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終業式も間近に迫った日の昼休み、聖は一人音楽室にこもっていた。
遥の家に行って以来、何となく後ろめたくて、由宇のことを避けるようになっていた。
由宇も気づいてはいるだろうが、会話の糸口が掴めないようで、二人の間には気まずい空気が流れていた。
一人になって落ちついて考えれば、心が澄み渡って、自分の本当の気持ちが分かるのではないかと聖は考えていた。
そうすれば、その声に従って進むべき道を決めることができる。
流されるのではなく、自らの意思で未来を選ぶことができる。
弁当を食べ終えると、聖はピアノの前に腰かけ、鍵盤の上に指を置いた。
指が弾くと、正しく調律された音がぽんと元気よく鳴る。
ピアノはじっと、物言わず奏でられるのを待ちわびているように見えた。
(はじめは何だっけ……忘れちゃったな)
中学まではピアノを習っていたが、あまり上達はしなかった。
自分のほうがピアノを弾くのは好きだったが、才能は兄の方が遥かに秀でていたと聖は思う。
兄は聖に遠慮をしてか、そもそも興味がなかったのか、すぐに辞めてしまった。
聖はすうっと深呼吸すると、美しい静かな調べを奏でだした。
曲名は分からない。けれど、昔から妙に耳の奥に残っている旋律だった。
楽譜もないのに覚えていて、どこで聴いたのだろうと調べてみても、結局見つけることができなかった。
弾いているうちに気分は快く高揚し、指先は翼が生えたように軽くなるのが分かった。
まるで何かが聖を助け、勝手に指を動かしてくれているかのように。
曲が転調し佳境に差しかかったその時、頭の中で何かが鮮やかな色で弾け、閃いた。
聖の口から、知らず言葉が伝い落ちる。
「思い出した」
どうしてだろう、誰に説明されたわけでもないのに、聖はこの曲の作者を唐突に理解していた。
電流に打たれたように全身が歓喜に痺れる。
(栞さんだ)
眩暈がするくらいの早さで、追憶がどっと脳に流れ込んでくる。
なぜ、この曲がいくら探しても見つからなかったのか。
どうしてこんなにも懐かしい感じがするのか。忘れられなかったのか。
(一人でよく弾いていた……いや、違う。これは……この曲は……)
彼女がヴァンのために作った曲だ。
『本当に愛していたわ。……本当に』
誰もいないはずの音楽室に、凛と透き通った女性の声が響き渡る。
歌うような玲瓏な音色に、聖は恐怖さえ忘れて聞き入った。
『彼のためなら死んでもいいと思った。だけど彼はそれを許さなかった。血の契約は、彼のための契約じゃない、私を守るための契約だった。私の願いを、彼は叶えてくれたの』
その声は部屋のどこかから響いてくるのか、それとも自分の中から響いてくるのか。
それすら分からず、聖は辺りを見回した。旋律の清流は緩やかに収束し、やが海へと行きついていた。
『忘れないで。あなたの中に眠る私ではなく、あなたを愛している彼のことを……』
「待って。待ってください、栞さん!」
聖ががむしゃらに伸ばした手は虚しく宙を掻いた。
それからどんなに呼びかけても、栞の声が応えることはなかった。
再び静謐になった音楽室の中、聖はピアノの前でだらりと両手を下ろす。
心臓がマラソンを走り終えた後のように激しい音を立てていた。
今度は、幻聴を聴いたとは思わなかった。
不思議と恐ろしくもなく、奇妙に心が感応して、一体感とシンパシーを感じた。
栞は幽霊ではなく、自分の前世なのだということを素直に受け入れることができた。
(このことを話したら、由宇は何て言うだろう)
またあの心配そうな顔つきで、聖の精神状態を憂慮するのだろうか。
(由宇のところへ行こう)
そう思って腰を浮かせかけたとき、背後から突然抱きしめられる腕を感じて、聖は声すらあげられずに身体を強張らせた。
「?!」
身をよじってあがこうとするが、力はさらに強まって、まるで枷のように締め付けてくる。
首を回して背後を確認することさえできず、聖は恐慌状態に陥った。
「誰だよ、離せ!!」
叫び声をあげて暴れると、鼻先を清爽な香りがかすめてどきりとした。
(この匂いは)
完全に硬直しきった聖の耳元で、意地悪い笑い声が響いた。
「相変わらず細っこいな、お前は」
「……ヴァン!お前、何で!」
まるで確かめるように身体をなぞる指に、聖は唇をかみ締めた。
痣のあたりに印をつけるようにして撫でられ、息を吹きかけられて震え上がる。
「どうした、もう待ちきれないのか?俺に血を吸われたくてたまらなかったんだろう」
ヴァンの低く心地よい声が理性を酔わせようとする。
途方もない酩酊感にくらりとしながらも、聖は必死で肩を突っ張った。
「誰がそんなこと。お前なんかに血を吸われてたまるか!」
ヴァンは聖の反論を軽やかに無視すると、首筋に唇を寄せ、やや顔をしかめた。
「違う奴の匂いがするな」
遥の家に行って以来、何となく後ろめたくて、由宇のことを避けるようになっていた。
由宇も気づいてはいるだろうが、会話の糸口が掴めないようで、二人の間には気まずい空気が流れていた。
一人になって落ちついて考えれば、心が澄み渡って、自分の本当の気持ちが分かるのではないかと聖は考えていた。
そうすれば、その声に従って進むべき道を決めることができる。
流されるのではなく、自らの意思で未来を選ぶことができる。
弁当を食べ終えると、聖はピアノの前に腰かけ、鍵盤の上に指を置いた。
指が弾くと、正しく調律された音がぽんと元気よく鳴る。
ピアノはじっと、物言わず奏でられるのを待ちわびているように見えた。
(はじめは何だっけ……忘れちゃったな)
中学まではピアノを習っていたが、あまり上達はしなかった。
自分のほうがピアノを弾くのは好きだったが、才能は兄の方が遥かに秀でていたと聖は思う。
兄は聖に遠慮をしてか、そもそも興味がなかったのか、すぐに辞めてしまった。
聖はすうっと深呼吸すると、美しい静かな調べを奏でだした。
曲名は分からない。けれど、昔から妙に耳の奥に残っている旋律だった。
楽譜もないのに覚えていて、どこで聴いたのだろうと調べてみても、結局見つけることができなかった。
弾いているうちに気分は快く高揚し、指先は翼が生えたように軽くなるのが分かった。
まるで何かが聖を助け、勝手に指を動かしてくれているかのように。
曲が転調し佳境に差しかかったその時、頭の中で何かが鮮やかな色で弾け、閃いた。
聖の口から、知らず言葉が伝い落ちる。
「思い出した」
どうしてだろう、誰に説明されたわけでもないのに、聖はこの曲の作者を唐突に理解していた。
電流に打たれたように全身が歓喜に痺れる。
(栞さんだ)
眩暈がするくらいの早さで、追憶がどっと脳に流れ込んでくる。
なぜ、この曲がいくら探しても見つからなかったのか。
どうしてこんなにも懐かしい感じがするのか。忘れられなかったのか。
(一人でよく弾いていた……いや、違う。これは……この曲は……)
彼女がヴァンのために作った曲だ。
『本当に愛していたわ。……本当に』
誰もいないはずの音楽室に、凛と透き通った女性の声が響き渡る。
歌うような玲瓏な音色に、聖は恐怖さえ忘れて聞き入った。
『彼のためなら死んでもいいと思った。だけど彼はそれを許さなかった。血の契約は、彼のための契約じゃない、私を守るための契約だった。私の願いを、彼は叶えてくれたの』
その声は部屋のどこかから響いてくるのか、それとも自分の中から響いてくるのか。
それすら分からず、聖は辺りを見回した。旋律の清流は緩やかに収束し、やが海へと行きついていた。
『忘れないで。あなたの中に眠る私ではなく、あなたを愛している彼のことを……』
「待って。待ってください、栞さん!」
聖ががむしゃらに伸ばした手は虚しく宙を掻いた。
それからどんなに呼びかけても、栞の声が応えることはなかった。
再び静謐になった音楽室の中、聖はピアノの前でだらりと両手を下ろす。
心臓がマラソンを走り終えた後のように激しい音を立てていた。
今度は、幻聴を聴いたとは思わなかった。
不思議と恐ろしくもなく、奇妙に心が感応して、一体感とシンパシーを感じた。
栞は幽霊ではなく、自分の前世なのだということを素直に受け入れることができた。
(このことを話したら、由宇は何て言うだろう)
またあの心配そうな顔つきで、聖の精神状態を憂慮するのだろうか。
(由宇のところへ行こう)
そう思って腰を浮かせかけたとき、背後から突然抱きしめられる腕を感じて、聖は声すらあげられずに身体を強張らせた。
「?!」
身をよじってあがこうとするが、力はさらに強まって、まるで枷のように締め付けてくる。
首を回して背後を確認することさえできず、聖は恐慌状態に陥った。
「誰だよ、離せ!!」
叫び声をあげて暴れると、鼻先を清爽な香りがかすめてどきりとした。
(この匂いは)
完全に硬直しきった聖の耳元で、意地悪い笑い声が響いた。
「相変わらず細っこいな、お前は」
「……ヴァン!お前、何で!」
まるで確かめるように身体をなぞる指に、聖は唇をかみ締めた。
痣のあたりに印をつけるようにして撫でられ、息を吹きかけられて震え上がる。
「どうした、もう待ちきれないのか?俺に血を吸われたくてたまらなかったんだろう」
ヴァンの低く心地よい声が理性を酔わせようとする。
途方もない酩酊感にくらりとしながらも、聖は必死で肩を突っ張った。
「誰がそんなこと。お前なんかに血を吸われてたまるか!」
ヴァンは聖の反論を軽やかに無視すると、首筋に唇を寄せ、やや顔をしかめた。
「違う奴の匂いがするな」
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