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ルナリス・ファルカリア

一筋の涙

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 森の中は入り組んでいた。
 所狭しと立ち並ぶ木々が進行を邪魔している。
「よっ、ほっ、とっ」
 シンリは軽やかに、まるで猿のように木々の合間を縦横無尽に駆け抜けていく。
 対照的にルナリスは上手く進めずにいた。距離がみるみる開いていき、比例するようにルナリスが焦りを見せる。
「くっ──待ちなさい!」
 ルナリスは離れていく背中に大声を投げ掛けた。
 今まで並行していた二人の距離は開く一方だった。その理由は武器である槍の存在だ。ルナリスの持つ槍は太く長い。そんなものを持つルナリスにとって、この辺りに生えている木々は邪魔でしかない。槍がつっかえ、引っ掛かり、なかなか進めないでいる。対してシンリの武器は、長さこそ多少はあるが、決して太くはない。木々の生い茂るこの場所でも大した邪魔にはならない。
「悪いけど俺、障害物競走とか得意なんだ──よっ、と」
 大差ない二人の身体能力差よりも、二人が持つ武器の差が物を言わせている。
 ルナリスは諦めたのか、やがて足を止めた。
 俯き、深く息を吐き出す。
「……そうね、ここでは私の方が不利なことは認めるわ。だからこそ──」
 重心を下げ、槍を先ほどまでよりも深く引いて構える。
「ハァァァァッ!」
 気合いを集中させる声が木霊する。
 彼女を中心に風が巻き起こり、木々が葉音を鳴らす。
 明らかに空気が濃くなり、重たくなった。
 何かしようとしていると勘付き、シンリも立ち止まる。
「あれは……っ!」
 薄暗い森林の中で淡い光を放ち、辺りを照らす槍。
 光の正体は陽光などではない。間違いなく槍から放たれていた。
 放たれる光を見た瞬間、シンリの本能が全力で警鐘を打ち鳴らす。
 槍は長物の武器。だが、そんな槍の一撃も届かぬほど二人の間には確かな距離がある。今突きを放とうとも、決してシンリには届かない。だというのに、ルナリスは今にも一撃を繰り出さんとしている。
 今槍が届くのは精々、ルナリスの目の前に生えた一本の大木程度。
 角度としては、シンリとルナリスの対角線上に生えている。
「ま、まさか……」
 彼女が何をしようとしているのか察し、驚きと恐怖が込み上げる。
 踵を返し、がむしゃらに地面を蹴った。
 ルナリスは構える槍をさらに強く引き絞る。
 数瞬溜めた後、眼前を遮る大木に向けて全力で突きを放った。
「──裂鋼槍れっこうそうッ!」
 叫ぶ。
 耳鳴りが起きるほどの爆発音が轟いた。
 シンリは驚きのあまり立ち止まり、振り返る。
 ほぼ同時に、すぐ脇を大きな何かが猛烈な勢いで通り過ぎていった。
 続いて、これまた激しい音が、シンリの背後──横を通った何かの進行方向から鳴り響く。大きく重たいものがぶつかり合い、潰れたような破壊音。最後に聞こえてきたのは、静寂を嫌う木々が揺れて鳴る葉擦れの音。
 シンリは恐る恐る、その何かを見やる。
 飛び込んできた光景に言葉を失った。
「──へっ?」
 三秒を費やしてようやく発したのは、素っ頓狂な声のみ。
 途端に、シンリの身体が痙攣のように震え出す。
 シンリの目が捉えたのは、元々は大木だったと思われる物体だった。すでに原型を留めておらず、木片と化していた。よく見ると一部分だけが焼け焦げ、抉れている。
「何だ、今の……」
 恐怖で肌は粟立ち、汗が噴き出した。
「私の槍技そうぎよ」
 ルナリスの声に、シンリはゆっくりと振り返った。そこでまた驚く。
 木々で遮られていたはずのシンリとルナリスの間から障害物が姿を消し、二人を繋いだ道ができている。
 脇には道を邪魔しないよう、不自然に折れ曲がった木々がオブジェのように並んでいた。
「……そう、ぎ?」
 ルナリスと、彼女の前に広がる道、そして木片を、揺れる瞳で何度も見る。
 視線が何往復かした後、一つの感情が全てを支配した。
「それはさすがに駄目だって!」
 逃げるべく踵を返そうとする。
 しかし、シンリの足はすくんで動かなかった。草花が足に絡みついて離れないという錯覚に襲われる。実際に絡みついているのは草花などではなく、恐怖という名の死神である。
 動けない状況に恐怖が加速していく。
「ま、マジかよ!?」
 見開かれた目はルナリスに釘付けだった。身体どころか視線すらも動かない。
 ルナリスはシンリにゆっくりと近付いていく。
「降参しなさい」
 刃物を突きつけるような鋭い視線を放つ。
 その一言で──彼女の声で、わずかばかりの正気を取り戻した。
「……こう、さん?」
「ええ。降参すれば痛みすらも受けずに済む。この空間では、受けた傷は治ろうとも、痛みは本物だから。初めての貴方にとっては、きっと耐え難い苦痛だと思うわ。無駄に痛い思いはしたくないでしょう」
 淡々とした口調でそう提案する。
 シンリは黙って項垂れた。
 全てを諦めるように身体から力が抜ける。だが対照的に音が鳴るほど強く奥歯を噛み締め、首がテコでも動かないように力ずくで固定した。
 ルナリスは、彼が答えるのを黙って待っていた。
 今までの喧騒がまるで嘘のように、睨み合う二人の間に静寂が訪れる。
 沈黙を破ったのはたった一言だった。
「──嫌なこった」
 無理にでも笑みを浮かべ、拒絶した。
 ルナリスは眉をひそめ、唇の端を噛んだ。
「……どうして?」
「意地だよ」
「貴方にどんな意地があるの」
「ルナリスの間違いを正す。そのために俺はまだ逃げられない」
「……間違い?」
 訝しげな眼差しでシンリを睨んだ。
 シンリは頷き、彼女の顔を真っ直ぐ見つめた。
「シルファから二人の父親のこと、聞いたよ」
「──っ!」
 ルナリスの表情は一瞬で凍りつき、悲痛めいたものへと変貌していった。
 俯くルナリスは、綺麗な細く長い髪をくしゃりと握り潰す。
「だから──……」
「だから俺は──」
 言葉を続けようとした。
 だが、紡ごうとした言葉をルナリスの叫び声が掻き消す。
「だから! だから、あのときの私の間違いを否定し、正そうとでも!?」
 聞いただけで痛みが伝わるほど、痛々しい声だった。
 優しく、柔らかく、凛々しく、綺麗だったルナリスの顔が負の感情に塗り潰され、苦しそうに歪んだ。
 あまりの様相に、シンリは言葉と息を同時に呑み込んでしまう。
 ルナリスは間髪入れず、堰を切ったように叫ぶ。
「わかっているわよ! あのときの私の考えが、言動が、その全てが間違っていたなんてことくらい!」
 嵐のように荒ぶるルナリスは、まるで何かを強く否定して振り払おうとしているかのようだった。
 真っ赤に染め上げた表情は怒り、泣いている。
「ち、違うよ、そうじゃなくて──」
「うるさいッ!」
 シンリは慌てて続けるはずだった言葉を口にしようとしたが、ルナリスはそれを許さなかった。聞く耳を持たず、拒絶の言葉をぴしゃりと言い放つ。気迫のこもった怒鳴り声に、シンリは気圧されてしまい、吐き出そうとしていた言葉をまたしても呑み込んでしまう。
 怒気を孕んだ眼光でシンリを激しく睨んだ。
「もう手加減しない! 私は全力で貴方を──殺す!」
 ルナリスの感情は極限にまで高まっている。
 止めることは不可能なほどに。
「疾槍ッ!」
 槍を前に突き出し、その状態のまま駆け出した。
 再びシンリ目掛けて一直線に突き進んだ。
 全てを跳ね飛ばすような力強い突進。
 一瞬でも目を離せば、もう目で追えなくなるだろう勢いだった。
 シンリはまばたき一つせず、ルナリスの動きを見続けた。
 迫り来るルナリスから放たれている圧力は、先ほどまでとは比べものにならない。
 躱さなければ確実に死ぬ。
 だというのに、シンリは動かなかった。
 いや、動けないのだ。
 心に巣食った恐怖が再熱し、足を奪っている。
(やばいやばいやばいやばいっ!)
 死が確実に近付いていた。
「くそっ!」
 無理にでも動かそうとするが、やはり動かなかった。
 そうこうしている間にも、突撃してくるルナリスは迫ってきている。
 すでに距離はほとんど機能していない。
(どうする!? このままじゃ負ける──てか死ぬ!? あ、死なないのか)
 恐怖に支配されて思考が定まらない。
(そうだ! こんなときこそサクトゥスの能力! 何でもいいから、このピンチをどうにかしてくれ!)
 刀をより強く握り締める。
 当然、何も起こらない。
(ですよねぇ!? どんな能力かどころか、どうやったら発動するのかもわからないんだから! イメージか!? 出ろ炎! 出ろ水! 出ろ雷ぃ!)
 当然、何も出ない。
 何か条件でもあるのか、あるいは使い方がわからないだけなのか。
 どちらにせよ、今サクトゥスに頼っても無駄だった。
 タイムリミットが差し迫った瞬間、
「そ、そうだ!」
 どうにか妙案を手繰り寄せる。
「せー、のっ!」
 上半身を襲い掛かる槍先が触れないギリギリのところまで前に倒す。反動を使って一気に後ろへ仰向けに倒れ込んだ。
 ほんの一瞬遅れて、見上げるシンリの視界に槍が映る。
 回避が寸でのところで間に合った。
 だが、まだ終わりではない。ルナリスが放ったのはただの突きではなく突進。回避されても止まらずに駆け抜ける。寝転ぶシンリは、踏まれるか蹴られるかしてもおかしくない。
 衝撃に備え、身体を丸くして固く目を閉じた。
 しかし、いくら待とうが踏まれも蹴られもしなかった。
 それどころか、ルナリスが通過した様子もない。
 恐る恐る目を開ける。
 ルナリスが頭上で槍を突き出した状態のまま止まっていた。
 シンリは自分が立っていた場所に目を向けた。
 もちろんその場所は、ルナリスの槍が見事に貫通している。回避が間に合わなければ、身体のどこかに大きな風穴ができていたに違いない。そう考えるだけで血の気が引き、背筋を冷たいものが伝った。
 シンリは深く安堵の息を漏らす。
 
──ポタッ。
 
 不意に顔──額の上に、一粒の大きな雫が降った。
 わずかに震える手を伸ばし、雫だった液体に触れる。
 温かな感触が、指先から広がるように伝わった。
 シンリは降ってきた場所を見上げる。漆黒の瞳に映ったのは、陰ったルナリスの顔だった。雫が彼女の瞳から降ってきたものだと気付き、咄嗟に目を逸らす。
 ルナリスが泣いていた。
 静かに涙を流している。
 澄んだ大空のような輝きを持っていたはずのスカイブルーの瞳が、今は暗雲立ち込めるように曇り、雨のような涙が頬を伝っていた。
 ふと、また一滴、シンリの頬に落ちる。
「ルナリス……」
「──わかってるのっ!」
 力を失ったように槍が手から放れる。
 槍はシンリのすぐ隣に落ち、鈍い音を鳴らして地面に沈んだ。
 重りを失い、軽くなり過ぎた足取りで一歩二歩と後退り、涙を浮かべる顔を両手で覆い隠しながら空に向けた。まるで泣き顔を見られまいとするように。
 それでも止まらない涙は彼女の顔を、足元を濡らし続けた。
 ふと、雲が太陽を隠したのか、彼女の心情を表すように辺りが薄暗くなる。
「私が余計なことを言って……それが原因で……パパは死んだのっ!」
 力いっぱい張られた声は、声量や気迫からは想像できないほどに震えており、ひどく弱々しい。
「私の目は……嘘なんか見抜けないっ。きっとそんな力、私には初めからなかったのよ。だって……でなかったら、こんなことにはなってないもの……」
 堰を切ったように悲しみを吐き出すルナリスを、シンリは黙って見ていることしかできずにいた。
「国のみんなから、パパを──大事な王を奪ったのは……私。私が奪ったんだ。そのせいでみんな悲しんで、不安がって……全部、私のせい」
 堪え切れず、わずかに漏れ出る嗚咽。

 シンリは彼女の声を聞きながら、ゆっくりと立ち上がった。
 泣き崩れている今の彼女は年相応で、威風を感じさせる王などではなく、普通の女の子にしか見えない。
 それでもルナリスは、王であろうとした。

「私はその償いをしなくちゃいけない! 立派な王にならなきゃ……パパの代わりに王となって、勝たなきゃいけない! 私はもう、誰にも負けられないのっ!」
 溢れようとする涙を堪え、震えの止まらない手で槍を拾い上げる。
 弱さを振り払うように、再び構えた。
 先ほどまでの鋭さも、力強さも、気迫すらも感じられない。
 隠し切れない脆さが際立っていた。
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