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5-3 性別の垣根を超えて(ヘイスティング視点)

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「おのれ、あの小童こわっぱ……! 今までの恩を仇で返しおって……!」

 一方その頃、ヘイスティングは白いものが混じった金髪を振り乱し、自室のキャビネットを蹴り上げた。誰もいない執務室に、憎々しげな声がこだまする。
 兄と比べて見劣りする第二皇太子に恩を売り続け、挙句海まで渡ったというのに、この体たらく。今頃は義父として政権を握っているはずだったのだが、これでは当てが外れたも同然だ。

 ――こんな結果になるなら、あんな出来損ない、最初から相手にしなければよかった。

 幼きラザレスを思い浮かべ、ヘイスティングは地団駄を踏んだ。
 周囲の大人が第一王子にへつらう一方、彼は誰からも期待されていないラザレスを選んだ。同情や憐憫によるものではない。世話を焼くに見合った利用価値があると踏んだからだ。
 ラザレスは両親からこそ相手にされていなかったが、賢王と名高いアントルからは密かに目を掛けられていた。同じ宮中伯の凡夫どもは気付かなかったようだが、ヘイスティングだけはそのことを見抜いたのである。

 当時、レンジイトンは大陸侵攻の足掛かりとして、ヴェリオ半島を制圧した。アントルの命によるものだ。実際、彼の予想は正しく、レンジイトンは新たな領地を勝ち取るに至った。
 大陸の港町を手に入れたレンジイトンは、この二十数年で目覚ましい進化を遂げた。もはや、ヴェリオ無しには国の存続が不可能なくらいに。

「フォルルーゼの権利を手に入れれば、玉座は私のものとなる……! ヘイスティングの名を返り咲かせることだって……!」

 飛び散った書類の周囲を気ぜわしく歩き回り、ヘイスティングは口惜しげに爪を噛んだ。
 ヘイスティング家が王族から抹消されたのははるか昔のことだが、この男は不当な措置であると逆恨みしているのだ。

 ヴェリオに渡ったアントルが後継者としてラザレスを指名した時、彼は自らの勝利を確信した。剣術ばかりで頭の弱い第二皇太子のことだから、政権はこちらに一任してくれるはずだ、と。
 とはいえ、アントルの目が黒いうちは悪事をはたらけない。
 不承不承にラザレスの従者として海を渡り、やきもきしながら数年を過ごした。そしてようやっと、目障りな先代国王が没したというのに。

「せめて、娘を皇太子妃に据えることができれば……!」

 ヘイスティングは頭を抱え、癇声を発した。
 レンジイトンの玉座を手にすべく練り上げた二十年越しの大計画。
 生涯をかけた策略にもかかわらず、ここにきて誤算が生じた。ラザレスがどこの馬の骨とも知れないΩに惚れ込みやがったのだ。
 本人の口から明言されたわけではないにせよ、熱意は言外に伝わった。正妃を娶る気はないという返事から、後宮のΩにぞっこんであることは察しがつく。

 万が一、後宮のΩを正妻として認めてしまったら――その光景を思い浮かべ、ヘイスティングは蒼褪めた。

 ――馬鹿正直なラザレスならやりかねない。

 これでも、ヴェリオ内では最高権力を有しているのだ。社会的地位の低いΩだろうと、お構いなしに正妃として認めるだけの力はある。

 禿げかかった金髪を掻きむしり、ヘイスティングはため息をついた。やはり、後宮のΩを暗殺するべきか――そこまで考え、思い止まる。
 このタイミングでΩを殺せば、ラザレスは真っ先にこちらを疑うだろう。あれほど後宮について詮索したのだから無理もない。

 そもそも、ヘイスティングは後宮の場所すら知らないのだ。
 Ωを殺したいと願ったところで辿り着きようがない。宮中伯にはαの男が多いから、あやまちが起こらないよう、Ωは人目のつかない場所に幽閉するしきたりなのだ。

「となると、殿下を亡き者にするしか……」

 濁った碧眼をうっすらと細め、ヘイスティングは口の中でつぶやいた。
 幸い、ここは周辺国からの奇襲が絶えない紛争地帯だ。戦で討たれたということにすれば、嫌疑はかからない。
 あとは後継者を指名する旨の遺書をでっちあげればいい。自分には長年ラザレスの右腕を務めたという実績もある。文句を言うものは誰もいない。

 そこまで考え、ヘイスティングは頭を抱えた。
 問題はどうやって実行に移すかだ。ラザレスを戦争に巻き込むには、肝心の『戦争』がなければ始まらない。いくら自身の身分が宰相とはいえ、都合よく戦争を起こすなど、できるはずもない。

「――なるほど。お困りのようですね」

 考えあぐねていると、背後から声が聞こえた。ヘイスティングはまなじりを決し、振り返る。
 見れば誰もいないはずの自室に、見知らぬ青年が佇んでいた。歳は三十前後、やせ形で神経質そうな顔つきだ。
 貴族然とした男は上着のエンブレムを光らせると、銀縁のメガネを指先でクイッと押し上げた。

「貴様、どこから……!」

 周囲を見渡し、ヘイスティングはわなわなと声を震わせた。
 部外者が侵入しないよう、城は厳重に警備されているはずだ。どこかに身を潜めていたのだろうか。

「おい、曲者だ! 誰か!」

 閉ざされた扉に向き直り、ヘイスティングは声を張り上げた。廊下には警備や執事が待機しているため、こうして大声を上げれば、様子を見に来てくれる。
 しかし、応答の声はない。青年はくつくつと喉を鳴らすと、「無駄ですよ」と返した。

「この辺を徘徊している警備はすべて、私の息がかかった人間です」

 そう言って、青年はメガネのフレームに指を添えた。ジャケットの胸元でオルレイユの勲章が光る。
 紋章から察するに、西方諸侯の縁者だろう。レンジイトンがヴェリオを侵攻する以前、フォルルーゼ港の交易で栄えた貴族家系のひとつだ。ヴェリオ半島の奪還に燃える一派でもある。

「私と手を組みませんか、ヘイスティング卿」

 鷹揚な足取りで歩み寄り、青年は優しく微笑んだ。その裏に潜む底知れなさに、ヘイスティングは顔をこわばらせる。

「ヴェリオで実権を握り、ゆくゆくはレンジイトン本土を支配するおつもりなのでしょう? あなたのような野心家こそ、王の座に相応しいと思います」
「貴様、なぜそれを……」
「なに、城に潜らせた手下に調べさせたのですよ」

 こともなげに言い、青年は眼鏡の奥で目を細めた。その拍子に栗色の前髪が揺れ、オリーブ色の瞳が怪しく光る。

「玉座が欲しいあなたと、かつての繁栄を取り戻したい我々オルレイユ……利害が一致しているとは思いませんか?」

 青年はヘイスティングの顔を覗き込み、にやり、と片頬を上げた。こちらの弱みに付け込むような、胡散臭い口ぶりだ。

「フォルルーゼにおける交易権さえいただければ、これ以上争うつもりはありません。『新生レンジイトン』が誕生したあかつきには、新王・ヘイスティング卿への支援をお約束しましょう。我々と共に力を合わせ、栄光を掴もうではありませんか」

 ヘイスティングの肩を軽く叩き、青年は愛想のいい笑顔を浮かべた。
 不躾な侵入者だと思っていたが、悪くない提案だ。ヘイスティングはわざとらしく逡巡した素振りを見せ、小声で応酬した。

「……殿下を戦争に巻き込むことは可能か?」

 言葉を濁すヘイスティングを見つめ、青年は「もちろんですとも!」と歯を見せる。

「つい先日、軍艦を数隻用意しました。これまではアーカスターを経由する必要がありましたが、船さえあればフォルルーゼを直接攻めることが可能です。まあ、軍艦といっても海賊共のおさがり・・・・なのですが……」

 得意満面に言葉を継ぐ青年を見遣り、ヘイスティングはあごに手を当てた。ラザレスが急遽配置した北方沿岸の斥候から、海賊船の失踪が報告されたことを思い出す。
 こいつの仕業だったのか――ヘイスティングは声に出さず独りごちた。
 船さえあれば、城の周辺に奇襲をかけることは容易だろう。ラザレスは己の『強さ』にやたら固執しているから、そそのかせば戦場に引き出すことができるかもしれない。

「そんな難しい顔なさらないでください。返事を急かすつもりはありませんので」

 ひとしきり話し終えると、男は颯爽と踵を返した。部屋の最奥に設置されたキャビネットに手を掛け、ずるずると真横にずらす。

「この城はもともとオルレイユの建造物ですので、隠し扉の類はすべて把握しております。この通路を抜けた先の小部屋が、我々の拠点です」

 現れた壁の穴をあごでしゃくり、青年は肩越しに振り向いた。
 急に現れたのは、こうした仕掛けがあったのだ。ヘイスティングは合点がいくも、驚きを隠せない。この城にからくりの類があるなんて、考えたことすらなかった。オルレイユ独自の文化だろうか。

「いつでも遊びにいらしてください。良い返事を期待してますよ」

 青年は愛想のいい笑顔を浮かべ、穴の高さに身を屈めた。大人一人が通れるかどうかの小径だ。暗闇に呑まれていく青年に、ヘイスティングは「待て」と投げかける。

「貴様いったい、何者だ?」

 そう言って、眉間にしわを寄せた。いぶかしむヘイスティングを見上げ、青年は穴から出て立ち上がる。

「申し遅れました……私はライオット・ディラン・タウンゼント=アーカスター――十五年前に失踪した、タウンゼント家の元嫡男です」

 もっとも、今はオルレイユ貴族の騎士ですが――そう付け加え、ライオットはうやうやしく礼をした。
 アーカスター領主である実父・スタンレーに絶縁を叩きつけ、姿をくらましたとされる元後継者だ。

「これは個人的な願望ですが、私は憎きタウンゼントに……いやレンジイトンに報復がしたいのです。お力をお貸しください、ヘイスティング卿」

 端正な顔を禍々まがまがしく歪め、ライオットは言葉を継いだ。
 背筋に冷たい汗が落ちるのを感じつつ、ヘイスティングは生唾を飲み下す。

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