神様の愛と罪

宮沢泉

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最終話 神様の愛と罪

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 蓮華に心のうちからこっそりと、陽治郎は呼びかける。

 出会ったときの気弱さはほど遠く、余裕に満ちた状態の彼女。上がった口角は、いつもよりも大人びていて美しかった。

「遅いですよ、陽治郎さん」

 一言だけ諫められ、体の支配権が陽治郎に移る。年下にたしなめられたと恥じながら、陽治郎は「ありがとう」と礼を口にした。

 話がしたい目的の相手を探す。探すとは言っても、相手はおそらく居間にいてくれているはずだ。ドキドキと波打つ鼓動を押さえ、居間を覗くと、定位置に相手はいない。だが、誘うように縁側に続く障子とガラス戸は開かれていた。

 月夜に照らされた縁側に顔を覗かせると、猫神様をなでながら月見をしている紫がいた。先に姿に気づいた猫神様は、ぼってりと太い尻尾を一振りして、蓮華の脇を過ぎていった。気を使ってくれたのか、いつもの太々しさからは思い描けない空気の読める行動に、思わず苦笑してしまう。

 蓮華は足音を立てず近づいて、紫の隣に腰かけた。紫はまったくこちらに視線を向けなかった。

「いつから気づいていたんですか?」

 蓮華の甘く高い声。陽治郎とはまったく異なる少女の声だ。しかし、これは陽治郎の言葉。後見人と被後見人の会話ではない、かつての友との対話だ。

 紫は月を見つめたまま、声を発しない。張りつめた糸に耐えるような顔をしている。発することをためらっているのか、だいぶ息をためてから、吐くと同時に答える。

「最初から、さ」

 そう、最初から。陽治郎が紫を友だと認識したときから、お互いに通じ合っていた。

「おまえが蓮華さんの中にいると、一目で分かった」

 陽治郎が嬉しさをにじませると、体を借りている蓮華の頬も柔らかく持ちあがる。

 紫が決して蓮華に対しては使わない、ぶっきらぼうな話し方。昔の紫は優しさよりも、威厳の方が勝っていた。下々に話してやっているという態度は、時を経て軟化していったらしい。

 かつての友と話すとき、言葉遣いは逆戻りしてしまうのか、その変化が陽治郎はいたく尊いもので歓喜に震えた。

「言ってくれればよかったのに。言ってくれれば、私だって――」

 言っただろうか。いや、告げなかっただろう。

 この世は、この体は蓮華のものだと、最初に片意地張ったのは陽治郎の方だった。

 陽治郎は蓮華の体で、友と再会する気はなかった。子どもたちを身勝手にも託してしまったと負い目があり、呪いを与えてしまったと思ってからはなおさらに。

 それに、猫神様から知らされた真実に、戸惑ってしまったのは事実だ。蓮華と入れ替わるように奥底へ隠れたとき、陽治郎には紫と顔を合わせる覚悟はまったくなかった。

 その覚悟を抱かせたのは、はるか未来を生きる少女。寺坂蓮華だった。

 意気地なく奥に隠れているときも、陽治郎はずっと蓮華の行く道を見ていた。蓮華がずっといたいと感じる居場所ができたことも、一度は明日香のところに身を寄せる選択をしたことも、陽治郎は蓮華の中で見守っていた。

 蓮華が前を向くと決意したからこそ、陽治郎の考えも改まる。他人の言葉でいつまでも怖じ気づいているべきではないと、蓮華が陽治郎にそう思わせてくれた。

 陽治郎にとって、蓮華が守るべき子どもたちの子孫だったから、彼女に深入りしているのだろうか。

 いや、それだけではない。子孫だと気づく前から、蓮華のために代わりになって行動してやろうという気があった。

 まだか弱い子どもだから?

 父を亡くして可哀相だから?

 それはあとづけに過ぎない。陽治郎は蓮華に最初から惹かれていたのだ。彼女の持つ可能性に、目指す先に、陽治郎の求める答えがあると、無意識にも察していたのだ。

 陽治郎はもう、紫から目をそらさないと決めた。

 今でも陽治郎は紫のことが大好きだから、彼の口から真実が知りたかった。

 ――だから、そのような恐れを抱いた目をしないで。

 紫はいつも余裕のある顔をする。【悪縁】のもやに囲まれたときも、身を拘束されたときも、なんてことのないたやすい状況だと言わんばかりの、泰然とした態度を見せる。

 この、大人に自身の悪事を明かす子どものような顔は、きっと陽治郎にしか見せないもの。怒られないかな、嫌われないかなと探るような目。

 緊張した肩をそっとなでてやると、いっそう体は固まっていく。儚く消えてしまいそうな、泣きそうな顔をしないでほしいと陽治郎は願った。

「伝えるべきことが、あるんじゃないですか?」

 優しく聞こえているだろうか。責めたように聞こえてないだろうか。陽治郎は慈しみの目を向けた。

 紫は陽治郎の方を見られないまま、閉じきっていた唇を震わせながら開いた。

「おまえは知らないから。おまえは、私がおまえを殺したことを、知らないままだったから」

 ――やはり、私を殺したのはあなただったのか。

 真実を知ってしまえば、どうってことはない。裏切られたと、嘆くつもりもない。

 陽治郎の愛した友は何の理由もなく、人を殺す神ではなかった。

「どうして、私を殺したのですか?」

 わざと病魔を引き寄せ、陽治郎を患わせた。陽治郎は何も知らず、子どもたちに看取られて亡くなった。

 紫はなぜ友を殺したのか。陽治郎は知る資格があった。

 月の光に照らされた横顔は、いつもの白にまして青白い。そのまま泡になって消えてしまいそうだ。今にもかき消えそうな神に、陽治郎は手を伸ばす。

 そっと紫の右手に左手を乗せると彼は驚きをみせる。見開いた目をくしゃっと細め、懺悔のように告白しだした。

「神でいることに、疲れていた」

 長い時を生きる神という存在に、絶望していた。

「不老不死の体、過ぎ去っていく日々、移ろう景色の数々。どれも、私には過ぎたものだった」

 ぽつり、ぽつりと紫は語る。昔、友にも語らなかった、隠していた秘密を明らかにしていく。

「ひとりが寂しかった。神はほとんどが曲者ばかりで、感情を大切にする私と相反する存在だった。人とは同じ時間を生きられない。声をかけるのをためらっているうちに、どんどん人は死んでいった」

 それはどれほど、悲しい現実なのだろう。陽治郎の想像できる悲哀では太刀打ちできないほど、はてしない衝撃にちがいない。

「寂しかった。途方もない時の間、恐ろしいほどの寂しさを抱えて生きてきた。――そんなとき、陽治郎と出会った」

 何も知らない、ただの人と出会った。

「陽治郎と友になり、寂しさは薄れた。しかし、人を知ることで、寂しさは止まらなかった。人とは違う時を生きている事実は変わらない。私を置いて死んでしまうおまえたちが、ひどく恐ろしい存在に変わった」

 陽治郎も寂しかった。かけがえのない友を一人置いて逝く寂しさと悲しさを抱いた。遠く長い未来を生きる友の幸せを願って死んだ。

 紫は一拍置いて、喉を絞るかのように言葉を発した。

「陽治郎が好きだった。陽治郎を失いたくなかった。陽治郎のいない時を、二度と過ごしたくはなかった」

 陽治郎が紫を大切に思っていたように、紫もまた陽治郎を大切に思っていた。閉じこめて、死なせないようにしたかった。

 ――ああ。だから、あなたは私を殺したのか。

 目のふちに涙が溜まっていく。

「だから、退けていた病魔を呼び寄せた。陽治郎を死に至らせ、魂を神の世界に連れていこうと考えた。ひとりはいやだ。悲しいから、寂しいから、陽治郎だけをともに連れていこうとしたんだ。陽治郎は優しいから、私についてきてくれると思った」

 きっと当時、紫に本当のことを話されていたら、陽治郎は子どもたちの全員の処遇にけじめをつけて、神の世界へともに行く道をたどっていただろう。

 陽治郎の願いは、友をひとりにしたくない。ただそれだけだったのだから。

 だが、陽治郎と紫はすれ違った。思いが同じなだけに、交差して過ぎ去ってしまった。

「陽治郎は死の間際、私に託した。子どもたちを見守るようにと」

 陽治郎は神様に託した。

 子どもたちを、その子孫を守ってくれと。

 子どもたちに、陽治郎は託した。

 心優しい神様がひとりぼっちで悲しくならないようにと。

 それは呪いとなり、紫は陽治郎を神の世界に連れていくことはできなかった。

「私は、己を恥じた。自身の欲だけで、最上の友を殺してしまった」

 大粒の涙が紫の頬を伝う。

 ――なんて美しい涙なんだろう。

 陽治郎は紫の頬に手を添え、そっと自分の方へ顔を向けさせた。

「私には、陽治郎の友を名乗る資格がない」

 長いまつげを揺らして、大粒の涙がまたぽろりと落ちる。添えた手を伝って流れていくしずくが、月の光で輝いている。

 友の資格がないと泣く神様は、この世のものではないと一目で分かってしまうほど美しかった。

「神様」

 静かに、抑えた声で呼びかける。何度も彼のことを呼び、目を合わせたかった。

 神の中の頂点である天帝は、友に殺された陽治郎を哀れに思い、蓮華の体に魂が入るよう仕向けたのかもしれない。人間である陽治郎には真実は計り知れない。

 天帝の示した命運の通り、陽治郎と紫は再会した。数百年後の未来で、陽治郎はようやくこの言葉を送れるのだ。

「私は、あなたを許します」

 閉じられていたまぶたが、ゆっくりと持ちあがる。綺麗な宝石のようにきらめく目が、陽治郎を射抜いた。

「あなたの孤独を救ってやれなかったことが、私の罪です。私は、私の魂は、神様のものだ」

 陽治郎は友を愛している。蓮華がずっとそばにいたいと願ったように、陽治郎もまた、友とともに生きたかった。

 命は尽きてしまっても、魂は変わらず、最愛の神のもとへ帰ってくる。陽治郎が、蓮華の身を借りて帰ってきたように。

「これからは、いえ、これからも。あなたとともにあると約束します」

 今度こそ神様をひとりにしない。目の前の感情をさらけ出すように泣く、陽治郎だけの神様。

「おまえは、本当に――」

 どうしようもないものを見るように目を細めるが、口もとは喜びを耐えられないとばかりに和らいでいく。

「私たちはひとりでは生きられないから。だから、誰かを求めてしまう。それは神様だって、同じでもいいでしょう?」

 人を愛してくれる神様。人ではない神様も、人に愛される資格があっていい。

 陽治郎は必ず紫のそばにいる。そばにいたい。そばにいさせてほしい。

 ――だからどうか。この願いを聞き遂げて。

 陽治郎は優しく紫をかき抱くように抱きしめる。迷いながらも震える手が背中に回った。もう、離れることはできない。

 ひとりぼっちの神様は、ようやくひとりから解放された。





 縷々(るる)、連綿と、縁は続いていく。





                        【完】
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