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宵の明星

六夜 明け前

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先程まで睦みあっていたベッドまでアルスラーンは私を運ぶと、紗幕をくぐってそっとベッドに下ろしてくれる。精緻な模様が施されたベッドは当然のように綺麗に整えられていて、さっきまでここで抱き合っていたとはとても思えない。
そしてアルスラーンはベッドサイドに用意されていた香油瓶を手に取った。金と赤の交じったそのガラス製の瓶の蓋をキュッと外しただけで香るのは深く甘いムスクだ。
「それは香油?」
尋ねる間も、アルスラーンは蓋を元の場所に置いて準備を進めている。
「肌に塗るといい、マコ。」
とろとろの香油がアルスラーンの大きな手に零されて、その手が何も纏っていない私の脚を撫でる。太股から下へ、スゥーと香油は広がって途端に甘く蠱惑的な匂いが立ち昇った。そのまま彼の手は私のつま先まで香油を塗り込む。
「あっ自分でするから」
顔は真っ赤になっているだろう。けどアルスラーンはくすりっと笑って、
「だめだ」
そしてまた香油を今度は直接わたしの胸に垂らす。ツゥーッと胸の間をつたいながらしどとに肌を濡らす香油をアルの大きな手が撫でて、胸全体を揉むように広げる。その時、鞭の傷には触らないようにしてくれる彼の優しさに胸があたたかくなる。
「ぁんっぁぁっ」
そして戯れに乳首をつまんだりして甘い快楽を肌に刻んでゆく。脇腹も両腕も彼の手があますところなく這う。最後にまた彼は両手に香油をつけると私の内股に手を這わした。
「ぁぁっ」
「塗り込むだけだ、マコ・・・」
彼の愛用する深い深いムスクの香りに体全身がつつまれながら、彼の手で柔らかく弱い内股も香油を塗り込まれた。
「さぁ終わりだ」
そう言ったときは私の息はすでにあがっていて。
「私もしてあげる」
と言ったらアルは「その後、俺に抱かれるのを見越して言っているのかな?」と目を細めるから、思わず首を振っていた。
そして二人でやっとベッドに横になる。すると抱かれている間は気にならなかったけれど、牢でセンド皇子に打たれたところが、ジンジンと痛みで響いたから私は気になっていたことをアルへ尋ねていた。

「アル。貴方が牢屋で切ってしまった人たちはどうなったの」
あの後、すぐに出てしまったから分からない。けれど刀で切られたのだから痛いだろう。鞭よりも、ずっと。アルスラーンが私を守ろうとしてくれたのは分かっているのに、自分のせいで誰かが怪我をした事実が急に怖くなった。日本にはそんな暴力は無かったから尚更だ。するとアルはその端正な顔に冷厳さを浮かべる。

「マコを汚そうとした人間のことなど、気にかけなくていい。」

私はアルスラーンのその言葉に酷く動揺した。今まで彼は王族らしい振る舞いをしたことはあっても誰かを切り捨てるような態度をとったことは無い・・・私の中のアルスラーンは寛容で優しい人だ。
それだけ怒ってくれているのは分かったけれど、逆にあの兵士たちがアルスラーンという魂を貶めている気がして私は分かってほしいと口を開く。

「アル、気にするに決まってるでしょ?私は誰かが傷つくのは望んでいないんだから・・・怪我していると動けないし可哀想。」

返事には幾分の間があった。彼の施政者としての瞳がジッと私を見つめて、やがて苦笑しながら瞬いた。
「わかった」
アルスラーンは仕方がないと溜息を零す。そして私の体に負担にならないように優しく、けれど包み込むように抱きしめながら、
「・・・心から愛してる」
そう耳元で囁いた。けれど私とは言えば、「うん」と返事をしながら疲労感と幸福感を揺り籠にそのまま瞼を落としていってしまったのだ。



すぅすぅと寝入る健やかな寝息。アルスラーンはマコに視線を向けると身を屈めて、チュッと額に口づけを贈り、絨毯とクッションで豪奢に造られた寝台から降りる。素足に馴染む手織りの絨毯の上で脱ぎ捨てていた服を着こみ緩んだ帯を結び、簡単な身づくろいをすませた。そして腰に剣を佩いて立ち上がり自分の宮を後にする・・・回廊を歩きながらまだ濡れている乱れ髪をかき上げる。

(さっきは驚いた・・・)

王族であり。ともした時に出てしまうアルスラーンの傲慢な残虐さをマコは見抜いて諫めてくる。
それも優しく、そっと。
まるでそれは砂漠で迷う旅人に道をさししめす星のようだと思った。
「マコの神威はいまだ発露していない」
”神威はあふれるもの”とされている・・・その時になれば分かると。
けれど出来るなら発露などせず、この手で幸せにしたいと願わずにはおれなかった。

◇◇◇

薄暗い地下牢に僅かな光が差し込んで、朝の気配が漂い始めていた。
だがそんな気配など何の救いにもならないと牢に入れられた男たちの嘆きと怨嗟の声はみちている。
「センド皇子に従うんじゃなかった。」
そこかしこで男たちの賛同の声が上がった。あれから王族である第三皇子の庇護する”神子”を傷つけた罪で兵たちは速やかに牢屋へ入れられたのだ。自分たちを守る筈の第二皇子は元々兵士たちを切りすてるつもりだったのだろう・・・第三皇子のイェニチェリに対し、兵たちを庇い立てすることは無かった。
アルスラーン皇子の怒りを買い、切られた傷は熱を持ち、痛む。このまま手当てをしなければ命に関わるだろう。
「金と女をやるって・・・センド皇子に嵌められた。」
また男が一人、呟いた時だった。突然、ガチャンと牢屋の扉が開く音がして、足音が響き、使用人たちが次々と入ってくる。
「なっおいおいっどういうことだ」
男の声掛けに使用人たちは返事をしないが、彼らは暖かい豆のスープにパンに焼き肉団子(キョフテ)を手早く用意して、その脇に黒い丸薬と化膿止めの塗り薬を用意する。
そしてそこで男たちは使用人の側に此処にはあまりに不釣り合いな貴公子が佇んでいることに気づいた。
それはある筈のない姿で・・・罪人たちは目を見開く。
「・・・なぜ」
途端、貴公子は冷厳な響きの声を出した。
「なぜ、だと。マコが可哀想だからとお前たちを哀れんだからだ」
「あわれんだ」
意味が意味として男たちの中に落ちていかなかった。あわれむとは何だ。自分を穢しそうとした囚人をあわれむとは・・・
「いいか。彼女を汚そうとしたお前たちを俺は赦すことはないし、生涯、マコと会わせることはないだろう。だが彼女の恩情を忘れることは俺が許さない。」
ああだからこそ怒りを抑えて、此処に来たのだろう。
そして石牢から出ようと歩き始めたアルスラーンの背を囚人たちが振り仰げば、外の光が彼の朱金色の髪を、夜明けの光輝を纏わせ輝かせる。

・・・暁(アルスラーン)の名をいただく王族はたった一人。

彼らは自ずと言葉なく石牢に頭をこすり付けていた。




砂漠から登る太陽が宮殿を淡く照らしだす。牢屋を後にしたアルスラーンは宮殿の回廊を一人歩いていた。予感があったのかもしれない。
角を曲がり、幾つもの柱を過ぎて、城の真ん中に忘れられたように造られた中庭に出る。昔、兄弟三人で遊び惚けた場所には示し合わせたようにオリーブの木の枝に触れながら一人の青年が佇んでいた。

「ファトマ兄上」

声をかければ、オリーブ色の肌に緑の瞳の王太子はちらりっとアルスラーンに目を向ける。
「発つのか」
「はい」
隠し立てしても、夜明けとともに動き出した万を超えるイェニチェリにこの兄が気づかない筈もない。ファトマ王太子はそしてぽきりとオリーブの枝を手折り、微笑みながらアルスラーンに声をかける。
「随分とセンドとやり合ったそうだな。あれも落ち込んでいた」
神子審議という名目で連れ出されたマコが、第二皇子に攫われ、牢屋で暴虐を受けてまだ一日も経っていない。
「兄上ともあろうお方がなぜあのような卑怯な真似を。」
怒りで声を落とすアルスラーンに、だがファトマ王太子は首をかしげて見せる。
「卑怯?神子審議は古来よりの作法であり、昨夜のことは私は一切預かり知らぬこと。センドも焦ったのだろうよ」
「マコが受けた暴虐はっそんな言葉で許されるものではない!」
怒りが炎のように燃え上がり、アルスラーンが声を荒げるとファトマ王太子は手折ったオリーブの枝をアルスラーンに突きつけた。
「それは、お前がカオルコを蔑ろにするから招いたことだ」
その言葉にアルスラーンは絶句する。アルスラーンがカオルコにしたのは会わなかったり、相手にしなかったりしたことぐらいだ。それを理由にアルスラーンに抗議をするのなら兎も角、マコに危害を加えるのなど甚(はなは)だ考えがおかしい。
「俺は敬意に足る者であればそう遇しますっそれに値しない人間との時間を拒んだだけで、マコが傷をつけられる理由にはならないっ!であるのなら兄上たちの方こそマコを蔑ろにするのを直ぐに止めるべきだ!」
一息に言い切った弟の瞳を、静かな深緑の瞳が受け止め、何かを言おうとして王太子が何も言うことは無く首を振って、顔を手で覆う。
「・・・私はカオルコに対し罪を犯した。」
その罪が何なのかをもう知っていてアルスラーンは何も言葉が出てこない。だが思わず、昔のように兄の腕を掴んでいた。そんなアルスラーンに王太子はなお言葉を紡ぐ。

「その罪を今・・・償っているところなのだ。」

息を飲み、瞳を見開いて自分の顔を見つめる末の弟の顔を見つめ、ポンとファトマ王太子は背を叩いてみせた。親しい者だけが持ち得るその距離感になぜかアルスラーンの胸は痛む。

「アルスラーン。神威を揮(ふる)う神子から離れれば私とて少し平時に戻る・・・」
アルスラーンが驚きで言葉すら失う中、ファトマ王太子は謳うように言葉を紡いでゆく。

「万の軍団(イェニチェリ)はお前に忠誠を誓っている。」
音に聞こえし、帝国のイェニチェリ。万の軍馬が地平線より駆けいずる。

「12諸侯が揃って、お前の将軍(パシャ)の地位を父上の勅命の元に確たるものとした。」
皇帝に仕える尊き血筋の諸侯は先の戦で仕えるべき主を定めた。


「愚かな私に代わり、アルスラーン。お前が王位を手に入れよ。」


その瞬間、時が止まったようにアルスラーンには感じた。自分を見つめる兄の深緑の瞳には深い理知の輝きがある。アルスラーンが子供の時から知る兄の姿だ。

「俺はっ」

何か言おうとするアルスラーンをファトマは自身の左手を掲げてみせることで制する。その掌には太陽のような印があった。色はそこだけ色が少し抜けたように白い。
それはこの国の人間ならだれもが知っている御印・・・王の証。

「たとえ王の証があろうと何の意味があろうか。いっそ空しいだけだ」

ベレカ帝国創建の章曰く。
”神は右手には剣を、左手には盾を持ちたもう。王の御証、其は即ち神威の具現なり。”
そしてそれには続きがある。その続きを王太子は諳んじた。

「そして”王の心”は胸に顕れたもう。」

神は優れたるものに、その証をお与えになる・・・”心”とは王としての全てをそなえた者のことを指す。

「王たるに最も大切な”王の心”こそ賢王の証。亡き父上ご自身にも胸に太陽の御印があった・・・最も尊き場所に。」

アルスラーンは何かを耐えるように自身の胸元を抑えて、眉を寄せる。そんな弟の動作に気づいているのかいないのか王太子はなお言葉を続けた。
「そして父上もきっとお前を次期国王と考えていらっしゃった。」
「しかし父上は兄上を王太子に据えられていらっしゃるっ」
これ以上は耐えきれないとアルスラーンが叫べば、ファトマも血を吐くように叫ぶ。

「私は父上の最期を見取れたお前とは違うっ!!!!」

慟哭の様な叫びに、だがアルスラーンも、

「・・・最期を見取れても狂おしいものです、兄上。」

そう置いてきぼりになった幼子のように囁いた。そしてそのままアルスラーンは顔に苦悩を刻んだままファトマ王太子に礼をしてみせる。
「お暇申し上げます。亡き父上の命により今度こそコンスタンティノルを陥落せしめるために。そして彼の都市を我が愛しい者の安住とするために。」
「・・・彼の都を陥落せしめた者に皇帝の地位は譲られる。父上の遺言が果たされるだろう、アルスラーン・・・俺が俺としてお前に会えるのは、これがきっと最後だ。」

返事には、幾分の間があった。

「決して俺は諦めません・・・ここは俺の故郷で、貴方は変わらず俺の兄なのですから。」

そのアルスラーンの返事にファトマ王太子は仕方がないと言いたげに微笑った。

「お前は優しすぎる・・・きっともう少しすれば、私はまともに考えられない。それをお前に見られるのも耐えられない・・・去ってくれ、そして次に私がお前の前に立つときは躊躇なく切って捨てよ。」

そしてアルスラーンは唇を噛みしめて、立ち上がると自分の兄へ背を向けたのだった。



息を吸えば、甘く深くムスクの香りがする。さらさらと頬を撫でられる感覚が優しくて嬉しい。
それに微笑めば、今度は大きな手が額を撫でてくれた。
その感触にゆっくりと目を開けば視界一杯にアルスラーンの端正な顔がある。彼の優し気な表情に「おはよう」と笑えば、彼も「おはよう」と返してくれる。そんなささやかな幸福の時間。
私が体を起こすとすぐにアルスラーンが濡れた布をさしだして朝の身繕いを手伝ってくれた。それだけで頭が冴えてくるから不思議だ。
「マコ、体調は大丈夫?」
「大丈夫」
日本人らしい反射でつい応えてしまう。
でも昨夜は抱き潰されてしまうかと思うほどの夜だった。下半身の感覚が溶けてしまうほどの。
「良かった。さぁ、連れて行ってあげるから朝食にしよう」
そう言ってアルスラーンが指し示した先の絨毯には沢山の料理が並べられていた。どれも作り立てで湯気が立ち食欲をそそるいい匂いが広がっている。彼は私を抱き上げて、連れて行ってくれる。
「美味しそう!」
お世辞抜きの感嘆の声が出てしまう。
メインはイカメシのように、鶏(タヴク)をさっと茹でた中にピスタチオや刻み玉葱、唐辛子を使い味付けしたピラフを入れて、外側にオニオンジュースを塗り、色よく焼いたイチ・ドルムシュ・クズゥ・ケバブだ。
アルスラーンが侍女さんが切り分けたそれを自分で持ってなぜか雛鳥よろしく腕の中の私の口元に運ぶ。なんで私は彼に抱っこされたままなんだろう。
「自分で食べるから」
と言えば、
「食べさせたい。俺の手で食事して、マコ」
と言うから恥ずかしいけど口を開けて食べる。一口食べた瞬間にオニオンの効いた鶏肉と、その汁をすったピラフのバランスが口の中に広がって「美味しいっ」と呟いてアルに「良かった」と笑われてしまった。でも美味しい。美味しいとパクパク食べている私をアルは本当に優しい目で見てくれるからついつい食べ過ぎてしまう。これではいけないとアルスラーンにも私が「はい」といって口に運べば彼は大きな口を開けてぱくっと食べてくれた。
「美味しいね」
「うん、美味しいよ」
沢山食べて、心も体もぽかぽかとあたたかくなると締めにサクランボのシャーベットが出てくる。赤いワインの色に近い鮮やかな暗紅色のそれはサクランボの甘酸っぱさもあいまって口に入れた瞬間にほどけて消える。風味は抜群だった。
そして食後のひと時でチャイを飲んだでいると、侍女さんたちが来て、「装束を整えさせていただきます。」と礼をしてくれた。どうやら身づくろいをしてくれるようで「アルスラーン殿下も」とアルも着替えがあるようだ。アルが名残惜し気にしながら「また」といって別れた。
木で編みこまれた衝立を手早く侍女の人たちが立ててくれて、その中へ促される。そして渡された服は黒紗のヴェールに黒のアラビアン衣装だった。幾重にも布が重なった下衣には金糸で細やかに刺繍がほどこされ、上衣には金や紅の宝石が散りばめられている。手から腕までも黒の日よけに覆われて指先だけが出すことができる。その指先や腕に宝石は飾られて、最後に仕上げのように左手の薬指にアルスラーンに以前に貰った、ルビーのカボションカットの指輪が着けられた。もちろん夜待鳥の羽のネックレスも首元を飾っている。
「とてもお似合いでございます。やはり黒はいいですわね」
「どうして?」
「御髪(おぐし)にとても合いますし、それに・・・意味がございましてね?」
「そうなの?」
「はい。お相手がいる女性が身に着けますと『貴方以外の色には染まらない』という意味がございます。」
思わず、私は自分の頬を抑えて羞恥に耐えていた。

そしてすっかり着付けられた私が衝立から出てくると、アルスラーンも着替え終わっていたようで部屋の中央で佇んで私を待ってくれているところだった・・・凛としたその姿に思わず見惚れる。
アルスラーンは頭に円形の帽子・カフタンを被り、金と朱を基調とされた服を纏っている。精緻な紋様が描かれた民族衣装は彼の持つ清冽な雰囲気によく合っていて、腰に差すシャムシールと金の首飾りにはルビーが燦然と輝いていた。
そして彼が微笑みながら私に手を差し伸べてくれる。
「マコ、確かめておきたい」
「なにを」
「これからも俺と共に来てくれるかどうかを」
そして彼はそっと私の手を握ると跪いてくれる。
「この先、苦難があろうと俺と共にいてくれるか?」
真剣に囁く彼に私は思わず笑ってしまった。

「アルの方こそ私がいるからつらい思いをするのに」

それは私の本音だ。それなのにアルスラーンが笑うから。
「マコに出会えたのは俺の人生の幸福だ。」
こんな風に大切に私を包んでくれるから私は私でいられる気がした。
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