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元彼というやつ
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雪が降る、寒い日だった。
歩いても歩いても変わらない景色に、私は言いようのない不安を感じていた。
雪の粒が肌に当たっては消えていく。冷たさは次第に痛みに変わっていった。
『早く帰ろうよ、お母さん』
この言葉を何度頭の中で呟いたことか。
そのうち真白の壁がこちらにまで迫ってきて、そのまま押しつぶされてしまうんじゃないか。そんなことを考えていると急に怖くなってきて、私は思わず隣の母を盗み見た。
獲物を狩る前のライオンのような、または絞首台にのぼり行く前のような、そんな顔だった。どちらにせよ、何かを決意した表情だった。
私は後にも先にも、母のこんな顔を見たのはこれが最後だ。
◇
暑い、重い、苦しい。
それもそのはずだ。目覚めた瞬間私の目に飛び込んできたのは、まるで重しのように私のお腹の上に置かれた、腕だった。
「ぎゃっ!」
B級ホラー映画のような展開に一瞬変な声が出たが、なんてことはない、その腕の主は私を抱き抱えるようにして眠る、たろちゃんだった。
──なぁんだ。
そう感じたのもつかの間、「いやいや、『なぁんだ』じゃないだろ」ともう一人の私が頭を叩く。
すやすやと無防備な寝顔を見せる彼はとてもセクシーで、密着しているという現実がまたもや体を沸騰させた。
「お、き、な、さいっ!」
自身の体からたろちゃんをひっぺがすと、彼の体を包む布団を取り去ってやった。
「……んん……なぁに……千春さん……朝から元気だね……」
たろちゃんは瞼をこすりながら、まだ眠い目をゆっくり開けた。血圧を上げさせた当人が何を言うか。
「なぁに、じゃないよ! なんでベッドに来てるの! 昨日決めたじゃない、たろちゃんはソファだって!」
そう、昨日たしかに決めたはずだ。一つしかないベッドで共に寝る訳にはいかないから、たろちゃんはソファで寝る、と。そしてその通り、昨夜は別々に寝たはずだ。なのになぜ?
たろちゃんは大きな欠伸をしながら「へあ」と間抜けな声を出した。
「だって寒いんだもん」
そう言うと、ベッドから落ちた布団を自身の体に巻き付けた。まるで蓑虫だ。
「可愛く言ってもだめ! ちゃんと決めたことは守って! じゃないと即刻出て行ってもらうから!」
朝から大声を出しすぎてフラフラする。たろちゃんは立ち上がってとぼとぼ歩き出すと、わざとらしく「しゅーん」と言いながら冷蔵庫を開けた。
クローゼットから服を取り出しバスルームで着替えようとしたその時、プシッと小気味いい音が聞こえてきてふと足を止める。見ると、冷蔵庫の前で缶ビール片手にテレビをつけるたろちゃんが目に入った。
「は? え、なに、朝からビール飲むわけ?」
「うん、喉乾いたし」
そういう問題じゃないだろう。
この見た目とハタチということを考えても、社会人じゃないだろうなとは思っていたが、その上朝からビールを飲むなんて。とすると、彼は、どこかの学生なのだろうか。
思いついたのは『服飾系』という言葉だ。着ている服はシンプルながらもお洒落だし、こういう見た目の子がごろごろいるイメージがあった。
でも学生だとしても、定住していないというのはいくらなんでも無理がある気がする。
彼は一体何者なんだろう。
そう考え出したら、なんだか急に昨夜の十万円が恐ろしくなってきた。定住していない学生が、十万もの大金をポンと出せるだろうか。あのお金はどうやって工面したんだろう。バイトでもやっているのか?
今更ながら、私は彼のことを何も知らない。
テレビを見ていたたろちゃんが、ふとこちらに視線を投げた。意図せず目が合ってしまう。たろちゃんは途端に嬉しそうに目を細めた。
「な、何……」
「んーん。千春さん、寝起き姿がセクシーだなと思って見とれてた」
「なっ! ……何言ってるの」
いけないいけない。危うく騙されるところだった。こいつは女の子を鬱陶しいから捨てるような男だ。ほだされてはいけない。
「でもいーのかなあ」
たろちゃんは喉元をごくりと鳴らしながらビールを飲み切った。
「……なにが?」
「今日、仕事じゃないの?」
「……え」
彼が指さす先を見て、息が止まる。現在八時。とっくに病院に着いてなきゃいけない時間だった。
「な、なんでもっと早く言わないの!」
バスルームに駆け込み服を着替えながら叫ぶ。こういう時に限ってファスナーが噛んじゃうから困ったものだ。
「だって千春さん、マイペースな人なのかなって」
「んなわけないでしょ!」
噛んだファスナーを無理やり引っ張ると、手櫛で髪をとかしサッと歯を磨いた。その間もたろちゃんは私の動向を楽しそうに眺めていた。
「千春さんって面白いなぁ」
『いってらっしゃい』の代わりに背中越しに聞いたのは、こんな言葉だった。
天使みたいなんて思った私が馬鹿だった。あいつは悪魔だ。女をいたぶって面白がってる悪魔なんだ。
歩いても歩いても変わらない景色に、私は言いようのない不安を感じていた。
雪の粒が肌に当たっては消えていく。冷たさは次第に痛みに変わっていった。
『早く帰ろうよ、お母さん』
この言葉を何度頭の中で呟いたことか。
そのうち真白の壁がこちらにまで迫ってきて、そのまま押しつぶされてしまうんじゃないか。そんなことを考えていると急に怖くなってきて、私は思わず隣の母を盗み見た。
獲物を狩る前のライオンのような、または絞首台にのぼり行く前のような、そんな顔だった。どちらにせよ、何かを決意した表情だった。
私は後にも先にも、母のこんな顔を見たのはこれが最後だ。
◇
暑い、重い、苦しい。
それもそのはずだ。目覚めた瞬間私の目に飛び込んできたのは、まるで重しのように私のお腹の上に置かれた、腕だった。
「ぎゃっ!」
B級ホラー映画のような展開に一瞬変な声が出たが、なんてことはない、その腕の主は私を抱き抱えるようにして眠る、たろちゃんだった。
──なぁんだ。
そう感じたのもつかの間、「いやいや、『なぁんだ』じゃないだろ」ともう一人の私が頭を叩く。
すやすやと無防備な寝顔を見せる彼はとてもセクシーで、密着しているという現実がまたもや体を沸騰させた。
「お、き、な、さいっ!」
自身の体からたろちゃんをひっぺがすと、彼の体を包む布団を取り去ってやった。
「……んん……なぁに……千春さん……朝から元気だね……」
たろちゃんは瞼をこすりながら、まだ眠い目をゆっくり開けた。血圧を上げさせた当人が何を言うか。
「なぁに、じゃないよ! なんでベッドに来てるの! 昨日決めたじゃない、たろちゃんはソファだって!」
そう、昨日たしかに決めたはずだ。一つしかないベッドで共に寝る訳にはいかないから、たろちゃんはソファで寝る、と。そしてその通り、昨夜は別々に寝たはずだ。なのになぜ?
たろちゃんは大きな欠伸をしながら「へあ」と間抜けな声を出した。
「だって寒いんだもん」
そう言うと、ベッドから落ちた布団を自身の体に巻き付けた。まるで蓑虫だ。
「可愛く言ってもだめ! ちゃんと決めたことは守って! じゃないと即刻出て行ってもらうから!」
朝から大声を出しすぎてフラフラする。たろちゃんは立ち上がってとぼとぼ歩き出すと、わざとらしく「しゅーん」と言いながら冷蔵庫を開けた。
クローゼットから服を取り出しバスルームで着替えようとしたその時、プシッと小気味いい音が聞こえてきてふと足を止める。見ると、冷蔵庫の前で缶ビール片手にテレビをつけるたろちゃんが目に入った。
「は? え、なに、朝からビール飲むわけ?」
「うん、喉乾いたし」
そういう問題じゃないだろう。
この見た目とハタチということを考えても、社会人じゃないだろうなとは思っていたが、その上朝からビールを飲むなんて。とすると、彼は、どこかの学生なのだろうか。
思いついたのは『服飾系』という言葉だ。着ている服はシンプルながらもお洒落だし、こういう見た目の子がごろごろいるイメージがあった。
でも学生だとしても、定住していないというのはいくらなんでも無理がある気がする。
彼は一体何者なんだろう。
そう考え出したら、なんだか急に昨夜の十万円が恐ろしくなってきた。定住していない学生が、十万もの大金をポンと出せるだろうか。あのお金はどうやって工面したんだろう。バイトでもやっているのか?
今更ながら、私は彼のことを何も知らない。
テレビを見ていたたろちゃんが、ふとこちらに視線を投げた。意図せず目が合ってしまう。たろちゃんは途端に嬉しそうに目を細めた。
「な、何……」
「んーん。千春さん、寝起き姿がセクシーだなと思って見とれてた」
「なっ! ……何言ってるの」
いけないいけない。危うく騙されるところだった。こいつは女の子を鬱陶しいから捨てるような男だ。ほだされてはいけない。
「でもいーのかなあ」
たろちゃんは喉元をごくりと鳴らしながらビールを飲み切った。
「……なにが?」
「今日、仕事じゃないの?」
「……え」
彼が指さす先を見て、息が止まる。現在八時。とっくに病院に着いてなきゃいけない時間だった。
「な、なんでもっと早く言わないの!」
バスルームに駆け込み服を着替えながら叫ぶ。こういう時に限ってファスナーが噛んじゃうから困ったものだ。
「だって千春さん、マイペースな人なのかなって」
「んなわけないでしょ!」
噛んだファスナーを無理やり引っ張ると、手櫛で髪をとかしサッと歯を磨いた。その間もたろちゃんは私の動向を楽しそうに眺めていた。
「千春さんって面白いなぁ」
『いってらっしゃい』の代わりに背中越しに聞いたのは、こんな言葉だった。
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