悪魔は天使の面して嗤う

汐月 詩

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 春の訪れを告げる雪解け水が、川面をキラキラと輝かせる頃。
 始まりは一本の電話だった。

「はぁ? 入院?」

 いつものようにスマホ片手に料理をしていると、母が気になる一言を発した。
 思わずスマホを持つ手に力が入る。

『そうなのよー。あの人、骨折しちゃってね。あ、でも入院自体はもう、ひと月前からしてるんだけどね、どうやら長引くらしいの! 入院中も無茶ばっかりするから……ほら、病院食が不味いだの、寝てるのに飽きただの、文句ばっかり……わかるでしょう? 本当やんなっちゃうわ、もう』

 母の話は要点が分かりづらい。言いたいことを一気にまくし立てられて、私は軽く目眩がした。

「ちょ、ちょっと待ってよ……落ち着いて、一つずつ教えて? まず、なんで骨折なんかしたの?」

 呼吸を落ち着かせると、母の返答をじっと待つ。スマホの向こうでは、母が「あー」とか「んー」とか言葉にならない声を出していた。
 しばらくした後母が言った言葉は、こうだった。

『喧嘩したのよぉ』

「はぁっ? け、喧嘩って……お父さん、もう六十だよ? 何やってるの?」

 およそ考えられない返答に、その場で崩れ落ちそうになった。

『ちょっとねぇ。まぁ、仕方ないのよ』

 呆れて物が言えないとはこのことだ。どこの世界に六十すぎたオッサンが、喧嘩で骨折するというのだろう。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。

「……それで? どこの骨なの?」

 怒りの言葉をぶつけたいのを堪えて、努めて冷静に訊ねた。

『腰をね、ぽきっと』

「こ……腰……」

 ……信じられない。
 私のため息と母のため息が重なった。

「それで、なに? まさか骨折したことを教えるためだけに電話してきたんじゃないよね?」

 私が話の核心に触れると、母が大きく息を吸い込んだのが聞こえた。もったいぶる時に使う、嫌な癖だった。

『千春にね、お見舞いがてら荷物を届けてほしいのよ』

「は…………嫌よ、そんなの。お母さんが行けば?」

 喉まででかかった三度目の「はぁ?」をぐっと飲み込んだ。
 そんなの、嫌に決まっている。父親に会いに行くのも嫌だし、「あの家の娘……」とわざわざ笑われに帰るのも嫌だった。
 けれども母も譲らない。

『お願いよぉ。千春が行ったら、きっとあの人も喜ぶから、ね?』

「………………」

『たまには家に帰ってきて、安心させてちょうだい?』

 母は頑固だ。そして私は、そんな母のお願いには弱い。

「……わかったよ。いつ行けばいいの?」

『今日』

「今日!? なにそれ急すぎ──」

『じゃあ、待ってるわね』

 言いたいことを全て吐き出した母は、早急に通話ボタンを切った。有無を言わさぬそのやり方は、昔からだ。
 思わぬ長電話になってしまった。コンソメスープが煮立って鍋がゴトゴト揺れる。

「……どうしたの?」

 スマホ片手に突っ立っている私を不審に思ったのか、たろちゃんが後ろから声をかけてきた。私は涙目になりながらもゆっくり振り返った。

「今日用事が出来ちゃった……」

 タイミングとはいつも悪いもので、母が覚えているかはわからないが、今日は私の誕生日だった。

「ふーん。用事って?」

「なんかお父さんが骨折したとかで、そのお見舞い? せっかく今日は朝からたろちゃんとイチャイチャできる日なのに、行きたくないなぁ……」

 わざとらしく唇を突き出すと、たろちゃんがチュッと音を立ててキスをしてきた。

「千春さん、全然実家に帰ってないでしょ? この機会に行ってくれば?」

「でも……」

『誕生日は一日たろちゃん貸切ね』そう決めたのは先週のこと。たろちゃんは文句を言うでもなく当然のように家にいてくれている。
 今日はこれからデートして、夜は家でまったりしたいなーなんて考えていたのに、せっかくのプランが台無しだ。

「デートはまた明日にでもすればいいよ」

「……明日も一緒にいてくれるの?」

 様子を伺いながら発言する私に、たろちゃんはにっこり笑ってくれた。

「千春さんが望むなら、いつまででも」

「いつまででも……?」

「そーだよ。明日も明後日も、ずっと一緒にいるよ」

 そう言うと、私をきつく抱きしめた。
 どうしよう……怖いくらいに幸せだ。この幸せが永遠に続けばいいのに。

「じゃあ……行ってこようかな……」

 たろちゃんの腕の中でそう呟く。彼は腕の力を弱めると、私の顔を覗き込んできた。

「それがいいよ。俺はここで夜の準備してるし。美味しいディナーを作ってみせるから、楽しみにしてて」

 爽やかに微笑まれるとそれ以上何も言えない。
 今日一日一緒に過ごせないのはとっても残念だけど、たろちゃんにそこまで言われたら行くしかない。
 よく考えたらここ一年くらい実家には帰っていなかった。あまり気が進まないけれど、こんなことでもなければ行くこともなかっただろうし、サクッと行ってサクッと帰ってこよう。

「すぐ帰ってくるね!」

「ん。いってらっしゃい」

 玄関で靴を履き、後ろ髪ひかれる思いでたろちゃんに手を振った。
 家に帰ったらたろちゃんの作ったご馳走を食べて、二人して「美味しいね」って笑い合う。そう信じて疑わなかった。



 『幸せ』は案外脆く、崩れやすいものだということを忘れていたんだ──

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