84 / 174
夏の章
82
しおりを挟む
振り上げた斧が頭をかち割る感触が、今でも掌に残っている。
躊躇はなかった。微塵もなかった。
飛び散る脳漿と砕ける骨の音を聞きながら、痙攣する体を見下ろしながら、何度も何度も、原型を留めなくなるまで淡々と斧を振り下ろし続けた。
もう二度と起き上がらないように。万に一つも生き残る可能性がないように。
首都州の北東、ノヴィアル州は大陸中最も寒冷な気候と痩せた大地が広がっている。
ルートの生まれ育ったナユタの村も例外ではなかった。
一年の半分以上は霧と雪と雨に鎖され、作物の育ちも悪く、外界から隔絶された農民たちは諦めだけを覚え、徒労と虚しさをやり過ごすすべを身につける。
物心ついてからの記憶は、どこをすくい上げても陰惨なものばかりだった。
「食わせてもらってるだけありがたいと思え」というのが、その男の口癖だった。
義父が自分の伯父にあたるということは何となく知っていたが、きちんと説明されたことはなかった。
伯母はおらず、十歳離れた義姉はいつもルートをかばい、荒れた土地を耕作し、繕い物を覚え、僅かな食材で料理をつくってくれた。
伯父は村に一つしかない酒場に毎日昼間から入り浸り、まともに働いたことはなかった。
盾突けば、拳が真っ赤になるまで殴られた。
これ以上やったら死ぬと、義姉が止めに入ってくれて事なきを得たのも一度や二度ではなかった。
五歳になると村の子供たちはプライマリーに通ったが、ルートは当然のように学ぶ機会を取り上げられた。
野良仕事、子守り、キノコ採り、薪集め。
ありとあらゆる仕事をする合間に、家にあった僅かな書物をむさぼり読んで字を覚えた。
ある日、家で炊事をしていた姉の横でルートが何気なく聖詩を口ずさむと、姉が顔色を変えてにじり寄ってきた。
一万七千五百にもなる聖詩の一言一句をどこで暗記したのかと問われ、プライマリーの教室の軒先に座り込んで聞き覚えたと答えると、その表情は驚愕から歓喜に変わった。
姉はルートに教育を受けさせてやってくれと直談判し、父が断るやいなや、自分がこつこつと貯めてきた小銭の全額と、残りは知り合いを一軒一軒回って借り、そのかき集めた金でルートをミドルスクールへ通わせてくれた。
父親はそれが面白くなかったらしい。
ルートはよく分かっていた。義父は自分を憎んでいる、ほとんど本能的に憎んでいるということも。
ミドルスクールを卒業するころ、しゃかりきになって働き借金を返済し続けてきた姉が、とうとう倒れた。
肺病だった。
ルートはイミディエイトへの進学を諦め、知人の口利きで奉公先を見つけて働き始めた。
ナユタの村から遠く離れた、炭鉱での下働きである。
眠る暇もなければ満足に食事も与えられない、想像を絶する劣悪な労働環境の中、同じ年頃の子供たちはばたばたと死んでいった。
死ねば虫けらのように掘られた穴に放り投げられる。
もとより金で売り払われた者たちばかり、異を唱える者などありはしない。
毎月の給料を、ルートは一切手をつけずに姉の元へ仕送った。
入院費用が貯まるまで、姉は自宅で医師の往診を受けながら静養しているはずだった。
定められた契約期間の三年を終えて戻ってくると、姉は死んでいた。
ささやかな葬儀も営まれたと、後ろめたそうな表情で村の者が言った。ルートが戻る一年も前のことだったという。
仕送った金のほとんどが義父の懐に消え、姉は最後の最後まで医者を呼んでもらえなかったことを知り、ルートは自らの浅はかさを呪った。
赤ら顔で帰ってきた義父を問い詰めると、グローブのような分厚い拳が飛んできた。
血を流してうずくまるルートに覆いかぶさり、酒臭い息で父は罵った。
「お前が死ねばよかったんだよ」と。
これで生きる意味も目的もなくなったと言って、父はルートの左耳に穴を開けた。
奴隷は高く売れる。お前の顔はもう見たくないから売り飛ばすので、目の前から消えてくれろと。
それが何の取り柄もなく、何の役にも立たなかったお前が、育ててやった恩に報いる唯一のことだと。
食うにつめた暮らしを送り、嫁にも行けず、義父に喰い物にされ、義弟の犠牲になり、借金に追われ、とうとう病気に命まで奪われた。
何の幸福も与えられなかった姉の人生。
それを思うと、ルートは死にもの狂いの雄叫びを上げていた。
躊躇はなかった。微塵もなかった。
飛び散る脳漿と砕ける骨の音を聞きながら、痙攣する体を見下ろしながら、何度も何度も、原型を留めなくなるまで淡々と斧を振り下ろし続けた。
もう二度と起き上がらないように。万に一つも生き残る可能性がないように。
首都州の北東、ノヴィアル州は大陸中最も寒冷な気候と痩せた大地が広がっている。
ルートの生まれ育ったナユタの村も例外ではなかった。
一年の半分以上は霧と雪と雨に鎖され、作物の育ちも悪く、外界から隔絶された農民たちは諦めだけを覚え、徒労と虚しさをやり過ごすすべを身につける。
物心ついてからの記憶は、どこをすくい上げても陰惨なものばかりだった。
「食わせてもらってるだけありがたいと思え」というのが、その男の口癖だった。
義父が自分の伯父にあたるということは何となく知っていたが、きちんと説明されたことはなかった。
伯母はおらず、十歳離れた義姉はいつもルートをかばい、荒れた土地を耕作し、繕い物を覚え、僅かな食材で料理をつくってくれた。
伯父は村に一つしかない酒場に毎日昼間から入り浸り、まともに働いたことはなかった。
盾突けば、拳が真っ赤になるまで殴られた。
これ以上やったら死ぬと、義姉が止めに入ってくれて事なきを得たのも一度や二度ではなかった。
五歳になると村の子供たちはプライマリーに通ったが、ルートは当然のように学ぶ機会を取り上げられた。
野良仕事、子守り、キノコ採り、薪集め。
ありとあらゆる仕事をする合間に、家にあった僅かな書物をむさぼり読んで字を覚えた。
ある日、家で炊事をしていた姉の横でルートが何気なく聖詩を口ずさむと、姉が顔色を変えてにじり寄ってきた。
一万七千五百にもなる聖詩の一言一句をどこで暗記したのかと問われ、プライマリーの教室の軒先に座り込んで聞き覚えたと答えると、その表情は驚愕から歓喜に変わった。
姉はルートに教育を受けさせてやってくれと直談判し、父が断るやいなや、自分がこつこつと貯めてきた小銭の全額と、残りは知り合いを一軒一軒回って借り、そのかき集めた金でルートをミドルスクールへ通わせてくれた。
父親はそれが面白くなかったらしい。
ルートはよく分かっていた。義父は自分を憎んでいる、ほとんど本能的に憎んでいるということも。
ミドルスクールを卒業するころ、しゃかりきになって働き借金を返済し続けてきた姉が、とうとう倒れた。
肺病だった。
ルートはイミディエイトへの進学を諦め、知人の口利きで奉公先を見つけて働き始めた。
ナユタの村から遠く離れた、炭鉱での下働きである。
眠る暇もなければ満足に食事も与えられない、想像を絶する劣悪な労働環境の中、同じ年頃の子供たちはばたばたと死んでいった。
死ねば虫けらのように掘られた穴に放り投げられる。
もとより金で売り払われた者たちばかり、異を唱える者などありはしない。
毎月の給料を、ルートは一切手をつけずに姉の元へ仕送った。
入院費用が貯まるまで、姉は自宅で医師の往診を受けながら静養しているはずだった。
定められた契約期間の三年を終えて戻ってくると、姉は死んでいた。
ささやかな葬儀も営まれたと、後ろめたそうな表情で村の者が言った。ルートが戻る一年も前のことだったという。
仕送った金のほとんどが義父の懐に消え、姉は最後の最後まで医者を呼んでもらえなかったことを知り、ルートは自らの浅はかさを呪った。
赤ら顔で帰ってきた義父を問い詰めると、グローブのような分厚い拳が飛んできた。
血を流してうずくまるルートに覆いかぶさり、酒臭い息で父は罵った。
「お前が死ねばよかったんだよ」と。
これで生きる意味も目的もなくなったと言って、父はルートの左耳に穴を開けた。
奴隷は高く売れる。お前の顔はもう見たくないから売り飛ばすので、目の前から消えてくれろと。
それが何の取り柄もなく、何の役にも立たなかったお前が、育ててやった恩に報いる唯一のことだと。
食うにつめた暮らしを送り、嫁にも行けず、義父に喰い物にされ、義弟の犠牲になり、借金に追われ、とうとう病気に命まで奪われた。
何の幸福も与えられなかった姉の人生。
それを思うと、ルートは死にもの狂いの雄叫びを上げていた。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
特殊部隊の俺が転生すると、目の前で絶世の美人母娘が犯されそうで助けたら、とんでもないヤンデレ貴族だった
なるとし
ファンタジー
鷹取晴翔(たかとりはると)は陸上自衛隊のとある特殊部隊に所属している。だが、ある日、訓練の途中、不慮の事故に遭い、異世界に転生することとなる。
特殊部隊で使っていた武器や防具などを召喚できる特殊能力を謎の存在から授かり、目を開けたら、絶世の美女とも呼ばれる母娘が男たちによって犯されそうになっていた。
武装状態の鷹取晴翔は、持ち前の優秀な身体能力と武器を使い、その母娘と敷地にいる使用人たちを救う。
だけど、その母と娘二人は、
とおおおおんでもないヤンデレだった……
第3回次世代ファンタジーカップに出すために一部を修正して投稿したものです。
スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活
昼寝部
ファンタジー
この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。
しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。
そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。
しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。
そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。
これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
【書籍化確定、完結】私だけが知らない
綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
書籍化確定です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2024/12/26……書籍化確定、公表
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
テンプレな異世界を楽しんでね♪~元おっさんの異世界生活~【加筆修正版】
永倉伊織
ファンタジー
神の力によって異世界に転生した長倉真八(39歳)、転生した世界は彼のよく知る「異世界小説」のような世界だった。
転生した彼の身体は20歳の若者になったが、精神は何故か39歳のおっさんのままだった。
こうして元おっさんとして第2の人生を歩む事になった彼は異世界小説でよくある展開、いわゆるテンプレな出来事に巻き込まれながらも、出逢いや別れ、時には仲間とゆる~い冒険の旅に出たり
授かった能力を使いつつも普通に生きていこうとする、おっさんの物語である。
◇ ◇ ◇
本作は主人公が異世界で「生活」していく事がメインのお話しなので、派手な出来事は起こりません。
序盤は1話あたりの文字数が少なめですが
全体的には1話2000文字前後でサクッと読める内容を目指してます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる