悪魔は天使の面して嗤う

汐月 詩

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過去、現在、そして

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 予約席は窓際の夜景の見える特等席だった。イスに腰掛け窓の外を見ると、美しいネオンに思わずため息が漏れる。
 相変わらず、蓮見は何を考えているかわからない。でもこれは、期待してもいいんだろうか。胸の高鳴りが最高潮に達した。
 蓮見からの『話』がないまま食事は進んでいく。とうとうデザートのクリームブリュレが運ばれてきた。ラズベリーのソースがかかった甘酸っぱいクリームブリュレ。スプーンで掬って口に入れた瞬間、ようやく蓮見が口を開いた。

「俺さ……東京に行くことになった」

 一瞬頭が真っ白になる。トウキョウ? イク? 予想していたものと全く違う単語が並ぶ。思考が追いつかない。目の前の蓮見が、まるで宇宙人にでもなってしまったかのように、彼の口にする言葉が理解できなかった。

「…………ごめん」

 それは、なんの謝罪なんだろう。瞬きをするのも忘れ、彼の目を見た。そうすれば、彼の頭の中まで見えて、この理解不能な言葉の意味もわかると思ったのだ。
 だけどそんなのわかるはずもない。蓮見は私の言葉を待っている。だから、とりあえず口を開いた。

「いつ……? いつまで……?」

「……三月の始めには向こうに行く。いつまでかはわからない。三年か、四年か……いや、もしかしたら戻ってこないかもしれない」

 蓮見が、東京に行く。
 その時ようやく彼の言葉の意味がわかった。開けっ放しだった口からは、乾いた笑いがこぼれる。

「あ……はは……そうなんだ。へぇ、東京、すごいじゃん。出世ってこと? 普通の会社勤めじゃないから、そこらへんわかんないけど……」

「出世……というわけじゃないけど、東京で勉強して、上手くいけば出世できるかもしれない」

「へぇ、すごいね……」

「……………………」

「……………………」


 そこで会話は途切れた。
 蓮見は何も言わない。『東京に行く』という事実しか言わない。私たちにとって大切なのは、これからのことなのに。
──ねぇ、蓮見、私は? ついてこいって、言わないの? 結婚しようって、言わないの? ねぇ、私は──?
 そんなの、分かりきったことだ。
 これはプロポーズのためのディナーなんかじゃなく、別れの前の最後のディナーだったんだ。私たち、これで終わりなんだ。

「わー、これ美味しいね。食べないなら貰っちゃうよ?」

「え? ……あ、ああ」

 沈黙に耐えかねて、蓮見の手をつけていないクリームブリュレを貰う。蓮見は甘いものが好きじゃないから、貰っても全然問題ない。美味しいデザートが二つも食べれてラッキーだ。うん、私はラッキーだ。

「千春……ごめん」

 蓮見が再び謝る。何を言っているんだろうか、この男は。私はそっと微笑みを返した。
 蓮見はこの日、私に一度も触れることはなかった。
 車から降りると、彼は「じゃあ」と言った。たった一言で、私たちの三年が終わる。走り去る車を見送ることなく、私は踵を返した。
 玄関の扉を開け、父と母に「ただいま」と伝えることなく、一目散に自分の部屋に入る。そのままベッドにダイブすると、自然と涙が溢れてきた。
 もしもブルーのワンピースを着ていたら、もしも結婚情報誌を見られなかったら、結果は変わっていたのだろうか。そんな馬鹿みたいなことを考える。そんなのありえないのに。
 「もしも」が頭の中をぐるぐると回り続けてパンクしそうだった。
 なにを泣いているんだ。答えはあの日出ていたじゃないか。あの記念日、「そんな余裕ない」と突っぱねた蓮見。結婚する気のない彼が、私についてこいなんて言うわけがないんだ。
 その夜、夢を見た。結婚する夢。ウェディングドレスを着た私の隣には、嬉しそうに目を細める蓮見。
 朝起きて、馬鹿らしくなって、また泣いた。
 人って、まる二年付き合った彼氏に振られても、割となんとかなるもんだ。その証拠に、私はあの日以降も、普通に仕事に行き、普通に笑顔で話すことができていた。
 蓮見から連絡はない。当然だ、別れたんだから。
 そのままクリスマス、正月、バレンタインが過ぎ去って行った。毎年あんなに悩んだクリスマスプレゼントも、頑張って手作りした甘くないチョコレートケーキも、今年は用意しなくてすんだ。
 すごく楽だった。というか、あんなに面倒なことを毎年よくしていたな、と自分で自分を褒めたくなった。
 そう、全ては考え方次第だ。
 結婚話を有耶無耶にする男についていかなくて、むしろよかったんだ。仮に、あのまま付き合い続けて遠距離恋愛していたところで、上手くいくはずもない。別れて正解だった。そうだ、振られたんじゃない、私が振ってやったんだ。
 そう考えると、なんだか胸がスカッとした。
 朝起きて、仕事に行って、帰ってきて、寝る。朝起きて、仕事に行って、帰ってきて、寝る。繰り返していくうちに、きっとなんとかなる。あいつと付き合っていた以前の私に、きっと戻れる。
 そうやって、前向きに生きていこうとしていた時だ。蓮見から連絡が来たのは。

『明日、発つ。14時の飛行機』

 たったこれだけ。このメッセージが送られてきたのは、夜中の一時だった。私は缶チューハイを三本空けてそのまま倒れるように眠っていたから、それに気づいたのは次の日の朝だった。
 日曜日。あろうことか、私の誕生日だった。
 別れた男だ。このメッセージを私に送るのに、一体どんな意味があるのだろうか。わからない。全然わからない。
 昔からそうだ。蓮見はいつも言葉少なで、何を考えているのかわからなかった。今回も、そう。
 もしかして見送りに来いとでも言うのだろうか。それとも、やっぱり一緒に来て欲しいとか……いや、ない、それはないな。
 じゃあ一体何なのか。私はどうすればいいのか。
 わからないまま時計を見た。時刻は十一時。蓮見の家から近いバス停で空港行きのバスは、お昼時は十二時に一本あるだけだ。恐らくそれに乗るつもりだろう。
 時間的には充分間に合う時間だった。うちからそのバス停までは三十分。急いで着替えて出たとしても、時間が余るほどだ。
 間に合う。間に合うんだ。
──だけど、間に合ったところでどうなるの?
 また期待して、同じ轍を踏むのはもう嫌だ。どうせ行ったところで、「じゃあ」と言われて終わりなんだ。未来は変えられない。
 私はもう、傷つきたくない。
 そのままベッドに潜り込んだ。
 今度こそ本当にさようならだ。
 それでいい、それでいいんだ。
 私は、自分に言い聞かせるように、目を閉じ繰り返した。
 蓮見からのメッセージは見なかった・・・・・。私は明日からもいつも通りの生活を送る。





 


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