悪魔は天使の面して嗤う

汐月 詩

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元彼というやつ

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 302号室のドアを開けたら、ありえないほどいい匂いがした。

「あーおかえり、千春さん」

 IHの電源を消して出迎えてくれたのは、天使もとい、たろちゃんだ。

「た、ただいま……」

 今朝も会ったはずなのに、なんだか急に照れてしまう。『ただいま』なんて言うの、何年ぶりだろう。
 たとえただの居候だとしても、誰かが出迎えてくれるっていいな。

「ねぇ、なんかすごくいい匂いがするんだけど?」

「へっへー! 暇だったからさ、千春さんのために腕をふるってみましたー!」

 どこかの料理ショーのように大袈裟に腕を広げるたろちゃん。机の上にはスキレットに乗ったパエリアが鎮座していた。大きめのエビにムール貝、そしてパプリカの赤、なによりこの匂いが私を一気に地中海へと誘う。

「あとはスープを付けたら完成だからね」

 おたまでスープをよそうと、それをテーブルに運んだ。

「え……これ一人で作ったの? たろちゃんが?」

「千春さん、俺をなんだと思ってんの? 今どき男だって料理作れますー」

 たろちゃんは唇を尖らせたまま、冷蔵庫からワインを取り出した。

「さ、早く食べよ?」

 彼に促されるままに椅子に腰掛ける。
 たろちゃんがパエリアを取り皿によそうのを、呆然と眺めていた。男の人に料理を作ってもらうことなんて、初めてだった。
 そうか……たろちゃん、私のために作ってくれたんだ。胸がじーんとして、最近めっぽう弱くなった涙腺が緩む。
 こういうのも幸せかもしれない。エビを口に放り込むたろちゃんと目が合った。彼は私にほほ笑みかける。つられて私も笑顔になる。

「千春さん、本当、男には気をつけてね」

「いきなりなんの話?」

「千春さんって、チョロいから」

 そう言って、彼は低く笑った。さっきまでの爽やかな顔とは違い、悪い男の顔だった。

「──っっ!」

 やられた。これがコイツの手なんだ。
 悪魔みたな最低男なんだから気をつけなきゃいけなかったのに、私ったら手料理を振る舞われただけで、すっかりほだされてた。

「ていうかさ! たろちゃん、そもそも出会いはあったの? いい人探したの? 早く見つけるって、そういう約束でしょ?」

 負けじと応戦するも、たろちゃんは涼しい顔で私を見ている。

「千春さんさぁ、間違ってるよ」

「え、なにが?」

「出会いはさ、待つものでも探すものでもないよ?」

「じゃあなんなのよ」

 たろちゃんはワイングラスをゆっくり回しながら、その中で踊る透明な液体に見とれているようだった。そして、そっと視線を外すと余裕たっぷりの笑顔で私を見据える。

「──気づくものだよ」

 九つも下の男に指導されているような気がして、胸がシクシクと痛んだ。ワインを一気に飲み込んで気合を入れ直す。

「そんなの、聞いたことない」

 大きなスプーンでパエリアをすくう。彼も丁度、同じ動作をしていた。

「女の人は『出会いがない』って嘆くけど、本当にそうなのかな? 職場の人やお客さん、よく行く店の店員……いろんな人と出会ってるはずだよ?
 それを勝手に『この人は無理だ』、『この人はきっと合わない』って線引きして、『出会い』に気づかないフリをして。
 もっとよく周りを見なよ。『出会いがない』じゃなくて、『出会いにする』んだよ。自分でさ」

 なんだか無性にイライラして、スプーンをぞんざいにスープの中に投げ入れた。カチャンというお行儀の悪い音が響く。

「つまりなにが言いたいの」

 頭に溜まった熱いものが、吐き出そうにも吐き出せずに渦巻き続けている。ここで怒っちゃだめだ。みっともない。

「んー……だから、俺は『いい人いないかなぁ』なんて、無理やり探したりしないよ。生きていく上で成り行きで出会った人と、自然と恋を始めたい。今までだってそうしてきたつもりだし?」

「その結果が『女の人の所を点々と』? たろちゃん、随分惚れっぽいんだね」

「あは、そーかも」

 嫌味のつもりで言ったのに、全然効いていなかった。
 それはたしかに正論かもしれない。恋する相手は見つけるものじゃない。そんなのわかっている。
 わかってるけど、仕方がないじゃないか。たろちゃんと私は違う。彼は『ハタチ』で私は『二十九』だ。本当は今すぐにでも結婚したい。悠長に、流れに身を任せて恋愛する時期はもう終わったんだ。
 子供だって欲しい。いくら産める時期が長くなったとは言え、私は早く産みたい。三十五までに産むとする。逆算して、三十二までに結婚。できればちゃんと付き合って結婚したいから、三十一までに相手に巡り合わなければいけない。
 とすると、あと二年だ。いや、正確にはあと一年と十ヶ月。いくらなんでも焦るだろう。
 言いたいことを言う代わりに、私はたろちゃんと向き合うことをやめた。残ったスープを飲み干すと、「ごちそうさま」と言い残しお風呂に入った。
 わかってるんだ、それが私のダメなところだって。
 『結婚したい』って言いながら、合コンの男を値踏みして、よく知りもしないで勝手に『不合格』の烙印を押して。
 矛盾してる。『結婚』を目指すなら、まず『付き合う』ことを考えなきゃいけないのに。いつの間にか『結婚』目線で男を見比べてた。
 京子さんも言ってたっけ。『妥協しなさい』って。問題があるとしたら、私の方なのかもしれない。
 ちゃぷん、と右足を湯に入れる。思いのほか熱くて一瞬びくつく。じんじんと広がる痛みは、しかし次第に湯の熱に慣れて感じなくなった。
 今からでも遅くはないだろうか。自然に任せての恋愛、できるだろうか。
 いつもは心地よい入浴剤のジャスミンの香りが、今日はなんだかいやに鼻につき、不快だった。
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