山田牧場

佐藤 汐

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第1話

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きのうより日差しを強く感じる。

アパートの部屋の壁に、カーテンの隙間から細長い朝の光が差し込んでいた。その光を横目で睨みながら、僕はベットから体を起こした。窓の外を見ると、細かい霧のような雨が降っていた。歩道橋を通勤するたくさんの人。スマートフォンのメールをチェックしながら食パンをかじる。夜中に母さんから着信が入っていた。
 
茶色い革靴を履いて玄関の扉を開けると、騒々しい車の音が青臭い空気が部屋に一気に入り込んできた。顔を上げると、目の前にうっすら虹がかかっていた。

「あ」

僕は玄関に突っ立ったまま、しばらくその虹を眺めていた。時間を忘れた。幸せだった。遅刻しそうなことも、悩んでいたことも、不思議と全部どうでもよくなった。空に広がっていた虹は少しずつ薄まっていき、四月の明るい水色の空にじっくり溶け込むように消えていった。時計をみると午前八時を過ぎていた。
 
小走りで会社へと向かう。ビルに着くと、オフィスの電気が付いていない。そんなわけないだろ、と思いガラスのドア越しにのぞいてみると、薄暗い中で数人が右往左往しながら作業をしていた。先輩の中澤さんもいる。中澤さんは作業中の手を止め、ふとこちらに気が付き、ちょっとちょっと、と手招きをした。
 
恐る恐るドアを開けると、そこには信じられないような光景が広がっていた。机がない。書類が散乱している。パソコンはすべて撤去。椅子がフロアに点々と転がっており、残された内線電話だけが、じかに床に置かれていた。きのうまであんなに窮屈で忙しかった会社の中は、閑散としていた。
「これは…どういうことですか?」
僕があっけに取られていると、中澤さんは、アイライナーでくっきりと縁取られた目を見開き、唇にシーっと指を当て、僕の耳元でしゃべった。
「知らないの…?きのうの本社会議で決まったのよ…。撤退するって。社長が幹部に土下座したらしいわ」
「え?まじですか?」
「おまけに、会社も倒産、幹部社員はもうみんな、ライバル企業にヘッドハンティングされたっていう噂よ」
「僕らは…?僕らはどうなるんですか??」
「私たちは、もう全員クビ。今日から無職っていうワケ」
「そんな……」
「重要書類だけ集めて、全部シュレッダーにかける、これだけはやっておかないと…!!ほら、ボーっと突っ立ってないで、手伝ってよ!これが終わったら、私はハローワークに行かなくちゃいけないの!!。…で…タカシさんはどうするの?」
「いや…どうするって…」
「あ、ちなみに、今月分の給料も、振り込まれるかどうか、まだ、未定のそうよ」
「ええ??」
今週末に行きたかったアーティストのライブイベントがあることを思い出し、僕はその場で頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「あーー、せっかく予約が取れたっていうのにーーー!」
 
「おつかれさまでしたー」
「お疲れさま、新しい職、すぐ決まるといいな」
「じゃ、また、どこかで」
「ああ、じゃあな」
 社員たちは、それぞれ会社を去って行った。
虚しい証拠隠滅作業は二時間ほどですべて終わった。退職手続きも何もなく、僕はカバンを取ると、無言でビルを出た。残された社員達も、それぞれの方向に歩いていった。僕とは反対方向に、すたすたと歩いていった中澤さんが、ふと立ち止まると、くるりとこちらを振り向いて言った。
「タ・カ・シ、くーーん」
 僕は声の方を向いた。
「新しい職決まったら、連絡ちょだーいねー!」
中澤さんは、ハリのある大きな声でそう言うと、バックを片手で高く挙げ大きく振った。
僕はその足で駅まで向かったが、これからどうしたらいいのか分からず、ホームのベンチに座ったまましばらく過ごしていた。
 
今の会社に勤めて五年。やっと慣れてきて新しいプロジェクトに携わったばかりだった。すぐに新しい仕事なんて見つけられそうも無かった。
 
キヨスクで買ったシャケおにぎりをほおばる。ホームに新しい電車が入ってくる。たくさんの乗客が降りては、またドアがしまり、電車が出発する。ベンチにただ座って、その規則正しい繰返しを数回見送ると、僕はおにぎりの殻の袋をくしゃくしゃっと握り、側にあったゴミ箱に放り込んだ。「フェルナンデス」のライブにはもう行けないし、僕は無職になった。スマートフォンの画面を開くと、僕はライブの予約をキャンセルした。
 
と、ちょうどその時、着信音が鳴った。母さんからだ。
慌てて通話ボタンを押すと、聞き慣れた大きな声が聞こえてきた。受話器に口を近づけて話す、母さんのいつものクセだ。
「あータカシかいー?今どこにいるんだい?朝から何べんも電話してんだけどぉ…、なんでぜんぜん出ないのよ!…父さんが…父さんが、…大変なんだよぉ」
「へ?父さんが、どうかしたの?」
「昨日の夜、急に倒れちまって…」
「何だよそれ…」
「とにかく、すぐ帰ってこいな!待ってるよぉーー!」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
電話がブツリと切れる。僕はスマートフォンを握ったまま、しばらくその場に呆然とし
ていた。
 
 
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