夏夜の果て

寿美琴

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 笠もなく走るのは久坂と桂。闇を割いてゆく。料亭から帰る最中に、突然の雨に降られてしまった。酷い雨であった。
「もう少し早く藩邸を出れば良かったですね」
 料亭に行くより前、藩邸を出ようとしたところを身内に知られてしまって、たわいもない長話をしてしまった。
 予定通りに藩邸を出ていれば、確かにこうはならなかっただろう。
「今更言っても仕方あるまい。君はどうだ、泊まっていくか?」
「いえ、こんな雨ですから遠慮しておきます。ここからならこちらの方が近い」
 料亭では、今日寿やに泊まっていこうかという話も出たが、寿やに帰るよりは久坂のいうとおり藩邸に帰る方が幾分か近い。
「それも道理だな。では、私はこっちだから」
「ええ、お気をつけて」
 二人は雨に降られながら、道を分かれてそれぞれ小走りで帰ってゆく。ようやく寿やの玄関に飛び込むと、お松が音に気付いて台所から出てきた。
「ひどい目にあった」
「桂はん?うわ、よう濡れてはりますなあ。すぐ手ぬぐい持ってきますから、そこでじっとしとってください」
「ああ……」
 桂は言いつけられた子どものように立ち尽くす。少しそのまま待っていると、奥から何枚かの手ぬぐいを持ってお松が現れた。
「いくら夏やから言うたって、こんに濡れたら風邪ひきます。なんで雨宿りしてきいひんかったんどすか」
 桂の体を拭きながら、お松は言った。
「最初は小降りだったんだ」
「この季節の雨が小降りで終わるわけないやないですの。ほら、はよ脱いで下さい」
「ああ」
 お松に言われるがまま袴を脱いで、着流し姿になった。しかし帯を締めているところ以外はすべてずぶ濡れである。
「そのまま風呂いかはります?」
「んん、そうするとしよう」
「ほんならそのまま行ってください」
 桂はこれにも黙って従った。やはりこういうときは女の方が手際が良いと見える。
「あっ、桂はんお待ちんなって!」
「ん?」
 しかし、歩き始めて数歩のところで、お松が声を上げるのを聞いた。
 振り返ると、お松が床を拭きながら慌てている。どうも着物から水が滴って、床に絵を描いたらしい。
「お、これはこれは」
「ああっ、桂はん、進まんでください」
 桂は床を拭きながら追いかけてくるお松が愛らしく思えて、からかい始めた。少し進むだけでお松は声を上げる。
「いや~、ここから見る庭は、いつみても良いもんだ」
「もう、桂はん!」
 ゆっくりと進んで見せる桂に、お松もいよいよからかわれているらしいと悟った。顎に力を入れて怒るお松の顔を見ると、つい桂はお松で遊びすぎてしまう。
「降音や 耳もすふ成 梅の雨。まことよく降るものだ」
 芭蕉の句を口遊みながら、ついてくるお松をちらりと見た。目があって、お松が桂を睨む。しかしその口元には、かすかな笑みが宿っていた。
「桂はん、怒りますえ」
「悪い悪い。ついね、からかいたくなった」
「もう、ええ年してほんま大人げない」
 立ち止まった桂の足元を拭いていたお松は、そう言ってようやく立ち上がった。その首筋の汗や火照った表情から溢れる色気に、桂は目がくらむ思いがしたのを飲み込んで言葉を探す。
「許してくれ。つい面白くなってしまった。謝るよ」
「ほんならそれも脱いで、ふんどしだけで行きなはれ」
「…………そうしよう」
 あらゆる意味での懺悔だと思って、桂は潔く褌以外をすべて脱ぎ落とした。それから刀だけ右手に携え、風呂場へ向かう。
「……変なお人やなあ」
 笑みを含んだお松の声が、聞こえた気がした。

「おや」
「あっ」
 潔くすべてを置いていってしまった桂のために浴衣を置きに来ただけなのに、そこで風呂から上がってきた桂とばったり出くわしてしまった。
 お松は気恥ずかしさのために慌てて目を逸らしたが、こうなってしまった以上浴衣を置くだけで去るわけにもゆかず、浴衣を広げて後ろから桂の肩にかけてやった。黙ってしまっては申し訳ないので、なんとかして話題を探す。
「……早いお上がりでしたなあ。どうでしたか、湯加減は」
「ああ、いいくらいだった」
「着物は洗濯しときました。明日になれば乾くと思います」
「ありがとう」
 桂が浴衣を整えるのを待って、帯を手渡す。そこまで終えたので、そのままそそくさと退散しようとするお松。
「ほんなら、夕飯はまた暮六つに持って行きますから」
「あ、お松。待ちなさい」
 去ろうとしたお松の手首を、桂が取った。
「な、……なんですの」
 突然のことに、お松の顔には羞恥心が昇ってきた。桂の顔を伺うが、非常にまっすぐな顔でこちらを見ている。
「帯が結べん」
「……あほなこと言わんとって下さい」
「私は大真面目ではないか」
 きっと悪戯心を隠し持っているに違いない。大真面目な顔をしていてもそういうことがわかるようになってきてもいたが、こういうときの桂はしつこいということも良くよくわかっている。お松は観念して手を差し出した。
「……もう、貸してください」
「んん」
 桂の手から帯を受け取り、後ろから巻いてやる。しかしその手の甲を、桂の手が包んだ。
「桂はん……?」
「君は、母君に似て誠に美しくなった。手元に置いておきたくなるほどだ」
 桂の声音が真剣なのは、お松もさすがに気づいていた。しかしその言葉を受け止めきれない。
「……おやめください」
「私もわかっているがね。大変世話になった女性の娘だ。大切にきまっている」
「……」
 なんと答えて良いものか、見当もつかない。そのまま、お松は黙り込んでしまった。しかし、ここは何としても冗談で済ませておきたかった。いつもの冗談だということにして、この事実を有耶無耶にしておきたかった。
 その気配を察してか、桂がお松の甲をとんとんと人差し指で叩く。
「ゆっくり考えてくれていい。私はしばらくここにいるつもりだから」
「……それも、いつもの冗談でっしゃろ……?」
 言ってから、お松はこの言葉が思いの外桂を傷つけてしまったことに気が付いた。桂の雰囲気が一瞬固まったのがわかったからである。
 取り繕おうとしたものの、言葉が見つからずに悩むうち桂の方が先に口を開いた。
「まあそういうことにしても良い。ほら、行きなさい。夕飯の支度があるだろう」
「……はい」
「いつでも部屋に来るといい。昨日も煎餅を買ってきたんだが、それも余っているから」
「……ええ、夜伺います」
 気まずいはずなのについそう言ってしまったのは何故だろう。お松は何も考えないことにして桂の使った手ぬぐいを拾い上げる。
「楽しみにしているよ」
「ほんなら、夕飯はいつものように暮六つに持ってあがりますから」
「ああ」
 結局最後まで、桂がお松を振り返ることはなかった。お松もそのままそそくさと退出してきたので桂の顔を見ていない。
 しかしお松は、まだ体温の残る桂に握られた手首を自分で握りながら、先刻の名残をかき消すように走り去っていった。
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