宗をそしったとなれば、そうなるもあり得たろう。
 他方で、宋朝は外臣は死刑に処さずを誇りとしておったので、そこまで重くなることはない。
 獄は自白を迫るために、拷問もなされるときもあったという。蘇軾に対する取り調べがどのようなものであったかは、史料は伝えない。




 この書はやはり、もう一件、同様の動きを伝える。せっかくなので、それも紹介しよう。



呉充ごじゅうはまさに宰相をなす。ある日、神宗に問う。

「魏の武帝(曹操)は如何なる人ぞ?」

 神宗いわく。

「何ぞ言うに足る(何かを言うほどの人物ではない)」

 呉充いわく、「陛下は行動するにおいて、堯・舜を以て法となし、曹操を軽んずるは、もとよりよろしい。ところで、曹操の猜忌(そねみ嫌う)はかくのごとくなれど、なお、禰衡でい こうを容れることはできました。陛下は堯・舜を以て法となすのに、蘇軾一人を容れることができない」

 神宗は驚いていわく、

「朕に他意なし。まさに放出(取り調べより解放)せん」』



 いかがでしたか。いずれの進言も、いにしえの王を習いとすべきとします。彼らは新党なのですが、その政治理念はかようなものです。

 新・旧の区分は、あくまで王安石の政策を基準としてです。これに賛成する、もしくは受け継ぐを新党、これに反対するを旧党というのです。
 
 また、いずれの進言も蘇軾を厳罰に処すべきでないとしてのものです。二人はいずれも神宗朝廷にて重鎮ともいえる存在。彼らにとっては、地方に追いやれば、それで十分との認識があったということ。これも、また政治なのです。
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