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第八話 箱庭の日常(完)

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 額になにか柔らかいものが触れた気がして、ゆっくりと瞼を開く。
 眠りの余韻が残るぼんやりとした頭で、私が脈動する温かいものに包まれていることに気付いた。
 手が握りしめているのは掛布のはずなのに、と思いながら視線を上げると、

「おはよう、マイ・レディ。忘れられない一夜だったよ」

 朝から甘ったるい笑みと言葉を私に向ける子爵が居た。

 自失ののちに次々と思い出される昨夜の私の醜態。
 泣きながら子爵の体に縋りついたり、浴室まで運ばれて女中頭と侍女に手伝われて洗われたり温まったりしながら自分の体に起きた変化を簡単に教えてもらったあとの記憶がない。

「なっ、どっ」

 混乱で言いたいことが言葉にならない。

「お風呂に入って着替えたあと、薬が効いてきたのか君が眠ってね。君のベッドは整えられてなかったし、だったら僕のベッドで一緒に寝てしまえばいいと思って」

 君が苦しむ姿には胸が張り裂けそうだったけど、穏やかに眠る顔は愛らしくて時を忘れて見惚れてしまった。君はまさに、神から使わされた僕の天使……。

 朝からぺらぺらと語られる子爵の情感たっぷりの言葉は、混乱が続く私の耳を通り過ぎていく。

「お目覚めになられましたか」

 耳にとまったのは子爵の甘ったるいセリフではなく、いつのまにか部屋の扉の前で一礼していた穏やかで理知的な執事の言葉だった。

「アーサー様。イザベル様がお目覚めになられたらお呼びくださるように、とお願いしていたはずですが」
「目覚めたレディの様子があまりにも可愛くて夢中になっていたから、そのことを忘れていた」

 子爵の白々しいセリフに、執事は呆れたような顔をする。
 けれど、私に向けられたのは微笑ましさを隠そうともしない好々爺然とした顔だった。

「また一歩、大人に近づかれたイザベル様に使用人を代表し心からお喜びを申し上げます。まだ、お身体の変化にお慣れになっていらっしゃらないでしょう。どうかご無理をなさらず。授業の予定を変更しましたので、これから数日はゆっくりとお過ごしください」

 穏やかに語られた内容は、つまり、屋敷の者に昨夜の私の醜態が知れ渡っている可能性があるということで、

「お祝いをしないとね」

 固まる私を置いて、子爵と執事が話し合う。

「コックにも伝えましたので、今頃は滋養があり体が温まるお祝いのメニューに頭を悩ませているでしょう」
「女性の心得については……」
「女中頭を筆頭に女達はイザベル様に女性としての心得を手ほどきのために張りきっております。ですがお話の前に、御二方ともお召替えを」

 その言葉を合図にしたように、女中頭と侍女が私のドレスを持ってこの部屋にやって来た。
 この部屋の本来の主であるはずの子爵は夜着のまま別室に移動する。そちらに衣装が用意されていて、そこで着替えるそうだ。

 女中頭と侍女は私の着替えを手伝いながら、晴れやかな顔でお祝いを口にする。
 着替えが終わり、少し痛みは残っているが薬のお陰か醜態を晒してしまった時よりもずっと楽で、歩けないほどでもない。
 念のためにと差し出された侍女の手を握って屋敷の廊下を歩いていると、擦れ違う使用人たちが一様に執事や女中頭たちと同じ笑みを浮かべて頭を下げる。

 予感の通り、昨夜の騒ぎは屋敷中に知れ渡っているらしい。

 久しぶりに、食堂で子爵と朝食をとった。
 にこにこと笑う子爵の顔を見ていられず、コックが私の体を思って作ってくれた温かくて滋養のある料理をひたすら口に運ぶ。

 みんなが私のことで一喜一憂してくれる。
 それは気恥ずかしくて、けれど心がふんわり温かくなるような、そんな気持ちを私の中にもたらした。

 朝食を終え、気分も良くなっていた私はサンルームに移動する。
 ソファにはいくつものクッションが置かれていて、もう時季外れのショールやブランケットまで用意されていた。
 定位置に腰掛けると食堂からサンルームまで私についてきていた子爵が慣れた様子で私にショールやブランケットを掛けてくる。
 そして、私の隣に優雅に腰を下ろした。

「アーサー様。これからイザベル様に女性としての心得をお教えするのですが」
「分かっているよ。マイ・レディのことだから僕も聞いておこうと思ってね」

 気分をリラックスさせるというハーブティを用意して、私の後からやってきた女中頭が子爵の姿を認め、暗に殿方は出ていけと言っているのに子爵はどこ吹く風で答える。 

「子爵」

 私は声に感情を出さないように努めたが、無理だった。

「出てってください!」

 怒りに満ちた私の言葉を聞いても、子爵はにこやかに、

「昨日はあんなにも僕に縋ってくれたのに、マイ・レディはつれないね」
「わ、忘れてください!」

 たぶん、真っ赤になっている顔を子爵からそむけて私は言った。

「忘れられない一夜だったと言っただろう? マイ・レディ」

 耳元でしっとりと囁かれた言葉に、背中がぞわぞわした。
 思わず手を上げて、話せないように子爵の口を封じた。

「意地悪な子爵なんて嫌いです!」

 涙目になってそう叫べば、子爵は大仰にショックを受けたという顔をして、役者じみたセリフを口にする。

「ああ、神よ! 僕の愛娘が冷たいのですっ」

 神は淫蕩を厭うところである。
 淫蕩者の代名詞であるこの男の嘆きは神に届かないだろう。

 けれど、婚姻したる男女の間に生まれたのではない私生児の私は、教会によるともっと罪深い存在らしい。
 そんな失敗の末に生まれた子供を引き取って育てる物好きが、子爵という人であり私の父という人だった。 

「アーサー様! イザベル様にご無理をさせないでくださいまし!」

 女中頭の苦言が飛び、子爵は反省するように両手を上げる。
 気づけばサンルームの入り口に女性の心得を知るために必要らしい本をいくつか手にしている執事が、子爵に困った笑みを向けていた。
 執事の後ろからやって来た侍女が手にしている盆の上に載っているのは、昨夜飲んだのと同じ薬湯だろう。

「ゆっくり大人になりなさい。急ぐ必要はないんだ。僕が君を守るからね、イザベル」

 子爵はそう言って優しく私の頭を撫でて頬にキスをすると、ソファから立ち上がる。
 颯爽とサンルームを後にする子爵の背を目で追う私は子爵を呼び止めかけて、やめた。

(『お父様』なんて……)

 ここは子爵が私のために用意した、私のための箱庭だ。
 誰にも見せないように、私を隠す箱庭だ。

 子爵に守られていることなんて、とうの昔に知っている。

 誰からも傷つけられないように私を守る箱庭は、今日も穏やかな時間が流れていた。
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