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5-4 性別の垣根を超えて
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昼寝から目覚めると、ベッドのそばに馬鹿でかい木箱が鎮座していた。ただでさえ狭い自室が、よりいっそう狭くなる。
――クラリスの仕業か?
馴染みの顔を思い浮かべ、ブレアは短絡的に結論付けた。この部屋を知っているのは、ラザレスを除けば彼女だけだ。
「まったく、こんなでかいの持ってきて……」
ブレアは自身の体長ほどもある巨大な箱と対峙し、恨めしげにつぶやいた。
よく見ると、観音開きの取っ手が付いている。輸送用の簡易クローゼットなのだろう。いずれにせよ、頼んだ覚えはない。
――邪魔だからさっさと片付けて欲しい。
そう願うも、件の老婆は昨晩顔を合わせたきりだ。待ちに待った王都からの視察を迎え入れ、その対応で忙しくしているのだろう。
国王は三日前に到着したらしく、城下は連日大賑わいだ。
そうした様子を実際目にすることはないものの、時折けたたましい歓声が聞こえてくるため、おおよその想像はつく。
クラリスの話によれば、今夜の社交界をもって、一連の視察はお開きになるらしい。国王も用が済み次第さっさと帰りたいようで、出港は明日の朝だと聞いている。
とはいえ、引きこもりのブレアには関係のない話だ。
はためくシーツを窓越しに見遣り、ため息をつく。こびりついた泥を落とすべく洗い直したが、完全に消すには至らなかった。ラザレスに決闘を申し込まれ、組み敷かれた際についた汚れだ。あれ以降、彼が姿をみせることはない。
嘆息交じりにベッドを降り、観音開きの取っ手に手をかけた。
心当たりはないものの、この部屋にあるということは、自分宛ての荷物なのだろう。そう考えながら取っ手を引っ張るも、腕の力が入らない。一旦手を止め、ブレアは視線を落とした。
正体を隠して後宮に入ったことにより、軽蔑されたのだ。だからこそ、あのような仕打ちを受けたのだと、ブレアは解釈している。
五年前に剣を交えただけの仲だが、彼にとってのブレアはヴェリオを守る勇士であると同時に、目標にすべき存在だったのだろう。
その崇高な存在が正体を偽り、卑しいΩとして転がり込んできたのだ。
裏切られた気分になるのも無理はない。互いを高め合う騎士としての憧憬に、穢らわしい性欲を持ち込まれたのだから。
――殿下に嫌われてしまった。
ブレアは簡素な造りのクローゼットの扉を開き、口に出さず独りごちた。日当たりの悪い小部屋は蒸し暑いにもかかわらず、体の芯は冷え切っている。
ラザレスはもう、この部屋に来ない。
怒りに任せて剣を振るう彼の表情を反芻し、ブレアは心のなかでつぶやいた。憶測の域を出ないにせよ、それほどの大罪を起こした自負はある。
きっと今頃は、着飾った令嬢たちに囲まれているのだろう。
国王の視察を締めくくる舞踏会では、皇太子妃の座を狙うαの令嬢がこぞって参加すると聞く。もちろん、ブレアの出る幕はない。
そんなことを考えながら、クローゼットの中を覗いた。
観音開きの戸から、鮮やかな赤色がまろびでる。星くずを思わせる金の刺しゅうと豊かなドレープが印象的な、夜会用のドレス一式だ。
「――気に入ったか?」
背後の声に気付き、振り返ると、決まり悪そうにはにかむラザレスの姿が視界に映った。
よほど急いで来たのだろう。戸板にもたれかかる肩口は、ぜえぜえと上下に揺れている。
「……殿下…………?」
思いもよらない展開に、ブレアは目をぱちくりさせた。
なんせ、今しがた「もう二度と来てくれないはず」と悲観したばかりなのだ。想像の真逆をいく出来事に、頭のなかが白くなる。
それを見かねたのか、ラザレスはためらいがちに切り出した。
「体の調子はどうだ?」
「へ?」
「その、乱暴……しただろう? 悪かった」
言葉の意味が飲み込めずきょとんとするブレアを見て、ラザレスは「思ったより元気そうだな」と愁眉を開いた。
ようやっと状況を理解し、ブレアはひれ伏す勢いでひざまずく。
「この度はとんだ無礼をはたらき、申し訳ございませんでした……!」
額を地面に擦り付け、甲走った声で非礼を詫びた。いくら謝っても謝り切れないほどだ。のっぴきならない事情があるとはいえ、殿上人を相手に経歴詐称は許されない。
ラザレスは弾かれたようにブレアのもとへ駆け寄り、床に張り付いた上体を無理やり起こした。両手で彼女の頬を押さえ込み、自身のほうへ向き直らせる。
「よせ。謝るのは俺のほうだ」
「ですが……」
異を唱えようとするも、青い瞳に制され、ブレアは渋々口をつぐんだ。
恐縮するブレアの顔を覗き込み、ラザレスは吐息だけで小さく微笑む。
「座ろうか」
そう言って、ラザレスは横抱きでブレアを持ち上げた。体がふわり、と宙に浮かび、ベッドのふちに降ろされる。
瞬間、汗と香水の匂いが鼻腔に触れた。健康的で爽やかな見た目に反し、色気のある匂いに、ブレアは頬を赤らめる。
「クラリスに礼を言わないとな」
隣に腰を下ろし、ラザレスは独り言のようにつぶやいた。ドレスが入った木箱をあごでしゃくり、言葉を続ける。
「無理言って運んでもらったんだ。こんなデカい箱、俺が持ってたら不自然だろ?」
そう言って、ラザレスは当時を思い返すかのように目を細めた。箱のドレスは彼が調達したらしい。
「『着飾ることに興味があるらしい』って、クラリスから聞いたんだ。時間がなかったから、既製品しか用意できなかったけど」
本来なら仕立て屋を呼んで、好みの一着を作らせるべきなのだろうが――そんなことを言いつつ、ラザレスは面映ゆそうに頭を掻いた。
偶然見かけたメイドがブレアの従者であることを知り、和解の協力を求めたのだという。ブレアがきらびやかな舞踏会や着飾った令嬢に密かな興味を抱いているというのも、件の老婆から聞いたらしい。
ラザレスの話を聞き、ブレアは自身の言動を振り返った。
確かに数日前、クラリスにそんなことを言った気がする。間接的な言い回しだったにもかかわらず、本心を見抜かれていたと思うと面映ゆい。ましてや、彼が助言通りにドレスを用意してくれただなんて。
「謝罪だけでは誠意が伝わらないかと思って、色々用意してみたが……これだと本当に『ご機嫌取り』をしているみたいだな。クラリスの言う通りだ」
クローゼットに詰め込まれたドレス一式に目を投じ、ラザレスは自嘲気味に口角を上げた。よく見ると、靴やジュエリーまで入っている。そのまま夜会に繰り出せそうなラインナップだ。
肩を落とすラザレスに、ブレアは「とんでもございません!」と声を張り上げた。そもそも今回の騒動は自身の経歴詐称が原因だ。彼に落ち度はない。少なくとも、ブレアはそう考えている。
「すべて、私が原因です。殿下が謝る必要など……!」
あまりの申し訳なさにへどもどしていると、ラザレスはこちらの心情を見透かすかのようにくつくつ笑った。子供をなだめるような素振りで、彼はブレアの頭を優しくなでる。
「相変わらず真面目だな、おまえは」
横目でこちらを見遣り、ラザレス口角を上げた。頭頂に遣った手指をするり、と降ろし、ブレアのポケットに手を入れる。そのなかに入っていたメダルを手に取ると、彼はいたずらっぽく言葉を継いだ。
「やっぱり持ってた」
そう言って、ラザレスは上目がちにブレアを見つめた。手にしたものを矯めつ眇めつしながら、言葉を続ける。
「俺は気付かないうちに、おまえに重荷を背負わせていたんだな」
首掛け用の白いリボンに目を投じ、独り言のようにつぶやく。青い瞳の視線の先には、かすれて読みづらくなった彼の血文字。
「おまえの強さに惹かれ、目標にしていたのは確かだ。騎士としての憧れもあったし、尊敬もしていた」
辛うじて読める己の署名を見つめ、ラザレスは苦笑する。
その期待に応えられなかったことを改めて実感し、ブレアは胸を痛ませた。彼はその様子を横目で盗み見ながら、「でも」と切り出す。
――クラリスの仕業か?
馴染みの顔を思い浮かべ、ブレアは短絡的に結論付けた。この部屋を知っているのは、ラザレスを除けば彼女だけだ。
「まったく、こんなでかいの持ってきて……」
ブレアは自身の体長ほどもある巨大な箱と対峙し、恨めしげにつぶやいた。
よく見ると、観音開きの取っ手が付いている。輸送用の簡易クローゼットなのだろう。いずれにせよ、頼んだ覚えはない。
――邪魔だからさっさと片付けて欲しい。
そう願うも、件の老婆は昨晩顔を合わせたきりだ。待ちに待った王都からの視察を迎え入れ、その対応で忙しくしているのだろう。
国王は三日前に到着したらしく、城下は連日大賑わいだ。
そうした様子を実際目にすることはないものの、時折けたたましい歓声が聞こえてくるため、おおよその想像はつく。
クラリスの話によれば、今夜の社交界をもって、一連の視察はお開きになるらしい。国王も用が済み次第さっさと帰りたいようで、出港は明日の朝だと聞いている。
とはいえ、引きこもりのブレアには関係のない話だ。
はためくシーツを窓越しに見遣り、ため息をつく。こびりついた泥を落とすべく洗い直したが、完全に消すには至らなかった。ラザレスに決闘を申し込まれ、組み敷かれた際についた汚れだ。あれ以降、彼が姿をみせることはない。
嘆息交じりにベッドを降り、観音開きの取っ手に手をかけた。
心当たりはないものの、この部屋にあるということは、自分宛ての荷物なのだろう。そう考えながら取っ手を引っ張るも、腕の力が入らない。一旦手を止め、ブレアは視線を落とした。
正体を隠して後宮に入ったことにより、軽蔑されたのだ。だからこそ、あのような仕打ちを受けたのだと、ブレアは解釈している。
五年前に剣を交えただけの仲だが、彼にとってのブレアはヴェリオを守る勇士であると同時に、目標にすべき存在だったのだろう。
その崇高な存在が正体を偽り、卑しいΩとして転がり込んできたのだ。
裏切られた気分になるのも無理はない。互いを高め合う騎士としての憧憬に、穢らわしい性欲を持ち込まれたのだから。
――殿下に嫌われてしまった。
ブレアは簡素な造りのクローゼットの扉を開き、口に出さず独りごちた。日当たりの悪い小部屋は蒸し暑いにもかかわらず、体の芯は冷え切っている。
ラザレスはもう、この部屋に来ない。
怒りに任せて剣を振るう彼の表情を反芻し、ブレアは心のなかでつぶやいた。憶測の域を出ないにせよ、それほどの大罪を起こした自負はある。
きっと今頃は、着飾った令嬢たちに囲まれているのだろう。
国王の視察を締めくくる舞踏会では、皇太子妃の座を狙うαの令嬢がこぞって参加すると聞く。もちろん、ブレアの出る幕はない。
そんなことを考えながら、クローゼットの中を覗いた。
観音開きの戸から、鮮やかな赤色がまろびでる。星くずを思わせる金の刺しゅうと豊かなドレープが印象的な、夜会用のドレス一式だ。
「――気に入ったか?」
背後の声に気付き、振り返ると、決まり悪そうにはにかむラザレスの姿が視界に映った。
よほど急いで来たのだろう。戸板にもたれかかる肩口は、ぜえぜえと上下に揺れている。
「……殿下…………?」
思いもよらない展開に、ブレアは目をぱちくりさせた。
なんせ、今しがた「もう二度と来てくれないはず」と悲観したばかりなのだ。想像の真逆をいく出来事に、頭のなかが白くなる。
それを見かねたのか、ラザレスはためらいがちに切り出した。
「体の調子はどうだ?」
「へ?」
「その、乱暴……しただろう? 悪かった」
言葉の意味が飲み込めずきょとんとするブレアを見て、ラザレスは「思ったより元気そうだな」と愁眉を開いた。
ようやっと状況を理解し、ブレアはひれ伏す勢いでひざまずく。
「この度はとんだ無礼をはたらき、申し訳ございませんでした……!」
額を地面に擦り付け、甲走った声で非礼を詫びた。いくら謝っても謝り切れないほどだ。のっぴきならない事情があるとはいえ、殿上人を相手に経歴詐称は許されない。
ラザレスは弾かれたようにブレアのもとへ駆け寄り、床に張り付いた上体を無理やり起こした。両手で彼女の頬を押さえ込み、自身のほうへ向き直らせる。
「よせ。謝るのは俺のほうだ」
「ですが……」
異を唱えようとするも、青い瞳に制され、ブレアは渋々口をつぐんだ。
恐縮するブレアの顔を覗き込み、ラザレスは吐息だけで小さく微笑む。
「座ろうか」
そう言って、ラザレスは横抱きでブレアを持ち上げた。体がふわり、と宙に浮かび、ベッドのふちに降ろされる。
瞬間、汗と香水の匂いが鼻腔に触れた。健康的で爽やかな見た目に反し、色気のある匂いに、ブレアは頬を赤らめる。
「クラリスに礼を言わないとな」
隣に腰を下ろし、ラザレスは独り言のようにつぶやいた。ドレスが入った木箱をあごでしゃくり、言葉を続ける。
「無理言って運んでもらったんだ。こんなデカい箱、俺が持ってたら不自然だろ?」
そう言って、ラザレスは当時を思い返すかのように目を細めた。箱のドレスは彼が調達したらしい。
「『着飾ることに興味があるらしい』って、クラリスから聞いたんだ。時間がなかったから、既製品しか用意できなかったけど」
本来なら仕立て屋を呼んで、好みの一着を作らせるべきなのだろうが――そんなことを言いつつ、ラザレスは面映ゆそうに頭を掻いた。
偶然見かけたメイドがブレアの従者であることを知り、和解の協力を求めたのだという。ブレアがきらびやかな舞踏会や着飾った令嬢に密かな興味を抱いているというのも、件の老婆から聞いたらしい。
ラザレスの話を聞き、ブレアは自身の言動を振り返った。
確かに数日前、クラリスにそんなことを言った気がする。間接的な言い回しだったにもかかわらず、本心を見抜かれていたと思うと面映ゆい。ましてや、彼が助言通りにドレスを用意してくれただなんて。
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クローゼットに詰め込まれたドレス一式に目を投じ、ラザレスは自嘲気味に口角を上げた。よく見ると、靴やジュエリーまで入っている。そのまま夜会に繰り出せそうなラインナップだ。
肩を落とすラザレスに、ブレアは「とんでもございません!」と声を張り上げた。そもそも今回の騒動は自身の経歴詐称が原因だ。彼に落ち度はない。少なくとも、ブレアはそう考えている。
「すべて、私が原因です。殿下が謝る必要など……!」
あまりの申し訳なさにへどもどしていると、ラザレスはこちらの心情を見透かすかのようにくつくつ笑った。子供をなだめるような素振りで、彼はブレアの頭を優しくなでる。
「相変わらず真面目だな、おまえは」
横目でこちらを見遣り、ラザレス口角を上げた。頭頂に遣った手指をするり、と降ろし、ブレアのポケットに手を入れる。そのなかに入っていたメダルを手に取ると、彼はいたずらっぽく言葉を継いだ。
「やっぱり持ってた」
そう言って、ラザレスは上目がちにブレアを見つめた。手にしたものを矯めつ眇めつしながら、言葉を続ける。
「俺は気付かないうちに、おまえに重荷を背負わせていたんだな」
首掛け用の白いリボンに目を投じ、独り言のようにつぶやく。青い瞳の視線の先には、かすれて読みづらくなった彼の血文字。
「おまえの強さに惹かれ、目標にしていたのは確かだ。騎士としての憧れもあったし、尊敬もしていた」
辛うじて読める己の署名を見つめ、ラザレスは苦笑する。
その期待に応えられなかったことを改めて実感し、ブレアは胸を痛ませた。彼はその様子を横目で盗み見ながら、「でも」と切り出す。
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