夏夜の果て

寿美琴

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 お松は額の汗をぬぐった。
 今日は朝から気温が高い。廊下の雑巾がけをするだけでも鼻の頭や額には汗が滲んだ。
「お松、いるか~?」
 玄関の方から聞き慣れた声が呼ぶ。床を拭いていた雑巾を脇に置いて、袖を縛り上げていた襷をとった。
「はーい、なんどすか」
「どこだ?」
 声をたどっているのかそう問うてくるので、お松も声の方へ寄る。すると廊下を折れる角で出くわし、その瞬間桂の顔に特大の笑みが広がった。
「いつも早々と売り切れる大福が手に入ったんだ。お前の分もあるから食べるといい」
「大福どすか?」
「ほら見てみなさい、どうだ、うまそうだろう」
 手に持っていた包みを開けて、桂は自慢げに言ってみせた。
「わあ、ほんまや」
 思わず跳ね上がった声音に口元を押さえると、桂がそれを見てからかうように笑う。こういうとき、お松は自分の迂闊さにはっとする。しかし桂はむしろそういう迂闊を喜ぶようなところがあった。
「掃除が終わったら食べなさい。私の部屋へ置いておくから、終わったら取りにおいで」
「ええ、おおきに」
 そう答えると桂はすぐさま背中を見せたので、お松はその背中を見送る。
「あ、それと」
 しかし、ふいにその背中が反転し、もう一度桂の顔が見えた。
「これもお前にやろう。似合うと思ったんだ」
 そう言って桂はお松に歩み寄ると、お松の手に大福の包みをもたせて胸元から何かを取り出した。
 それからお松の髪に触れる。
「桂はん……?」
「ああ、やはり似合う。お前は赤がよく似合うね」
 桂の言葉で、お松はゆっくりと髪に触れた。
「これ、かんざしどすか……?」
 お松が尋ねると、桂は少し困った風に頭を掻いた。
「そうだ。三十になっても独り身の私には、こういうものが眩しくて仕方ないが」
 そこまでで言葉を止めて、お松の目をじっと見つめてきた。それがどうにも恥ずかしいので、お松は視線を少し伏せる。
「つけてくれる女がいれば、手に入れた甲斐があるるというものだ。つけるかつけないかはお前が決めても良いが、……つけてくれなければ私は拗ねる」
「え?」
 桂の言葉を間に受けて、お松は戸惑いの声を上げた。
 しかし、桂がそのお松を見て笑うのですぐにからかわれているのかもしれないと気づく。
「もう、桂はん」
 そう言って睨むと、桂はいたずらを仕掛けた小僧のような顔を見せた。
「お前の好きにするがいい。私は先に湯に浸かってくることにするよ」
「言い逃げなんてずるい人やわあ、どういう意味なんどすか?」
「ははは、解釈は君に任せる」
 言い終えるか否かというところで、桂は角を曲がり去って行ってしまった。残されたお松の頭に、先ほどの桂の言葉が残る。
 頭の中で繰り返しているうちに、恥ずかしさや戸惑いで赤面したお松は、結局桂が手元に残していった大福を見ながら、ただうつむいてしまうのだった。
 それを桂が、角を曲がった先から見ていたことを、お松は知らない。

 とある日の午前。桂はお松のいる部屋の襖を開けて声をかけた。
「お松、少し頼みがあるんだが」
 縫い物をしていたらしいお松は針を針刺しに戻し、顔を上げて桂を見る。
「なんどすか?」
「これを見てくれ」
 桂はお松に、自分の袴の腿あたりにあるほつれを指差して見せた。お松は桂が何を言いたいのか察したらしい。
「あら、後で繕うて差し上げます」
「ありがとう、助かるよ」
「それで、頼みごとってなんでしたん?」
 首をかしげて尋ねてくるお松に、桂は虚をつかれた。
「……ははあ、そうきたか」
 そうしてつい笑い出してしまう。
 しかしそんな桂にお松が困惑した表情を見せたので、桂はお松の前に腰を下ろして胡座をかき、まっすぐその瞳を見て。
「では、これにぜひ答えてもらいたい」
「何どすか?」
「……母君の墓前に参りたいのが、場所を教えてもらってもいいかね?」
 一瞬、お松の表情が固まった。それから俯き、何かを心に決めた顔をして頷く。
「……ええ」
 それだけ言ってゆっくり立ち上がると、文机に向かって紙と筆を執った。
「地図を描いてくれるのか」
「ええ、迷いやすいとこですから」
 桂も文机に寄って、その紙を覗き込む。意外にもそこに書かれた地図は簡潔で見やすく、桂は感心してしまった。
「ほう、これはいいな。ここがあの川で、ふん、……なるほど、……ああ、そういえばこの先は行ったことがない」
「その行ったことのない先にあります。小さい墓やけど、造りが立派なんですぐわかると思います」
 すべて書ききると、お松はそれの墨が動かぬようそっと桂の方へ地図を寄せた。
「ありがたい」
「今日は遅くなるんどすか?」
 お松はわざわざ身体の向きを変えて尋ねる。
「そうだな、墓参りのあと、久坂君に会ってくるから戻るのは暮れ頃になる。陽のあるうちに帰るとは思うが、夕食は食べてくるかもしれんから、支度はしなくて良い」
「そうどすか。わかりました。出かけるんなら、それ着替えていかはったら?」
「そうしよう」
 お松は部屋の端にたたんであった袴を持ってきて、桂が袴を付け替えるのを手伝った。それがあまりにも自然で、ずっと前からそういう習慣が二人の間にあったかのような気になる。
 桂はそれがどことなくこそばゆく、また幸福とも感じられた。
「では、そいつを頼むよ」
 袴をつけ終えると、そのままの足で襖の前まで行き手をかけて振り向いた。
「ええ、預かります。気ぃつけて」
「ああ」
 笑顔で見送ってくれるお松の姿に、つい笑みがこぼれてそれを隠すように桂は足を踏み出した。
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