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エピソード2・繊細で優しい字

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 その日、ルビアは人々が賑わう市場へ訪れていた。毎日勉強の合間に休憩時間が与えられ、ルビアはその間のみ自由が許される。勉強漬けの毎日を強いられたルビアにとって、それが唯一の楽しみだった。
 けれどこの日のルビアは、市場の出店に出された品々を見ても、上の空だった。

 __あの日出会った美しい人魚の顔が、脳裏に焼き付いて離れないからだ。

“もう一度だけ彼女に会ってみたい”

“彼女の名前を知りたい”

“声を聞いてみたい……”

 そんなことばかり考えてしまうので、勉強中にぼんやりしては、教師に叱られてしまうこともしばしばあった。

「……はぁ」

 深いため息をついたその時だった。
 ふと、誰かに肩を叩かれた。振り向くと、そこには一人の若い娘が、微笑みを浮かべて立っていた。
 その娘の顔を見た時、ルビアは息が止まりそうになった。

 なぜならその娘の顔は、あの日見た人魚の顔にそっくりだったからだ。
 いや、そっくりだけでは済まされなかった。目の前の娘は、あの人魚と同一人物だと、ルビアは疑わなかった。

「……あな、たは……」

 震える声でそう呟いてすぐに立ち尽くしてしまうルビアに、娘は微笑んだまま何かを差し出してきた。それは、ルビアのお気に入りの青いレースのハンカチだった。気づかないうちに落としていたのを、彼女が拾っていてくれたのだろう。

「……!あ、ありがとう……!」

 慌ててお礼を言いつつ、ルビアは娘からハンカチを受け取る。すると、娘は手帳を開いて何かを書き込んだかと思えば、それをルビアに見せてきた。
 その手帳の用紙には、字を覚えたての子供が書いたようなつたない字でこう書かれていた。

『ぼんやりとしているようすでしたが、ぐあいがわるいのですか?』

「あ……ごめんなさい、少し考え事をしていたの。おかげで、ハンカチを落としてしまったことにも気がつかなくて……。もう大丈夫。心配してくれて、本当にありがとうね?」

 ルビアの言葉を聞いた娘は、ニコリ、と嬉しそうに笑みを浮かべる。その笑みを見たルビアは、より一層胸を打たれた。

(なんて美しい笑顔なのかしら……。それに、わざわざハンカチを拾ってくれるばかりか、見ず知らずのあたしを心配してくれるなんて、見た目だけではなく、心も美しい人なのね)

 そう思う反面、不思議に思う点もあった。
 何故この娘は口を聞かず、紙に文字を書いて言葉を伝えたのか。
 そもそも、前にこの娘の姿を見た時は、彼女の下半身は魚の尾のようになっていたはずだ。しかし、今は魚の尾の代わりに、綺麗な脚がスカートから覗かせている。

 すると、娘はルビアの視線に気がついたのか、少し申し訳なさそうな顔をしては、手帳にまた何やら書き込み、ルビアに見せてきた。

『しつれいにおもったらごめんなさい。わたしは、こえをだすことができません。おせわになっているひとに、もじをおそわっているのですが、うまくかけないのです』

 その文面を見てルビアは目を見開いた。
 けれどすぐに、娘を安心させようと笑みを浮かべ、手帳を持つ彼女の手に自身の手をそつと添えた。

「大丈夫。声を出せなくったって、あなたの気持ちはちゃんと伝わったわ!それに、あなたの書く文字は繊細で優しい字だと思う!」

 娘は目を瞬かせるが、キラキラと輝くルビアの純粋な目を見ると、まるで「ありがとう」と言うように微笑んだ。

「……あたし、ルビア。あなたは?」

 娘の手から自身の手を離し、ルビアは問いかける。それを聞いた娘は、また手帳に何かを書き込んだ。
 手帳には、と書かれていた。
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