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八、丘の上にて
しおりを挟む人形館をあとにして、僕らはさーやの二番目の家に向かった。
その家は小学校を挟んで反対側にあり、歩く距離としては一駅分くらいある。大人となった僕たちには苦でなくとも、当時は随分と離れてしまったと落ちこんだものだ。
日比野を先頭に歩いていると、彼女は唐突に足を止めた。「あのね」とおもむろに切りだし、全員の視線が向く。
「私は、さーやは生きてると思っているの」
希望のこもった声で、日比野は大事そうに口にした。
「どうして?」
何を根拠にそう強く言い切れるのか不思議だった。疑問を感じているのは僕だけではなかった。ずっと沈黙を続けていた高橋が心底分からないと尋ねる。
「そんな簡単に、人は死なないわ」
日比野は強気な口調で全員を見回した。
「私はそう考えてる。希望を持っている方が前向きにいられるでしょう?」
その言葉に、日比野へ対して肯定的な沢田でさえ迷いをみせる。
「これが最近のことなら、どこかで迷って困ってる、とか考えられるんだけど、七年も前の話なんだよなぁ」
沢田がぼそりと呟く。
さーやは人に心配をかけるような人間ではない。むしろ第三者に積極的に干渉されるのを嫌う。
だからもし未だにさーやが生きていると仮定して、僕らの前に現れないのだとしたら、今僕らがしていることはさーやにとってとても迷惑な事柄でしかない。そういうことを、日比野は理解しているのだろうか。
「あのとき、警察の見解を覚えているか?」
「いや?」と答える沢田に反して、日比野を何も答えなかった。僕は反応のない他の者を見渡してから続けた。
「あまりにも見つからないから、自殺の線を疑われたんだ。事件より現実的だ、なんて言う大人もいた」
自殺で片づけてしまった方が、都合がよかった人間がいた。
親身になって捜索をした者は多かった。この平和な町で未成年の行方不明事件はショッキングだった。警察だけではなく、幼い頃からさーやを知る近所の者も、学校の教師も、みんなが一同になって町を探し回ったのだ。
捜索が打ち切られた最大の理由は「時間」ではなかった。
さーやの身内である父親がこれ以上の捜索はいらないと言ったのだ。「うちにはこれから受験生の娘がいる。これ以上周囲をうるさくしたくはない」と。
さーやは、いつも一番最初に切り捨てられてきた。
「日比野は自殺の線はないって、言いたいんだろ?」
「絶対、ないわ」
日比野が断言すると、隣を歩く沢田が尋ねた。
「だったら日比野さんは、一体どこにさーやがいると思うんだ?」
「それが分かれば苦労しないわ」
泣きそうに呻(うめ)く日比野に、問いかけた沢田が動揺する。何かフォローしようと躊躇(ちゅうちょ)して、結局のところ何も言えなかった。
「今度は沢田に聞くよ」
視線を向けると、沢田は日比野を気にしながら「おう」と答えた。
「俺も生きていてほしいって思う。でも、あの(、、)さーやが七年も俺たちの前に現れないなんておかしいんだ。だから……」
言葉を濁したのは日比野に対する配慮か、それとも自分自身がその可能性を否定したいからか。
「三崎は?」
僕の隣に立つ高橋の、さらに後方を歩いていた三崎に問う。
三崎は暑さを感じさせない涼やかな顔で、これまたあっさりと言った。
「私たちが知れることなんて本当に少ないのよ。だから、言えることは何も、誰も、分からないということだけ」
元同級生が知ることのできる情報は、きっと一番近くにいた僕より少ない。そのないに等しい情報量で、推理することは難しい。これは最初からたられば(、、、、)で、仮定の話でしかないのだ。
「もし、生きているとして――」
四人の視線が僕に集まる。
「生きてるわよ!」
力強い日比野の否定を無視して話を進める。
「さーやは一体どこにいるか」
同じ問題に、日比野と沢田は固まる。今までの期間、当時中学二年生だったさーやが一体どこに行けるのかと。
「常識的に、客観的に今の状況を考えるなら、七年見つからない時点で死んでいるだろうね」
僕の問いに答えたのは、他人事として興味を示さなかった高橋だった。誰も言葉にしなかったことを、高橋ははっきりと口にした。それを受けて僕もあとに続く。
「事故にしろ、事件にしろ、僕たちができるのは思い出を辿ることだけだ。それをしたからと言って、今更あいつが見つかることはないし、ただ虚しくなるだけだ」
「分かってる。分かってるわよ!」
事実に近いことを叩きつけられて、とうとう日比野は泣いてしまった。感情が高ぶると泣いてしまう癖も治っていなかったようだ。
「分かってるの、そんなことは! そんな正論はいらないの。だけど、願ったっていいじゃない? いつまでも、いつまでも帰ってきてくれるって、望んだっていいでしょう!」
顔を隠して泣きだした日比野を見て、沢田は反射的に肩をビクッとさせた。ハンカチを探すが持ち合わせがないらしく、おたおたしている姿が何ともおかしかった。
自身の手持ちのハンカチを握りしめながら、日比野は僕を睨む。
「お願いだから、もうちょっとオブラートに包んで言ってちょうだい」
「……悪い」
人それぞれ神経は違うのだから、逆撫でするような言葉は慎重に選ばないといけないと反省する。
「全国に行方不明者がどのくらいいるか知ってるか?」
沢田が首を横に振る。
「年間で約九万人だ」
警察庁が正式に発表している行方不明者数は、分かっているだけでもかなりの人数がいるのだ。
「そんなに?」
「多くは発見されるなり解決するなりしてるけど、見つからない者は見つからないままらしい」
さーやもその内の一人で、民法に沿えばすでに時効なのだ。
当時、もう一つの見解は、他者による殺人の可能性。
一番に疑われたのはさーやの家族で、そして最も関係が深かった僕や僕の家族だった。僕の家族は夜中や早朝以外は仕事で表に出ているというアリバイがあった。僕も未成年だったこともあり、詳しく掘りさげられることもなく、聴取を受けるだけで済んだ。
さーやの父親は第三者によるアリバイがあり、母親は遠方に赴任中だったためこの町に来ることは困難だとされた。
それぞれに確実な証拠と言えるものがなかったため、他者による犯行という線は次第に消えていったのだ。
さーやは見つかりたくないと言わんばかりに、その姿を誰にも掴ませなかった。
事件について、未成年だった者たちは納得できない思いを受けいれるしかなかった。
本日二度目の沈黙が下りて、居心地の悪さを感じながら歩む。さーやの二つ目の家へと辿りつくまで、僕たちは誰も口を開かなかった。
段々と日が暮れてきて、真っ赤な夕日が空を埋め尽くしだした頃に目的地に到着した。
二軒目は以前と変わらずそのまま残っていたが、今は別の住人が暮らしているようだ。中堅の一軒家からは、小さな子どものはしゃぐ声が聞こえてくる。
「懐かしいか?」
日比野に尋ねると、彼女はしおらしくも「うん」と頷いた。
「私はさーやと二人で、たいてい家で過ごしていたの。お母さんが子どもだけで外へ遊びに行くのを嫌っていたから。だからあまり、外のことは知らないのよね」
「厳しいお母さんだったんだな」
沢田がそう言うと、日比野は苦笑いをして否定した。
「過保護なだけよ」
その謙遜ともとれる台詞に、様々な意味が含まれていることに気づいたのは僕くらいだろう。
僕がさーやと放課後に遊んだという記憶が薄いのは、日比野が横やりを入れたからだ。さーやと話したくてもいつの間にか邪魔をされて、曖昧になったことは一度や二度ではなかった。
それでも僕は日比野が嫌いだったわけではない。それは日比野の行動理由を知っていたから。
「さーやはきっと、私と遊ぶより一織と遊びたかったでしょうね」
ぴりぴりとした皮肉が込められているのを感じる。どう返したところで、日比野にとっては不満でしかないのは明白だ。
「そんなの、あいつに聞かなきゃ分かんないだろ」
「分かるわよ、女の勘!」
さっさと日比野は歩きだしてしまう。僕は溜息を一つ吐いて、数歩離れて付いていく。
「結局、さーやと会ったのは私の方があとだから、一織に勝てないことなんて分かっているのよ。それでも一番になりたいって思うじゃない。特別になりたいって思うじゃない。あの子のそばに長くいたのは、最後にいたのは――私のはずなのに。何であなたなのよ!」
こちらを振り返らず歩き続けたまま、怒気のこもった声色で日比野は一方的に文句を続けた。
さーやに対する不満なのか、僕に対する理不尽な怒りなのか判別がつかない。
昼頃に始まった『思い出探し』は、それなりの時間を経過していた。空は夕日の赤で彩られている。絵画のような雲と空の段々が、どこか寂しげで、物悲しい僕らの心情を演出しているかのようだった。
日比野のうしろ姿を追っていくと、地面が斜めに傾いていく。少し息が上がるほど、小さな丘の頂上まで来ると、町を一望できる広場に到着する。ちょうど夕日が西の空に沈むところで、眩しい光の線が目を焦がした。
広場に入ると日比野はベンチに乱暴に座る。その横に高橋が静かに腰かけた。三崎は広場と崖の境の柵の前に立って景色を眺めている。
丘を登り切ると、喉は乾き切っていた。僕と沢田は近くの自動販売機で冷たい飲み物を買いに行く。
「三崎に渡してもらってもいいか」
「ああ。いいぜ!」
この短い一日で僕と日比野の複雑な関係を少なからず察していた沢田は、僕を置いて三崎のもとへと走っていった。
僕は黙って日比野に近寄る。色白の肌に夕日の色で染めあげた顔の前に、冷たいペットボトルを傾ける。何も言わない僕に対して、日比野は居所が悪そうに体を揺らした。
「別にあなたのことが嫌いなわけじゃないの」
そう言って飲み物を受けとってもなお、日比野はきつく口元を噛む。
「分かってるよ」
「本当に分かっているのかしら? だって私、ずっといやな奴じゃない」
自覚があったことに驚きつつ、僕は否定も肯定もしなかった。
むっつりとした顔で黙りこむ日比野。僕らに放射線状に照りつける赤が僕の心を切なく締めあげる。
「ここで終わりにしよう」
そう話しかけることで無言のときを終わらせる。
「今日一日で、何か収穫はあったか?」
日比野は悩むように目線を落とした。
「それなりに、ね。私の知らないさーやがいたことは分かっていたつもりだけど、結構こたえるわね」
疲れた様子の日比野が息を長く吐くと、音を立ててペットボトルを傾けた。
僕もまたキャップを開封する。冷たい飲み物が乾いた喉を一気に潤していく。夏の暑い日差しの中を歩き通しで、体中が水分を欲していた。
時間にすれば短い『思い出探し』だった。
夕日は純粋な色のまま、僕らを照らす。ほんのりと温かな色が、心に浸透し、味わい深く感じる。
眩しそうに眺めながら、日比野は懐かしげに語った。
「ここ、私とさーやのお気に入りの場所だったの」
思い出の一つを彼女は大切に取りだす。見せびらかすわけでもなく、優越に浸るためでもなく、こぼれ出る幸せな記憶を手の平で受け止めるように話していく。
「家から近かったし、何より夕日が綺麗でしょ。でもあんまり見過ぎるとすぐ夜になっちゃうの。急いで家に帰るんだけど、結局お母さんに怒られちゃって」
そのときになって、僕はようやく日比野の中にもさーやが生きていたことを実感した。僕の傲慢さは確かなものでも、日比野とさーやにだって、二人だけの過ごした時間があったことに違いはない。
「さーやはこの景色を、いつかあなたにも見せたいって言ってたわ」
日比野は半分以下になったペットボトルの中身を揺らしながら、しばらく夕日を眺めていた。
「――好きだったのよ」
ビー玉が転がるようにこぼれた言葉は、とても禁忌めいていて、美しい響きを持っていた。
「私、さーやのことが好きだったの。本気だったのよ」
もちろん恋愛的な意味でね、と日比野は自嘲するように笑った。
「さーやの意思を無視すれば、結婚できないこともなかった。さーやだけが、うち(、、)では本当の家族じゃなかった。そういう扱いだったから。だからこそ、私と結婚したら、本当の、家族になれると思ったの。……けど、こんな嫉妬で狂う女を、さーやが好きになってくれるはずないわよね」
自虐する日比野に、僕は即座に訂正を入れる。
「さーやは、日比野のことが好きだったよ。それは、恋愛的ではなかったとしても」
否定した言葉を、日比野は夕日と同じように眩しそうに見つめてくる。
「慰めるのね。変だって、おかしいって言わないの? 気持ち悪いって罵らないの?」
「思わないよ」
日比野は心の奥底で、ずっと恋心に苦しんでいた。その苦しみは日比野にしか分からない。恋という、時に激しく、時に儚い感情を、他人の僕が否定していい理由はない。
「日比野があいつを好きだったこと、僕は知ってたよ」
そのとき初めて、今日の日比野と目が合った気がした。黒い瞳が大きく開き、そして細く閉じていく。
「日比野は僕に、あいつを取られたくなくて、いつも必死だったから」
きっと、それは今でも。
そして、それは僕もまた同じだ。
ぽろりと真珠のような涙が、日比野の頬を伝って一粒だけ地面にこぼれた。告白したことで気が抜けたのか、日比野はベンチの背もたれに全身を預けた。
「なんだ。そこまで分かってたんだ。そうね。あからさま過ぎたものね」
日比野は綺麗な顔で笑い、そして苦しげに歪めた。
「――ずるいわ、一織」
小さい頃、さーやと二人で遊んでいると、必ず日比野が割りこんできた。
僕はさーやのことなら何でも分かっている気がしていたし、さーやも僕に対してそう思っていた。それが日比野にとってはずるく思えて、許せなくて、切なくて、置いてきぼりにされたようで溜まらなかったのだろう。
「私はさーやが好き。だから絶対、さーやのことを諦めたくないの」
私が見つけてあげたいの。日比野はその長い睫毛を伏せてしっかりと言った。
夕日が町の向こうの山に沈んでいって、一瞬にして丘の上の街灯が点灯する。それを合図に僕らは帰り道を辿ることにした。
群青色をさらに濃くした空の下、日比野は少し赤くなった目元を瞬きながら、「今日はありがとう」とかすれ声で言った。
気丈に振舞う日比野の姿は、健気でいじらしかった。日比野を励ますように、沢田が声を張りあげる。
「なあ中学も行かないか?」
「中学?」
「一年のとき、タイムカプセルを埋めたんだ。あのとき、さーやも手紙を入れてたはずだ」
今こそ掘りだすべきだと沢田は強く主張した。
「今日はもう暗いぞ」
「なら明日だ! みんなは明日何か予定はあるか?」
私はないわ、という日比野の声に続いて、三崎も僕らも頭を横に振る。
「なら、また集まろう! カプセルを掘るぐらいならそんなに時間はかからないから、午後三時ぐらいに集合でどうだ?」
反対の意見はなかった。いや、反対の声を上げる空気ではなかった。
また明日も集まるのか、と気を落としていたのは、高橋にしか気づかれなかった。慰めるように高橋は僕の肩を叩いて、お疲れ様と言う。
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