山田牧場

佐藤 汐

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第16話

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五月も半ばを過ぎた頃、一台のトラックが牛舎の前に停まった。
 荷台が大きな柵で囲まれたそのトラックは、牛を運ぶためのものだった。フェルナンデスの引き取り手が見つかり、今日、業者から搬送されることになった。
運転席から、体格のいい男性が降りてくる。こちらに気が付くと、「どうも!」と言って、被っていた帽子を上げた。荷台の後ろ側は大きな板になっていて、男性はよっこらしょ、とそれを地面に引き下げた。荷台と坂でつながったような格好になった。見ると、一定の間隔で滑り止めが付いている。
「じゃ、見に行きましょか、失礼します」
 業者の男性は牛舎の中に入り、すぐに牛を見たがった。
「こちらです、どうぞ」
 僕は薄暗い牛舎の中に、男性を案内した。フェルナンデスはすぐに見つかった。
「おお、これね、んー良く育ってるね」
「与えていた飼料はこれです。あとこっちは、付けている耳札の詳しい管理番号」
「ふむ、大きな病気も無いみたいだし、問題ないね」
 業者の男性が背中を触ろうとし近寄ると、フェルナンデスは興奮して鼻の穴を膨らませた。
「おうおう、まあ、そんなに緊張するなって」
 背中の肉付きと、横腹も手で撫でつけ状態を確認する。真正面に立つと、顔を覗きんで眼球の具合をチェックした。
「栄養状態、いいね。大事に育てたんだろう」
「はい、ありがとうございます」
「よし、じゃ大事なところも見てみるか」
 男性はフェルナンデスの後ろに回ると、しっぽを上げて肛門と性器を見ようとした。と、その瞬間、ものすごい勢いでフェルナンデスが後ろ足で、男性の腹を蹴り上げた。
「ぐぉっ」
後ろに倒れかけた男性を見て、フェルナンデスが首に繋がれている縄を振り解こうとして、ますます暴れ始めた。
「んーーーーんのぉーーーーーー」
 大きな鳴き声を出し始めた。それに周りの牛も反応し、一斉に鳴き始め、牛舎の中が大変な騒ぎとなった。
「フェルナンデス!こら!いいかげんにしろ!」
 業者の男性は、しばらくうずくまっていたが、立ち上がろうとしていた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ、大丈夫だ。なんてことはねぇ」
 男性は、服に着いた土を振り払うと、急に真剣な顔つきになって言った。
「よし、坊っちゃん、そろそろ行こうか、ここはもう、お前のいる場所じゃないんだ。新しい所に行って、大人になるための訓練しないとな、そしていっぱい仕事するんだ」
 男性はひるむことなく、フェルナンデスの縄を掴んだ。フェルナンデスは、下っ腹にピクリと力を入れた。そして男性のことをまっすぐに見た。

 男性は牛舎の柱にくくりつけられていた縄を解くと、慣れた手つきでフェルナンデスのことを誘導し始めた。男性の腰元には鈴が付いており、動く度にシャリシャリと鳴った。その音を聞いていると、安心するのか不思議とフェルナンデスは大人しくなり、男性の誘導に従っていった。
 牛舎から出て、トラックに乗り込む。板のところで、少し足踏みをしている。困惑しているのか、僕は辛くなって目を背けた。
 後ろから尻を押される。フェルナンデスは仕方なく荷台へと乗り込んだ。
「では、向こうに着いたら、またご連絡しますんで」
「はい、よろしくおねがいします」
 男性がトラックの運転席に乗り込む。エンジンがかかった。フェルナンデスは柵の愛だから、じっとこっちを見ている。僕は目を背けることはしなかった。

がんばって生きるんだぞ
自然が選んでくれた、強い命を持っている
だから、大丈夫だ
お前は、強い

トラックは前進し、あっという間に小さくなって見えなくなった。母さんが台所の窓から見ていた。
牛舎に戻り、フェルナンデスの居た場所を見に行く。空っぽになった、飼育スペースがそこにはあった。寝そべっていた、わら、舐めていた岩塩。持ち主を失ったそれらは、ただしん、と静まり返っていた。
「ハナコ、寂しいもんだなぁ」
 いつの間にか、後ろにいた母さんがぽつりと言う。
 ハナコはただ黙ってむしゃむしゃとわらを噛んでいた。

 春先に植えたとうもろこしの畑が、大きく育っていた。長靴を履いて、畑をゆっくりと歩いた。幹の間を通り抜けていく。ずーとむこうまで、整然と並んだ、とうもろこしの林が続いていた。そこを迷路のように通って行く。楽しくて時間を忘れた。立派に育ったとうもろこしは、大人の身長ほどにもなっていた。幹の途中に葉で包まれた、実がくっついている。
 とうもろこしの実を、両手で掴んで、下にボキっと折る。こうすると、幹にくっついていた実が綺麗に取れる。片手で持つと重たかった。何層にも重なった皮を剥くと、黄色い細い何本ものヒゲとともに、パンパンに張ったクリーム色の実が現れた。

 トラクターで、とうもろこしを刈っていく。大きな音を立てながら、トラクターはガリガリと大地を削って行く。収穫されたとうもろこしは、牛の大事な飼料となる。こうして酪農家は、なるべく自分達で飼料を調達して、すこしでもコストを押さえる。大変な労力と時間が必要だったが、自分達で用意した飼料で育てた牛は、自信にもなり、誇りにもなった。搾られた牛乳を、自信をもって、出荷する。それが、全国の消費者のお腹の中に届くのだ。手は抜けない。

真っ暗な中にいた。周りには誰も、いない。
「…カシ…」
遠くから声が聞こえた。
「…タ…カシ…」
父さんの声だ。
目を凝らすと、ずーっと向こうに、小さな白い点が見えた。その点をじっと眺めていると、点がどんどんこちらに向かってきた。点はどんどん大きくなった。僕は怖くなった。
近づくにつれ、輪郭がハッキリしてきた。人のかたちをしている。
点が、話し始めた。
「エサには、余計なもん、入れるな!」
「…へ…?」
「ヨミ、は熱いタオルで背中を拭いてやれ」
「は…?…なんで?」
「喜ぶからだ」
「母さんに伝えてくれ、無理するな、と」
「うん…ああ…」
「あと、あのヨメさん、大事にしろ、少し強情だけれども…素直でいい子だ」
「は?お嫁さん…?誰のこと??」
それから二つほど、注文があったあと、人のかたちをした白い点の輪郭が、薄くなっていった。すーっと薄くなっていく…もうすぐ消えそうだ。
「父さん!!!」
僕は叫んだ。白い点が少し、ふるふる、と震えた。そしてそのまま消えてしまった。

次の日、朝、目が覚めた。
あれは何だったのか、夢だったんだろうか。
居間へ降りると、母さんがひとりぽつんと座っていた。テーブルの上には何か置かれている。
「父さんの部屋、掃除してたらねぇ…こんなもんが出てきてね…」
それは父さんと母さんの新婚時代の写真だった。

かよの実家は弘前駅から車で四十分ほど走ったところにあった。国道沿いに「りんご農園」と看板が出ていて、その角を曲がると、上部を網に囲まれた、背の低いりんごの樹がただひたすら並んでいた。ずーっと向こうまでりんごの樹だらけである。数百本はあるだろうか。そのりんごの樹の間を数人が行ったり来たりしながら作業していた。
「おーーーい、ただいまーーー!」
かよは車の窓を開けて、大きな声で叫ぶと、奥の方で一人作業をしていた年配の女性が帽子を脱いで、こちらに手を振った。
りんご並木を抜けると、大きな一軒家があった。平屋建てだがどっしりとした外観でまさに御屋敷だ。玄関には柴犬が繋がれていた。車が入ってきたのを見ると、こちら側に向かって来て元気良くしっぽを振った。
「ゴンちゃん、ただいまー!」
犬はかよにとても懐いていた。僕のことを見つけると、口を開けながら、ハッハッハと息をしていた。
玄関がものすごく広い。正面には大きな花が活けられている。僕はそれを横目で見ながら、緊張した面持ちで、靴を脱ぎ上がった。居間へと通されると、テーブルの前に置かれた座布団の上にちょこんと座った。
奥から体格の良い男性が現れた。かよの父親だ。
「は、はじめまして。山田タカシと申します」
深々と礼をすると、父親は「うむ」と言っただけで、お茶をすすった。しばらく沈黙が続き、気まずい雰囲気の中、かよが元気良く居間に入ってきた。
「ねぇ、見て行って、りんご、新しい苗木植えるから、手伝ってって!」
かよは僕の腕を引っ張ると、強引に農園へと連れて行った。

「まずは、この苗木を順番に植えていくべ、この子はまだ小さいから、こっちの陽の当たる方、こっちは少し大きいから、向こう側の樹と一緒に植えていくんだ。じゃ、この子、持って」
苗木は想像していたより重い。根っこの部分は大事そうにネットでくるまれていた。ここは傷つけないようにしないといけない。りんごの品質に関わる。カヨはスコップを取り、手際良く土を掘っていく。かよの額から汗が流れていた。
「よーし、いいよ。真ん中に、まっすぐ植えてー、あーーー、違う違う、それじゃ斜めになってるべ」
僕は慣れない手つきながらもなんとか一生懸命苗木を植えた。かよはその様子をじっと見ていた。
かよの母親は僕たちの二人の様子を笑って見ていた。大きな麦わら帽子を被って前掛けを付けている。こちらに近づいてくると言った。
「お昼ごはん、食べて行ってけれ」
僕たちは作業用の移動車に乗せられ、農園をぐるっと一回りした。人間の高さに枝を調整されたリンゴの樹が整然と植えられている。まだあちらこちらに作業台用のプラスチックケースの足場や脚立が置かれていた。休憩用スペースだろうか、所々に小さなテントがあり、椅子が置かれていた。

居間に戻ると、大きなおにぎりが籠に大量に盛られていた。
「さ、遠慮しないで、いっぱい食べれ!」
大きな塩おにぎりは口の中に入れると、ご飯のしょっぱさがと甘みがいっきに広がって旨かった。外の作業で腹が減っていたので、僕はおかわりをしてもう一つ頂戴した。かよも一緒におにぎりを食べた。次第に家の人々が集まってきて、皆大人数で座って昼食を食べていた。いつもの光景なのだろう。賑やかだった。一通り食べ終え、出されたお茶を飲んでいると、集まっていた中の一人の男性が僕に向かって言った。
「収穫の時期はほんと忙しいから、ぜひまた来て手伝ってもらいたいんだけど、どうだ?」
「はぁ…牛の世話があるんで…来れるかどうか…でも、また来たいです」
「そうか、ウチのリンゴは全国に出荷してるから、収穫時期は近所の人にも親戚にも、みんな総出で来てもらってるんだ、新しい苗木も植えて、増やしてるからな、これからもっと忙しくなるな」
その言葉に、かよが横から言った。
「兄さん、そんなに増やしてばっかりで、人足りるの?父さんも母さんもゆっくり出来ないし…じいちゃんもばあちゃんも大変なんだよ!!」
「だいじょうぶだ!収穫量増やして、もっと出荷出来るようにしないと!」
「そうだけど、まだ返済も終わってないんだよ!まずはそっちが落ち着いてからじゃないと」
「大丈夫だ、なんとかなる!」
「なんとかなるなんて、いっつも言って!そんなわけないじゃん!」
兄妹喧嘩がヒートアップしてきた。
僕は思わず間に入って制止しようとしたが、まったく、もう」と言って勢いよくその場から立ち上がろうとしたかよの肘鉄を、思い切り腹に食らった。
「かよは、心配しすぎるんだよ…」
かよの母親がぽつりと言った。
「少しずつ、やっていくしかない、そんなにすぐには結果は出ないんだから。その年の天気にもよる、こればっかりは、しょうがないんだよ」
部外者の僕は、恐れ多いと思いつつも、丁寧に口を開いた。
「あの、借金って言ってましたが…」
「ああ、三年前の台風の大災害の時の、損害金、三千万円」
「さ、三千万円…」
「毎年返済してるけど、なかなか減らなくてね、それで、健太が農場拡張したりしてがんばってくれてるわけさ」
僕は言葉を失った。

かよの家を出る時、一家が皆、玄関先に集まって、僕のとこを見送ってくれた。
「おーーーーい、また、来てなーーーーー!」
「今度は収穫の時なーーーー!」
「帽子忘れずに持って来いよーーーー!」
おじいちゃんも、おばあちゃんも、みんな、僕を乗せた車が見えなくなるまで、手を振っていた。
車の中で、二人きりになると、急に静かになった。かよが言った。
「ありがと、来てくれて。みんな喜んでた」
「ああ、楽しかったよ。良い人たちだな」
かよはハンドルを握ったまま、こちらをみると、にこりと笑った。

弘前駅に着き、車を降りると、かよがホームまで送ってくれた。
「また、会おうね、すぐ、メールするね」
「うん」
かよは行こうとする僕を見て、一瞬手を振りかけたが、一歩前に踏み出してきて僕の胸に顔を埋めた。
在来線ホームに電車が入りこんできた。僕は乗車すると、かよに小さく手を振った。電車が動き出してからも、かよはずっと手を振っていた。

数日経ってから、リンゴの花が咲いた、とメールが送られてきた。写真には小さな花が写っていた。これからリンゴ農家は忙しくなるのだそうだ。かよからの連絡は途絶えがちになった。
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