悪魔は天使の面して嗤う

汐月 詩

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天使か悪魔か

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 その日は生憎の雨で、私は真新しい薄いブルーのワンピースを、水玉模様に濡らすはめになった。この日のために新調したわけではない。ずっとタンスの奥にしまいこんでいたのだ。
 あの時・・・着るはずだったワンピース。これを今日着てきたのは、自分へ言い聞かせるためだ。あれはもう終わったことだと。
 風の悪戯も相まって、雨が私に直接降りかかる。こんな日に傘なんて、意味が無いじゃないか。とにかく雨宿りしよう。待ち合わせ時間までは、まだ十分ほどある。
 駅から伸びる歩道に屋根がついていた。点滅を始めた横断歩道を走り渡る。
 パシャ
 水たまりにうっかり入ってしまい、せっかくの白いパンプスが泥色に染まった。
 ──ツイてない
 梨花には悪いけど、今日の合コンもきっとハズレな気がする。
 歩道の端で足を止めると、私はぼんやりと屋根を見上げた。ぽたり、ぽたりとゆっくり、静かに屋根を伝い落ちていく雨粒。ずっと見ていると雨粒の中に吸い込まれてしまいそうだ。吸い込まれたは先はどこに繋がっているのだろうか。あの、雨の日だろうか。
 大きめの雨粒が水たまりに落ちて波紋が広がったその時、

「やだよ、たろちゃん!」

 女の人の叫び声が聞こえてきた。
 ぎょっとして声の方に目をやると、横断歩道の向こう側、ちょうどさっきまで私がいた場所に、女と男が争っている姿が見えた。
 女の方は二十代前半といったところか。肩までの明るい茶髪はふんわりと巻かれており、派手な色のワンピースを着ている。足元は十センチはくだらないピンヒールだ。
 男の方はキャップを被っていて顔はわからないが、背が高いことだけはたしかだった。二人とも傘もささずにびしょ濡れだ。
 雨で人気がないことが幸か不幸か、女は人目もはばからず大声で喚きたてていた。こちらにも、その会話が筒抜けなくらいに。

「なんで? なんでなの? あの女のところ? 嫌よ、どこにも行かないで!」

 どうやら別れ話らしい。自分でも悪趣味だと思いつつ、目が釘付けになってしまった。あの男はどうやって彼女を鎮めるのだろう。

「たろちゃん、嫌ぁ!」

 男の声は聞こえない。しがみつく彼女を冷静に振りほどいているように見える。
 やがて雨足が弱まると同時に、彼女も勢いをなくしていった。まるで風船が萎んでいくようだ。
 男が彼女に自身のキャップを被せた。慰めのつもりだろうか。それとも別れの餞別? 彼女は諦めたように視線を落とすと、くるりと踵を返し去っていった。
──あっ……
 男がふいに、こちらに視線を移した。どきん、と心臓が激しく音を立てる。雨音も、電車の音も何もかもがこの世からなくなってしまった。
 なぜならば、彼が、いつか見た西洋の絵の天使にそっくりだったからだ。
 外人なわけではない。薄い柔らかい肌の色に、無造作な茶色の髪が、どこか外国の少年を思わせる。天使の羽が生えているわけではないのに、なぜだろう、彼が天使のように見える。そこだけ空気が違う。
 ゆっくり時間をかけて、私と彼の視線が絡まった。僅かに、ほんの僅かに彼が微笑んだ気がした。

「千春さぁん!」
 
 自分の名が聞こえ、びくりとする。しかしその名を発したのは向こう側の彼ではなく、むしろ私の背中側、バタバタと走ってくる梨花だった。

「すみませーん、遅くなっちゃいました!」

「梨花ちゃん。ううん、私も今来たとこ。え、と……そちらが……」

「彼氏のヒロくんですっ!」

 『ヒロくん』がぺこりと頭を下げた。梨花ちゃんにお似合いの、なかなかカッコイイ彼氏だ。
 私たちは簡単に挨拶を交わすと、梨花の「案内しますぅ」の言葉で店を目指すことになった。私は、けれども心のどこかで『天使』のことが気になっていた。
 ちらりと横断歩道を見るが、そこにはもう、誰もいなかった。

「ではではではではっ! よき出会いにカンパーイ!」

 アメリカンな店内は昔のノリのいいロックが流れている。肩肘張らなくてすむ、若者らしい店だ。この前の過剰に雰囲気のいい店よりは、断然こっちの方がよかった。
 私はみんなと同じく『とりあえず生』で乾杯を済ませると、くいっと一口流し込んだ。今回は梨花がいるので、飲み過ぎには注意しないといけない。
 男側は全部で五人……のはずが、一人遅れてくるということで、現在四人しかいなかった。ざっと見る限りでも若い。一人だけ落ち着いた雰囲気の人がいるが、その人以外はきっと私より若いだろう。そして女側はと言うと……。

「じゃー、とりあえず自己紹介しましょうか」

 『ヒロくん』の一声に梨花が反応し、女側からの自己紹介が始まった。

「大崎 梨花でーす。ヒロく……広尚《ひろなお》さんの彼女です。今日は幹事なので、皆さん楽しんでいってくださいね~」

 梨花を筆頭に次々と進んでいく。次の子も、そのまた次の子も、梨花と似たような可愛らしい子だ。
 似ているのはそれだけではない。若いのだ。それもそのはず、梨花の『友達』なのだから、みんな梨花と同じくらいの年になる。
 梨花め~と心の中で呟き梨花を軽く睨むが、そんな彼女はにこやかに進行役を務めていた。仕方ない、私も話をよく聞かなかったから。腹を括って笑顔を作った。

「……宮下 千春です。梨花ちゃんとは職場が同じで、今回縁あってこちらに呼んでもらいました。よろしくお願いします」

「ハイハイ、質問! ちはるさんって何歳なんですか?」

 一番端の若そうな男の質問に、ピシリと空気が凍る音がした。「その質問はタブーだぞ」と男の間でもヒソヒソ声が飛び交う。

「えーっと……私、二十九なの。ごめんね、オバサンが混じっちゃって」

 ああ、虚しい。こんな自虐しなくちゃいけないなんて。笑顔を崩さないように、細心の注意を払った。

「僕もおじさんなので、一緒ですね。落ち着いた女性っていいと思いますよ」

 右端の年上そうな男がすかさずフォローしてくれた。さすが、というかなんというか、やっぱりこのくらいの年の人がいい。経験を積んでいるから変に暴走しないし、女性に対してスマートだ。
 だけど──
 私はその男をまじまじと見た。糸のような目は笑うと目尻が更に下がって、まるでえびす様のようだ。
 優しそうな人、だと思う。だけど全く食指が動かない。申し訳ないけど好みじゃない。
 「『欠点がない男』じゃなくて、『欠点も目を瞑れる男』を探しなさい」という京子さんの言葉が脳裏をかすめた。
 京子さん、『顔が好みじゃない』というのは『目を瞑る』べきことですか?

「わ! ちはるさん、飲むの早いですねー!」

 また別の男の声でハッとした。ぼんやりしていて、いつの間にかビールを飲み干してしまっていたのだ。梨花も口を尖らせて私を見ている。いけない、しっかりしないと。
 息を吐くと、テーブルの上の料理に手を伸ばした。冷めた、味気ないポテト。誰にも手をつけてもらっていない。このポテトも私も、一体どんな存在価値があってこの場所にいるんだろう。
 まだ乾ききっていないワンピースをぎゅっと握る。自分の意識を変えなくちゃいけないのはわかっている。けれどもどこかで、変えたくないと思っている自分もいる。『出会い』って、こうも難しいものだったっけ──
 誰かが気を利かせて注文してくれたビールが届いたと同時に、入口から一人の男が入ってきた。その人は脇目もふらずこちらのテーブルにやってきた。

「遅いですよっ! 蓮見はすみさん!」

 左端の若い男が元気よく手を挙げた。
──嘘…………

「ギリギリまで行くかどうか悩んでた」

「ちょ、それは悩まず来てくださいよ! 相変わらずマイペースですね」

 私は手にしていたジョッキを落としそうになる。
 そのよく通る低い声、気だるそうに伏せられた涼し気な目元、黒縁メガネ、長めに切り揃えられた黒髪。間違いない、彼は、四年前の──。
 男は私の目の前の椅子に座り、渡されたメニュー表に目を通しながら、一瞬ふと動きを止めた。そうかと思えば目線はそのままでこう言った。

「宮下さん……だよね」

 ぽつりと独り言のように呟いた言葉は、しかし、周囲が放っておくわけがなかった。

「なになになにー? 蓮見、ちはるさんと知り合い?」
「えー! そうなんですか蓮見さんも隅に置けないなぁ」
「きゃー! 千春さぁん、どういうことですかー?」

 飛び交う声をもろともせず、男は淡々と『ジントニック』を頼んだ。
 私は、ただ目の前のジョッキを見つめることだけに集中していた。そうでもしないと、耳を塞いで目を閉じて、この世の何もかもをシャットアウトしたくなる衝動を抑えきれないからだ。
 ガウンガウン、とこめかみが痛む。胃がひっくり返ったかのように、さっき食べたポテトが喉元まで来ているような気がした。
 蓮見はすみ 真人まひと。四年前に別れを告げられた、私の元恋人だ。
 蓮見は頼んだジントニックを一口飲むと、私をじっと見た。

「変わらないね。あまりにも変わってないからちょっと驚いた」

 なんの感情もこもらない言葉に、私は曖昧に笑ってみせた。このままじゃ笑顔の仮面が剥がれ落ちてしまう。私の様子を気にする素振りもなく、蓮見は今度は別の女の子と話し始めた。
 変わってないのはそっちの方だ。
 昔からマイペースで掴みどころがなく、何を考えているかわからない。あの時だって──
 突然、くらり、と目眩がした。目の前のジョッキが左右にブレる。みんなの声が遠くの方で聞こえて、頭の中でワンワンとエコーがかかる。やばい、倒れる。



「千春」


 誰かが背後から私の腕を取り、名前を呼んだ。知らない、男の声。

「千春、行こう」

 そのまま強引に私を立たせると、倒れそうになる私を半分担ぐようにして、扉の方へ歩いていく。
 湿った茶色の髪が、私の頬にかかった。ふんわりといい匂いがする。心地いい。

「ええっ! ち、千春さん?」
「知り合い? 大丈夫ですか?」
「どーするどーする?」

 みんなの焦った声が背中から聞こえてきた。それを聞きながら、私はそっと目を閉じた。
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