夏夜の果て

寿美琴

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 その夜。桂は部屋にお松を呼び、晩酌に付き合ってもらっていた。桂が他の客の世話を終えたら部屋に来いと言ったために、随分と遅い時間である。
「そうか……私の言葉で……」
「ええ。母は時勢がどうなろうと、うちの宿では長州のお方を庇いなさいと」
 お松が桂の空になった猪口に酒を注いだ。桂はそれをぐっと飲み干す。
「大変ありがたいことだ。君も知っているかもしれんが、うちの若い者は久坂に限らず血気盛んな奴が多くてね。無茶も多くしているだろうから、いつか京を追い出されるのではないかと不安に思っていたんだ」
「もしそうなったとしても、ここに寝床だけは用意しておきます」
「ありがとう」
 桂がそう言うと、お松がまた甲斐甲斐しく猪口へ酒を注いだ。
 その指先、横顔、うなじを見ると、うんと女を感じる。桂はその色気に当てられない様に目をそらしてから、それでも口をついて出てくる言葉を止められなかった。
「君も、本当に大きくなったね。最後にあったのは私が十八で、お前が八つの頃か。松は本当に、綺麗な娘さんになったなぁ」
「おやめください……」
 そう言って恥じらう顔に、また女らしさが見えた。
「私も幼い頃のことやからあんまり覚えてまへんけど、桂はんもお若かったどすなあ」
「そうだね。いつも君から花をもらっていた。君は花を摘むのが好きな子供だったからね」
「花を摘んでは、桂はんに差し上げとりました」
「私も嬉しくて部屋に持ち帰るんだが、次の日には枯らしてしまってね。それを何度か繰り返すうちに君の母君が見かねて、竹筒に水を入れてその花を挿してくれたこともあった」
「ふふ、そんなこともありましたなぁ……」
そのまま、お松は俯いてしまった。桂も過去という重みに引きずられ、沈黙する。
長い沈黙の後、雪の下からふきのとうが芽吹くように、お松が息を吐いた。
「……母は、桂はんに救われとったと思います。あの頃、母は父上にこの店ごと捨てられて、ここもまだ立ち行かんくて、幼い私らもおって。暮らしに困窮しとったとこへ、桂はんがいつも長州のお連れ様を呼んでくださった」
 その声音が、桂に対する慈しみを含んでいる。昔、彼女の母親がそうしてくれたのと同じ声音でお松は言うのだ。
「私にしても都合が良かっただけだ。気の利く女将がいて、飯が美味くて、可愛い娘もいて。そういう宿屋は誰からも好かれて当然だ」
「勿体無いお言葉です。母は、桂はんが仏様に見えるて言うてました」
「それこそ勿体無い言葉だよ」
 桂は酒を飲み干したが、継ぎ足そうとするお松を手で制した。お松は一時動きを止めたが、すぐにはっと何かを思い出したらしい。
「そうや、母が桂はんに会うたら渡してほしいって文を残してましたん」
「文?」
 「ええ。持ってきますから、少し待っとっておくれやす」
言うが早いかそのままお松はすぐに立ち上がり、部屋を出て行った。
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