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夜空の中ほどに浮かぶ白い月の光が室内に差し込んで、聖の憂い顔を照らし出す。
それは一枚の絵のように完成され洗練された、美しい眺めであった。
月は丸々と肥え太っている。もうすぐあの些細な欠落も光で埋められ、綻びのない円へと結実するだろう。
月満ちるときが迫っている。
(満月……あいつと初めて会ったのも満月の夜だった)
どうしてだろう。心の隙間を冷たい風が吹く。
ヴァンが姿を消してからこっち、何故だか落ち着かない日々が続いている。
まるで、どこかに重大な何かを置き忘れてしまったかのように。
思わずため息を漏らすと、遥は見透かしたように言った。
「彼に帰ってきてほしい?」
聖は肩をびくっとさせた。驚いて見つめると、遥の表情は真剣に張り詰めていた。
「それは……」
躊躇するような長い間があった。未だに答えを見つけることができず、聖は自分を歯がゆく思った。
あの男を突っぱねることができない自分を。
「聖君。僕は君に一つ嘘をついていたことがあるんだ」
黙っていると、遥は真剣な面持ちで切り出した。
「え……」
聖の髪が風になびき、簪が澄んだ音を立てて揺れる。聖は一瞬状況さえ忘れて唾を飲んだ。
「この前君に話したとき、君は月代彼方が栞の命の恩人だと言ったね」
確認するように問われ、聖はおずおずと頷いた。
「……はい」
「でも、それは本当のことじゃない。確かに月代彼方はヴァンの封印に成功した。だけど、その後まもなく栞さんは十六歳の若さで夭折している」
時が凍って結晶のように凝結した。さわさわと穏やかに流れていた風が、止まる。
「どういう……ことですか」
震える声で尋ねた聖に、遥は静かに言った。
「吸血鬼は人の血を吸って、それを生命力に長い寿命を生きている。だけどそれは、彼ら自身が血を生命力に転換しているわけじゃない。血を媒介に、生命力そのものを奪い、自分の身体に取り込んでいるんだよ。生命力を血もろとも吸い上げていると言えば分かるかな」
難解な説明を自分の中で把握するのは容易なことではなかった。
聖は頷きながら、必死で話についていこうとした。話の先が決して良いものではないことが見えていたからだった。
「栞さんはそれを知らなかったのか、あるいは知っていたけれどヴァンに逆らえなかったのか……それは分からない。だけど結果的に、彼女の中に蓄えられていた生命力は急速に吸い上げられて枯渇し、彼女は早世することになった」
「そんな」
聖は口を手で覆った。それでは、ヴァンが栞を殺したようなものではないか。
遥はそんな聖の動揺を見抜いてか、追い討ちをかけるように言った。
「君は、ヴァンに血を吸われたあと眩暈が続いたり、うまく立てなくなったりしたことはなかったかい?
……吸血鬼が一度に吸う血の量は知れている。たかだかコップ一杯や二杯程度のものだ。健康な人間なら、貧血を起こして倒れるほどの量じゃない」
遥の言いたいことが読めて、聖は慄然とした。
「聖君の血が特別だというのは、そういう意味でもある。おそらく、血液が含有する生命力の質が他の人間よりも多いんだろう。そのお陰で効率よく力を得られるし、理想的な霊媒の資質もある。彼にとっては、まさに最高に都合の良い存在というわけだ」
「霊媒って……」
ああ、と遥は思い出したように、
「霊視をすることができ、霊体に力を貸し与えることのできる存在のことだよ。ヴァンは今、肉体と切り離された霊体の状態だから、普通の人間からは力を得られない」
聖は後頭部を鈍器で殴りつけられたような衝撃を受けていた。
(じゃあ、あいつにとって俺は本当に、ただの餌だったのか)
ヴァンは聖を特別だと呼んだ。愛しているとも言った。
けれどそれが、自分が貪るための犠牲の子羊に対する愛情だとしたら?
「君はヴァンに命そのものを吸い上げられているんだよ。二百年前、栞さんを殺すことで彼は強大な力を得た。そして今度は君を殺すことで、完全に復活しようとしている」
このままでは自分の命を削り取られ、行きつく先は死しかない。
恐怖は小刻みな震えとなり、震えは全身に伝わり、やがて激しいわななきに変わった。
初夏の涼しい夜だというのに、聖は極寒の地を吹雪の中さすらう旅人のように、体の芯から凍りついていた。
遥はそれを哀憐の情をこめて見つめると、そっと目を伏せた。
「ごめん。君を怖がらせまいと思って、今まで言わないようにしていたんだ。できることなら、何も知らせずに全てを終わらせたかった」
遥の気遣いが身に染みて、聖は痛烈な悔恨が胸を襲うのが分かった。一体、自分は何を考えていたのだろう。
「すみません。俺、自分がこのままじゃ死んでしまうだなんて思わなかった。ただ血を吸われているだけだと思っていたんです。それなのに、何も知らないで遥さんの邪魔をして、遥さんが色々考えて配慮してくれてたことも、全部無駄にして」
不安と罪悪感のあまり、聖は泣き出しそうになった。俯いて小さく肩を震わせる。
「駄目だよ」
遥は押し殺したような声で言った。
「え、」
顔を上げかけた聖の肩に手を回して、後ろから羽交い絞めにする。
「駄目だよ、僕の前でそんな顔をしちゃ」
そう言って、遥は聖のうなじに手をかけて大きくはだけさせ、わざと傷跡に沿って唇を這わせた。
「やっ……!」
音をたてて吸い上げられ、聖がかすかに上ずった声をあげる。
力なく抵抗しようとした聖の手首を掴んで、遥は耳元で言った。
「君を守れるのは僕しかいない。絶対に、誰にも渡したりはしない」
窓外に広がる夜の闇が、二人を包み込んでいた。
それは一枚の絵のように完成され洗練された、美しい眺めであった。
月は丸々と肥え太っている。もうすぐあの些細な欠落も光で埋められ、綻びのない円へと結実するだろう。
月満ちるときが迫っている。
(満月……あいつと初めて会ったのも満月の夜だった)
どうしてだろう。心の隙間を冷たい風が吹く。
ヴァンが姿を消してからこっち、何故だか落ち着かない日々が続いている。
まるで、どこかに重大な何かを置き忘れてしまったかのように。
思わずため息を漏らすと、遥は見透かしたように言った。
「彼に帰ってきてほしい?」
聖は肩をびくっとさせた。驚いて見つめると、遥の表情は真剣に張り詰めていた。
「それは……」
躊躇するような長い間があった。未だに答えを見つけることができず、聖は自分を歯がゆく思った。
あの男を突っぱねることができない自分を。
「聖君。僕は君に一つ嘘をついていたことがあるんだ」
黙っていると、遥は真剣な面持ちで切り出した。
「え……」
聖の髪が風になびき、簪が澄んだ音を立てて揺れる。聖は一瞬状況さえ忘れて唾を飲んだ。
「この前君に話したとき、君は月代彼方が栞の命の恩人だと言ったね」
確認するように問われ、聖はおずおずと頷いた。
「……はい」
「でも、それは本当のことじゃない。確かに月代彼方はヴァンの封印に成功した。だけど、その後まもなく栞さんは十六歳の若さで夭折している」
時が凍って結晶のように凝結した。さわさわと穏やかに流れていた風が、止まる。
「どういう……ことですか」
震える声で尋ねた聖に、遥は静かに言った。
「吸血鬼は人の血を吸って、それを生命力に長い寿命を生きている。だけどそれは、彼ら自身が血を生命力に転換しているわけじゃない。血を媒介に、生命力そのものを奪い、自分の身体に取り込んでいるんだよ。生命力を血もろとも吸い上げていると言えば分かるかな」
難解な説明を自分の中で把握するのは容易なことではなかった。
聖は頷きながら、必死で話についていこうとした。話の先が決して良いものではないことが見えていたからだった。
「栞さんはそれを知らなかったのか、あるいは知っていたけれどヴァンに逆らえなかったのか……それは分からない。だけど結果的に、彼女の中に蓄えられていた生命力は急速に吸い上げられて枯渇し、彼女は早世することになった」
「そんな」
聖は口を手で覆った。それでは、ヴァンが栞を殺したようなものではないか。
遥はそんな聖の動揺を見抜いてか、追い討ちをかけるように言った。
「君は、ヴァンに血を吸われたあと眩暈が続いたり、うまく立てなくなったりしたことはなかったかい?
……吸血鬼が一度に吸う血の量は知れている。たかだかコップ一杯や二杯程度のものだ。健康な人間なら、貧血を起こして倒れるほどの量じゃない」
遥の言いたいことが読めて、聖は慄然とした。
「聖君の血が特別だというのは、そういう意味でもある。おそらく、血液が含有する生命力の質が他の人間よりも多いんだろう。そのお陰で効率よく力を得られるし、理想的な霊媒の資質もある。彼にとっては、まさに最高に都合の良い存在というわけだ」
「霊媒って……」
ああ、と遥は思い出したように、
「霊視をすることができ、霊体に力を貸し与えることのできる存在のことだよ。ヴァンは今、肉体と切り離された霊体の状態だから、普通の人間からは力を得られない」
聖は後頭部を鈍器で殴りつけられたような衝撃を受けていた。
(じゃあ、あいつにとって俺は本当に、ただの餌だったのか)
ヴァンは聖を特別だと呼んだ。愛しているとも言った。
けれどそれが、自分が貪るための犠牲の子羊に対する愛情だとしたら?
「君はヴァンに命そのものを吸い上げられているんだよ。二百年前、栞さんを殺すことで彼は強大な力を得た。そして今度は君を殺すことで、完全に復活しようとしている」
このままでは自分の命を削り取られ、行きつく先は死しかない。
恐怖は小刻みな震えとなり、震えは全身に伝わり、やがて激しいわななきに変わった。
初夏の涼しい夜だというのに、聖は極寒の地を吹雪の中さすらう旅人のように、体の芯から凍りついていた。
遥はそれを哀憐の情をこめて見つめると、そっと目を伏せた。
「ごめん。君を怖がらせまいと思って、今まで言わないようにしていたんだ。できることなら、何も知らせずに全てを終わらせたかった」
遥の気遣いが身に染みて、聖は痛烈な悔恨が胸を襲うのが分かった。一体、自分は何を考えていたのだろう。
「すみません。俺、自分がこのままじゃ死んでしまうだなんて思わなかった。ただ血を吸われているだけだと思っていたんです。それなのに、何も知らないで遥さんの邪魔をして、遥さんが色々考えて配慮してくれてたことも、全部無駄にして」
不安と罪悪感のあまり、聖は泣き出しそうになった。俯いて小さく肩を震わせる。
「駄目だよ」
遥は押し殺したような声で言った。
「え、」
顔を上げかけた聖の肩に手を回して、後ろから羽交い絞めにする。
「駄目だよ、僕の前でそんな顔をしちゃ」
そう言って、遥は聖のうなじに手をかけて大きくはだけさせ、わざと傷跡に沿って唇を這わせた。
「やっ……!」
音をたてて吸い上げられ、聖がかすかに上ずった声をあげる。
力なく抵抗しようとした聖の手首を掴んで、遥は耳元で言った。
「君を守れるのは僕しかいない。絶対に、誰にも渡したりはしない」
窓外に広がる夜の闇が、二人を包み込んでいた。
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