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幻
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その日はあっという間にやって来た。もっと正確に言うと、『気づいたら今日』だった。
この一週間とにかくぼんやりしていたみたいで、検尿の紙コップに自分の名前を書いちゃったり、新規の患者さんのカルテを二枚作っちゃったり、しまいには患者さんにタメ口で話しかけちゃったりで、まぁ散々だった。
極めつけはコンビニでお昼を買ったと思ったら、その内容がからあげ棒5本だったことだ。京子さんは顔を引き攣らせて「おいしそうね」と言い、梨花は「からあげパーティしましょー!」とはしゃいだ。
レセプトのミスはなかったようで、それだけが不幸中の幸いだった。
「なんでだろう」と呟いたら、梨花がニヤつきながら「恋のせいですよ」と言った。違う、絶対に。これはそう、あれだ。たろちゃんがらしくないことをするからだ。映画を一緒に観ようだなんて、どういう風の吹き回しだろう。
そんなわけで、『気づいたら今日』になっていて、毎度の事ながらクローゼットで頭を抱えている。
この前クローゼットの中身を全て見られているわけだから、何を着ようかなんて悩むだけ無駄なのはわかっているんだけど。
しょうがないから目に止まった、あの合コンの時に着ていた薄いブルーのワンピースを手にした。
「せっかくだから待ち合わせしよう」と言ったのは、たろちゃんだった
「そんなことわざわざする必要ある? 一緒に住んでるのに」と答えたら、「だからでしょ」と言って笑った。
そして今、待ち合わせ場所へと向かう足が、なんだか重い。
外は五月の爽やかな陽気に包まれていた。梅雨前の最後の楽園を楽しむかのように、蝶がひらひらと舞っている。道端に咲くパンジーが、太陽の光を受けて鮮やかに輝いていた。柔らかな日差しが、道行く人を優しく暖める。外はこんなに素敵でいっぱいなのに、私の足はそれに反比例するかのように、重いのだ。
一緒に外に出たらまた違ったんだと思う。『待ち合わせ』をするから、妙な緊張感に胃の中がおかしくなるのだ。映画を観る前からこんなにドキドキしていたら、身が持たない。
落ち着くために深呼吸をした。どんなに遅く歩いても、じりじりと待ち合わせ場所までの距離は縮まっていく。あと五十メートル、二十メートル、五メートル……。そして──
「あー、千春さん遅い!」
そこには既にたろちゃんがいた。いつもの声、見覚えのある服。別に家の中にいる時と同じだ。太陽のせいで輝いて見えるだけだ。
いや、違う。一点だけいつもと違う所があった。──サングラスだ。
「どうしたのそれ」
控えめに指をさす。眩しい訳でもないのにサングラスをかけるなんて……。これが若者のおしゃれ? 理解できない。
「あ、これ? 花粉症対策」
「は? え?」
眼鏡ならわかるけど、サングラス? 言葉が出ずに目をぱちくりさせると、たろちゃんはフフッと軽く吹き出した。ほら、やっぱり嘘だった。
「そんなのいいから、行くよ? 千春さん遅れたから間に合うかなー?」
「ちょっと待ってよ! 遅れたって言うけど、映画まではまだ時間あるよ?」
チケットに書かれた時間は十一時半。対する今の時刻は十時。ポップコーンを買って三回おかわりできるくらい時間がある。
「映画の前に……」
「え、え、ちょっと!?」
たろちゃんは私の腕をふいに掴むと、ぐいぐいと映画館とは逆の方向へ引っ張っていった。
私の頭の中は、まるで嵐が来たみたいにぐちゃぐちゃだ。何が起こっているかわからず、ただ彼に引きずられるようについて行く。
たろちゃんてば、私の歩幅なんてお構い無しに進むんだ。誰かさんとは大違いだ。でも途中後ろを振り向いて「大丈夫?」って心配してくれる。変なところ優しい。
「あはは」
気づいたら自然と笑っていた。
三分ほど駆け足で歩いて着いたところは、服屋だった。店名を読んでもピンと来ない。どうやらセレクトショップのようだ。
「ここ……? たろちゃん、服買いたいの?」
「俺じゃなくて、千春さんの、ね」
「どういうこと?」と言う暇もなく、たろちゃんはそのまま店内へと入っていった。
明るい店内。透明なアクリル板に並べられた服は、乱れることなく整理整頓されている。ジャズをアレンジしたポップなBGMがおしゃれな雰囲気に磨きをかけていた。
すぐ横を見ると背の高い姿見が。しばらく美容院に行っていないから、伸ばしっぱなしのボサボサヘアーがなんだかみすぼらしい。明らかにこの空間にミスマッチだった。
急激に、居心地の悪さが私を襲う。
「おーす、久しぶりじゃんか」
入口でぼんやりしていると、店員と思われる男性がたろちゃんの元へやって来た。まるで芸能人みたいに顔が小さくてスラリと背が高い。フランクに話す様子から、たろちゃんはここによく来るのかもしれない。
男性は私に気づくと笑顔で「いらっしゃいませ」と付け加えた。
「今日はどうした? 男物? 女物?」
「女物」
たろちゃんがそう言うと、男性は口元に笑みを浮かべた。
「ごゆっくりどうぞ」
レジに下がっていく男性を目で追う。もしかしたら、たろちゃんは女の子を何度も連れてきているのかもしれない。彼は『メグルちゃん』や『マリコさん』のこと、知っているのだろうか。
「好きになっちゃった?」
しばらく見ていたら、急にたろちゃんがそんなことを言い出した。
「はぁ? そんな惚れっぽくありませんー」
「あはは、そーか。ほら、これどう?」
「え──」
馬鹿なことを言うなと振り返ったら、そのままスカートを当てられた。初恋のような淡いレモンイエローのスカートだった。
「やっぱり。千春さん、イエローが似合うね」
「え、本当に私の物を買いに……?」
「そう言ったじゃん。ハスミンとのデートに向けて可愛い服見立ててあげるよ」
ああ、そういうことですか。気持ちがジェットコースターのごとく急降下する。きっと顔にも出てる。でもたろちゃんはお構いなしに「ちょっと着てみて」と笑った。
スカラップレースの白いブラウスと共に、スカートを持って試着室に強制連行。気が進まないけせっかく連れてきてもらったんだし、着てみるしかないか。
サイズぴったりのスカートを履き終えた時、カーテンの向こう側から声が聞こえてきた。
「ねーねー、あの人芸能人かな」
ピンと来た。たろちゃんのことだ。
「どうだろ。でも絶対イケメンだよ」
「ね! サングラス取らないかなー」
どうやら女の子同士で買い物に来ているらしい。きゃあきゃあと高いトーンの声。きっと若い子だ。
「じゃあさ、一緒に来た女の人って、彼女?」
いきなり話の方向が自分に向いた。どうしよう。ここにいますよ、とナチュラルに気づかせた方がいいか、それとも耳を塞ぐか……。とんでもない気まずさに、行き場をなくした足が意味もなく足踏みを始めた。
そう、とにかく焦ってしまったのだ。そのせいで行動が遅れて、聞きたくもないことを聞く羽目になった。
「えー、それはないでしょ。どう見たってお姉ちゃん? いや、親戚のお姉ちゃんかな」
「だよねー」
女の子たちの声は、そのまま遠ざかっていった。恐らく、もうカーテンを開けてもそこには誰もいないだろう。
けれども私は開けることができない。もうとっくに着替え終わっているというのに。時間がかかりすぎて、たろちゃんも不審がってるかもしれないのに。
とにかく今すぐこの場から消えたかった。姿見に映る私はとても惨めでみすぼらしくて、こんな女にこの可愛らしいスカートが似合うはずがなかった。
「おーい、千春さん?」
どのくらい経っただろう。鏡の中の私と睨み合っていたら、カーテンを挟んですぐ向こうからたろちゃんの声がした。
「生きてるー?」
「う……ん」
「よかった。開けていい?」
「え! う、うん……」
いつまでもこうしている訳にもいかない。躊躇いがちに答えると、すぐに音を立ててカーテンが開いた。優しい笑顔のたろちゃんが出迎えてくれた。
「うん、やっぱいいね。可愛い」
しみじみと、噛み締めるように呟く。なんなの、ズルいよ。その言葉を言うならいつもの勢いのまま言ってよ。
たろちゃんは魔法使いなのかもしれない。さっきまであんなに消えたかったのに、たろちゃんの「可愛い」で、このスカートも案外似合っているような気がしてきた。鏡の中の私も、心做しかさっきよりしゃんとして見える。
なんてゲンキンな私。
「じゃー、それお買い上げね」
「は、え、即決?」
たろちゃんがカーテンを閉める。これは、着替えろという合図なのだろうか。
そそくさと着替えると、たろちゃんがすぐさま会計をし始めた。「なんで? 私のなんだから私が払うよ」と言ったら「今日付き合ってくれたお礼」だって。そんなの、変だ。
まるで彼女みたいな扱いに、嬉しくて──怖い。
怖いよ、私は、たろちゃんの『何』──?
この一週間とにかくぼんやりしていたみたいで、検尿の紙コップに自分の名前を書いちゃったり、新規の患者さんのカルテを二枚作っちゃったり、しまいには患者さんにタメ口で話しかけちゃったりで、まぁ散々だった。
極めつけはコンビニでお昼を買ったと思ったら、その内容がからあげ棒5本だったことだ。京子さんは顔を引き攣らせて「おいしそうね」と言い、梨花は「からあげパーティしましょー!」とはしゃいだ。
レセプトのミスはなかったようで、それだけが不幸中の幸いだった。
「なんでだろう」と呟いたら、梨花がニヤつきながら「恋のせいですよ」と言った。違う、絶対に。これはそう、あれだ。たろちゃんがらしくないことをするからだ。映画を一緒に観ようだなんて、どういう風の吹き回しだろう。
そんなわけで、『気づいたら今日』になっていて、毎度の事ながらクローゼットで頭を抱えている。
この前クローゼットの中身を全て見られているわけだから、何を着ようかなんて悩むだけ無駄なのはわかっているんだけど。
しょうがないから目に止まった、あの合コンの時に着ていた薄いブルーのワンピースを手にした。
「せっかくだから待ち合わせしよう」と言ったのは、たろちゃんだった
「そんなことわざわざする必要ある? 一緒に住んでるのに」と答えたら、「だからでしょ」と言って笑った。
そして今、待ち合わせ場所へと向かう足が、なんだか重い。
外は五月の爽やかな陽気に包まれていた。梅雨前の最後の楽園を楽しむかのように、蝶がひらひらと舞っている。道端に咲くパンジーが、太陽の光を受けて鮮やかに輝いていた。柔らかな日差しが、道行く人を優しく暖める。外はこんなに素敵でいっぱいなのに、私の足はそれに反比例するかのように、重いのだ。
一緒に外に出たらまた違ったんだと思う。『待ち合わせ』をするから、妙な緊張感に胃の中がおかしくなるのだ。映画を観る前からこんなにドキドキしていたら、身が持たない。
落ち着くために深呼吸をした。どんなに遅く歩いても、じりじりと待ち合わせ場所までの距離は縮まっていく。あと五十メートル、二十メートル、五メートル……。そして──
「あー、千春さん遅い!」
そこには既にたろちゃんがいた。いつもの声、見覚えのある服。別に家の中にいる時と同じだ。太陽のせいで輝いて見えるだけだ。
いや、違う。一点だけいつもと違う所があった。──サングラスだ。
「どうしたのそれ」
控えめに指をさす。眩しい訳でもないのにサングラスをかけるなんて……。これが若者のおしゃれ? 理解できない。
「あ、これ? 花粉症対策」
「は? え?」
眼鏡ならわかるけど、サングラス? 言葉が出ずに目をぱちくりさせると、たろちゃんはフフッと軽く吹き出した。ほら、やっぱり嘘だった。
「そんなのいいから、行くよ? 千春さん遅れたから間に合うかなー?」
「ちょっと待ってよ! 遅れたって言うけど、映画まではまだ時間あるよ?」
チケットに書かれた時間は十一時半。対する今の時刻は十時。ポップコーンを買って三回おかわりできるくらい時間がある。
「映画の前に……」
「え、え、ちょっと!?」
たろちゃんは私の腕をふいに掴むと、ぐいぐいと映画館とは逆の方向へ引っ張っていった。
私の頭の中は、まるで嵐が来たみたいにぐちゃぐちゃだ。何が起こっているかわからず、ただ彼に引きずられるようについて行く。
たろちゃんてば、私の歩幅なんてお構い無しに進むんだ。誰かさんとは大違いだ。でも途中後ろを振り向いて「大丈夫?」って心配してくれる。変なところ優しい。
「あはは」
気づいたら自然と笑っていた。
三分ほど駆け足で歩いて着いたところは、服屋だった。店名を読んでもピンと来ない。どうやらセレクトショップのようだ。
「ここ……? たろちゃん、服買いたいの?」
「俺じゃなくて、千春さんの、ね」
「どういうこと?」と言う暇もなく、たろちゃんはそのまま店内へと入っていった。
明るい店内。透明なアクリル板に並べられた服は、乱れることなく整理整頓されている。ジャズをアレンジしたポップなBGMがおしゃれな雰囲気に磨きをかけていた。
すぐ横を見ると背の高い姿見が。しばらく美容院に行っていないから、伸ばしっぱなしのボサボサヘアーがなんだかみすぼらしい。明らかにこの空間にミスマッチだった。
急激に、居心地の悪さが私を襲う。
「おーす、久しぶりじゃんか」
入口でぼんやりしていると、店員と思われる男性がたろちゃんの元へやって来た。まるで芸能人みたいに顔が小さくてスラリと背が高い。フランクに話す様子から、たろちゃんはここによく来るのかもしれない。
男性は私に気づくと笑顔で「いらっしゃいませ」と付け加えた。
「今日はどうした? 男物? 女物?」
「女物」
たろちゃんがそう言うと、男性は口元に笑みを浮かべた。
「ごゆっくりどうぞ」
レジに下がっていく男性を目で追う。もしかしたら、たろちゃんは女の子を何度も連れてきているのかもしれない。彼は『メグルちゃん』や『マリコさん』のこと、知っているのだろうか。
「好きになっちゃった?」
しばらく見ていたら、急にたろちゃんがそんなことを言い出した。
「はぁ? そんな惚れっぽくありませんー」
「あはは、そーか。ほら、これどう?」
「え──」
馬鹿なことを言うなと振り返ったら、そのままスカートを当てられた。初恋のような淡いレモンイエローのスカートだった。
「やっぱり。千春さん、イエローが似合うね」
「え、本当に私の物を買いに……?」
「そう言ったじゃん。ハスミンとのデートに向けて可愛い服見立ててあげるよ」
ああ、そういうことですか。気持ちがジェットコースターのごとく急降下する。きっと顔にも出てる。でもたろちゃんはお構いなしに「ちょっと着てみて」と笑った。
スカラップレースの白いブラウスと共に、スカートを持って試着室に強制連行。気が進まないけせっかく連れてきてもらったんだし、着てみるしかないか。
サイズぴったりのスカートを履き終えた時、カーテンの向こう側から声が聞こえてきた。
「ねーねー、あの人芸能人かな」
ピンと来た。たろちゃんのことだ。
「どうだろ。でも絶対イケメンだよ」
「ね! サングラス取らないかなー」
どうやら女の子同士で買い物に来ているらしい。きゃあきゃあと高いトーンの声。きっと若い子だ。
「じゃあさ、一緒に来た女の人って、彼女?」
いきなり話の方向が自分に向いた。どうしよう。ここにいますよ、とナチュラルに気づかせた方がいいか、それとも耳を塞ぐか……。とんでもない気まずさに、行き場をなくした足が意味もなく足踏みを始めた。
そう、とにかく焦ってしまったのだ。そのせいで行動が遅れて、聞きたくもないことを聞く羽目になった。
「えー、それはないでしょ。どう見たってお姉ちゃん? いや、親戚のお姉ちゃんかな」
「だよねー」
女の子たちの声は、そのまま遠ざかっていった。恐らく、もうカーテンを開けてもそこには誰もいないだろう。
けれども私は開けることができない。もうとっくに着替え終わっているというのに。時間がかかりすぎて、たろちゃんも不審がってるかもしれないのに。
とにかく今すぐこの場から消えたかった。姿見に映る私はとても惨めでみすぼらしくて、こんな女にこの可愛らしいスカートが似合うはずがなかった。
「おーい、千春さん?」
どのくらい経っただろう。鏡の中の私と睨み合っていたら、カーテンを挟んですぐ向こうからたろちゃんの声がした。
「生きてるー?」
「う……ん」
「よかった。開けていい?」
「え! う、うん……」
いつまでもこうしている訳にもいかない。躊躇いがちに答えると、すぐに音を立ててカーテンが開いた。優しい笑顔のたろちゃんが出迎えてくれた。
「うん、やっぱいいね。可愛い」
しみじみと、噛み締めるように呟く。なんなの、ズルいよ。その言葉を言うならいつもの勢いのまま言ってよ。
たろちゃんは魔法使いなのかもしれない。さっきまであんなに消えたかったのに、たろちゃんの「可愛い」で、このスカートも案外似合っているような気がしてきた。鏡の中の私も、心做しかさっきよりしゃんとして見える。
なんてゲンキンな私。
「じゃー、それお買い上げね」
「は、え、即決?」
たろちゃんがカーテンを閉める。これは、着替えろという合図なのだろうか。
そそくさと着替えると、たろちゃんがすぐさま会計をし始めた。「なんで? 私のなんだから私が払うよ」と言ったら「今日付き合ってくれたお礼」だって。そんなの、変だ。
まるで彼女みたいな扱いに、嬉しくて──怖い。
怖いよ、私は、たろちゃんの『何』──?
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