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たろちゃん
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送られてきた住所を元に、バスを乗り継いでなんとかたどり着いた。
二階建てのこじんまりしたアパートだ。新築らしく、見かけは綺麗だったが、元々住んでいた豪邸から見れば雲泥の差だろう。
──にーまるさん、だったよね……。
もう一度メッセージを確認し、チャイムを鳴らした。するとすぐに中から「はーい」と声が聞こえてきた。
人の家にお邪魔するのは、なんだか緊張する。落ち着かなくて意味もなくきょろきょろしていると、ドアが開いた。
「ちゃんと来れてよかったよー。入って!」
いつもより薄化粧の美穂子がにこやかに私を迎え入れてくれた。彼女の後に続いて、私もゆっくり部屋に入る。
今日は二十二日。カレンダーの通知が来なくても、ちゃんと覚えていた。例の伝言の日。
あの部屋で一人で見る気になれなくて、それを美穂子に相談したところ、『なら私の家に来ればいいじゃん』と快くそう言ってくれたのだ。
「──それにしてもさぁ……あんたが付き合ってた男が今をときめくあのリヒトって、何かの冗談?」
夕食のパスタをフォークで巻きながら、美穂子が笑った。
「今をときめくって……」
「だってそうじゃない。今どの番組でも彼を特集してるよ? 次の次のドラマのオファーまで来てるって話」
「へぇ……そうなんだ」
知らなかった、全然。偶然たろちゃんを大型ビジョンで見た日から、テレビはつけていないから。また彼の姿を見るのが怖かったんだ。私の知ってる彼が、私の知らない顔をしてテレビに出てるのを見るのが──。
「初めて見たけど本当かっこいいよね。モデルしてたんだっけ? 男の雑誌見ないから全然知らなかったわ」
「うん、私も……」
小さくこぼした言葉に、美穂子が目を丸くした。
「……ねぇ、そんなありえない話、私が信じると思ってんの?」
「美穂子なら、信じてくれると思って」
たしかに、『元彼は芸能人です』なんて、普通は馬鹿らしくって信じないだろう。でも、美穂子なら……。
美穂子は眉根をきゅっと寄せると、盛大なため息をついた。
「もう……信じるわよ」
ホッとして、視線を手元に戻した。美穂子が用意してくれたのに、パスタは全然私の胃に入ってくれなかった。
そんな私を見て、美穂子が躊躇いがちに口を開いた。
「ねぇ……食べてる? 寝てる?」
「ふふ、それ、職場の人にも言われた」
「本気で聞いてんの。あんた、顔色がすごく悪い。何があっても、無理にでも食べなきゃダメだよ。あんたが倒れたら……私が悲しい」
美穂子、語尾が震えてる。本気で心配してくれているのがすごく嬉しい。でも……──。
私は、フォークの柄をきゅっと握りしめた。
「一人で部屋にいるとね……思い出したくなくても思い出しちゃうの……。彼の空気とか温度とか。これを食べてる時にこんな話をしたなーとか、ここで笑われたなーとか」
「千春……」
「抱きしめられた時の感触とか……私の頭を撫でる時の優しい手とか……熱っぽい眼差しとか……もう一週間も経ってるのに、さっきのことのように思い出せるの……」
『千春』って、呼ぶ時の声が好きだった。
私の料理を食べる時に見せる、笑顔が好きだった。
いじわるの後のぎゅーって抱きしめてくれるのが好きだった。
彼の香りと、ぬくもりが好きだった。
でもそれは、全部嘘で、幻。
「私ね……おかしいんだ。蓮見に振られた時は、普通に起きて普通に仕事をして……私が振られても地球は変わらず回るし世界は動き続けていたのに、今は……私だけ時間が止まってしまったみたいに、動き出せないの……怖いの……」
美穂子がブランケットを私の肩にかけてくれた。いつの間にか、震えていたみたいだ。
「全然、おかしくなんかないよ」
「そうかな……」
「そうだよ! 私だって、旦那と別れた時は気が狂いそうだったもん。一人の部屋が怖くて、ネカフェで寝泊まりしたりね……。そりゃ離婚するって決めたのは私だけど……二人で優しい時間を過ごしたのもまた事実だったから……」
「そうなんだ……」
「大丈夫、時間が解決するよ」
知らなかった。美穂子は決断力もあるし、一度決めたら迷いなく実行する人だから、実行した後でそんなふうに悩むこともあるなんて思いもしなかった。
私はくるりと部屋を見回した。
離婚した後に引っ越したというこの部屋。私の部屋よりは少し狭いけど、一人で暮らすには十分だった。
食器や家具は全部貯金を崩して買い揃えたらしい。それらは、もうしっくりこの部屋になじんでいた。
仕事だって正社員には戻れないけど、パートでコツコツ働いている。いつか正社員で働けるようにと、資格取得に向けて勉強中らしい。
「美穂子は強いね。どうやったら強くなれるの?」
私の問いに、美穂子は一瞬目を大きく見開くと、ふっと優しく笑った。
「私が特別に強いんじゃないよ」
「でも……」
「あのね、千春──」
美穂子がじっと私を見つめる。その瞳に真剣な光が宿っていた。
「──人は誰でも強くなれるんだよ」
誰でも、強く……──。
そうなのかな。私もいつか、このことを思い出して笑い話にすることができるのかな。違う誰かと幸せな未来を過ごすことができるのかな……。
今はまだできそうもないけれど、いつか……。
「ゆっくりやっていけば、いいのよ。ね?」
ポン、と肩を叩かれた。少し痛むその強さが、今は心地いい。
「……って、もう八時じゃない? テレビつけないと!」
いつの間にか約束の時間が迫っていたらしい。美穂子が慌ててテレビをつけた。
ちょうど画面には、司会者らしき男性とアシスタント役の女性タレントが映っていた。オープニングでの彼らの口振りから、この番組は、どうやら今話題の人物を呼んで、その人の半生をなぞっていくという意向のものらしい。
少し緊張する。心の準備もできていない。一体何を見せられるんだろう……。
二階建てのこじんまりしたアパートだ。新築らしく、見かけは綺麗だったが、元々住んでいた豪邸から見れば雲泥の差だろう。
──にーまるさん、だったよね……。
もう一度メッセージを確認し、チャイムを鳴らした。するとすぐに中から「はーい」と声が聞こえてきた。
人の家にお邪魔するのは、なんだか緊張する。落ち着かなくて意味もなくきょろきょろしていると、ドアが開いた。
「ちゃんと来れてよかったよー。入って!」
いつもより薄化粧の美穂子がにこやかに私を迎え入れてくれた。彼女の後に続いて、私もゆっくり部屋に入る。
今日は二十二日。カレンダーの通知が来なくても、ちゃんと覚えていた。例の伝言の日。
あの部屋で一人で見る気になれなくて、それを美穂子に相談したところ、『なら私の家に来ればいいじゃん』と快くそう言ってくれたのだ。
「──それにしてもさぁ……あんたが付き合ってた男が今をときめくあのリヒトって、何かの冗談?」
夕食のパスタをフォークで巻きながら、美穂子が笑った。
「今をときめくって……」
「だってそうじゃない。今どの番組でも彼を特集してるよ? 次の次のドラマのオファーまで来てるって話」
「へぇ……そうなんだ」
知らなかった、全然。偶然たろちゃんを大型ビジョンで見た日から、テレビはつけていないから。また彼の姿を見るのが怖かったんだ。私の知ってる彼が、私の知らない顔をしてテレビに出てるのを見るのが──。
「初めて見たけど本当かっこいいよね。モデルしてたんだっけ? 男の雑誌見ないから全然知らなかったわ」
「うん、私も……」
小さくこぼした言葉に、美穂子が目を丸くした。
「……ねぇ、そんなありえない話、私が信じると思ってんの?」
「美穂子なら、信じてくれると思って」
たしかに、『元彼は芸能人です』なんて、普通は馬鹿らしくって信じないだろう。でも、美穂子なら……。
美穂子は眉根をきゅっと寄せると、盛大なため息をついた。
「もう……信じるわよ」
ホッとして、視線を手元に戻した。美穂子が用意してくれたのに、パスタは全然私の胃に入ってくれなかった。
そんな私を見て、美穂子が躊躇いがちに口を開いた。
「ねぇ……食べてる? 寝てる?」
「ふふ、それ、職場の人にも言われた」
「本気で聞いてんの。あんた、顔色がすごく悪い。何があっても、無理にでも食べなきゃダメだよ。あんたが倒れたら……私が悲しい」
美穂子、語尾が震えてる。本気で心配してくれているのがすごく嬉しい。でも……──。
私は、フォークの柄をきゅっと握りしめた。
「一人で部屋にいるとね……思い出したくなくても思い出しちゃうの……。彼の空気とか温度とか。これを食べてる時にこんな話をしたなーとか、ここで笑われたなーとか」
「千春……」
「抱きしめられた時の感触とか……私の頭を撫でる時の優しい手とか……熱っぽい眼差しとか……もう一週間も経ってるのに、さっきのことのように思い出せるの……」
『千春』って、呼ぶ時の声が好きだった。
私の料理を食べる時に見せる、笑顔が好きだった。
いじわるの後のぎゅーって抱きしめてくれるのが好きだった。
彼の香りと、ぬくもりが好きだった。
でもそれは、全部嘘で、幻。
「私ね……おかしいんだ。蓮見に振られた時は、普通に起きて普通に仕事をして……私が振られても地球は変わらず回るし世界は動き続けていたのに、今は……私だけ時間が止まってしまったみたいに、動き出せないの……怖いの……」
美穂子がブランケットを私の肩にかけてくれた。いつの間にか、震えていたみたいだ。
「全然、おかしくなんかないよ」
「そうかな……」
「そうだよ! 私だって、旦那と別れた時は気が狂いそうだったもん。一人の部屋が怖くて、ネカフェで寝泊まりしたりね……。そりゃ離婚するって決めたのは私だけど……二人で優しい時間を過ごしたのもまた事実だったから……」
「そうなんだ……」
「大丈夫、時間が解決するよ」
知らなかった。美穂子は決断力もあるし、一度決めたら迷いなく実行する人だから、実行した後でそんなふうに悩むこともあるなんて思いもしなかった。
私はくるりと部屋を見回した。
離婚した後に引っ越したというこの部屋。私の部屋よりは少し狭いけど、一人で暮らすには十分だった。
食器や家具は全部貯金を崩して買い揃えたらしい。それらは、もうしっくりこの部屋になじんでいた。
仕事だって正社員には戻れないけど、パートでコツコツ働いている。いつか正社員で働けるようにと、資格取得に向けて勉強中らしい。
「美穂子は強いね。どうやったら強くなれるの?」
私の問いに、美穂子は一瞬目を大きく見開くと、ふっと優しく笑った。
「私が特別に強いんじゃないよ」
「でも……」
「あのね、千春──」
美穂子がじっと私を見つめる。その瞳に真剣な光が宿っていた。
「──人は誰でも強くなれるんだよ」
誰でも、強く……──。
そうなのかな。私もいつか、このことを思い出して笑い話にすることができるのかな。違う誰かと幸せな未来を過ごすことができるのかな……。
今はまだできそうもないけれど、いつか……。
「ゆっくりやっていけば、いいのよ。ね?」
ポン、と肩を叩かれた。少し痛むその強さが、今は心地いい。
「……って、もう八時じゃない? テレビつけないと!」
いつの間にか約束の時間が迫っていたらしい。美穂子が慌ててテレビをつけた。
ちょうど画面には、司会者らしき男性とアシスタント役の女性タレントが映っていた。オープニングでの彼らの口振りから、この番組は、どうやら今話題の人物を呼んで、その人の半生をなぞっていくという意向のものらしい。
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