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第二十四話 ここで生きる
しおりを挟む息を深く吸って、深く吐く。蓮華は腹筋にぐっと力を入れて、受話器に手を伸ばした。
電話口で名乗ると、相手先から息を吐く間があった。いつも怒っている印象の強い明日香に反して、か細い吐息だった。
すぐあとに「どういうことか」と烈火のごとく叱りつける詰問が待っていたが、蓮華の心はどこかすっきりしていた。明日香はまだ、娘を心配する心があるのだと、嬉しささえこみ上げた。
突然、自室から消えた娘を、明日香はどう捉えただろう。現実的な彼女は蓮華が神の世界に足を踏みいれ、神の通る道を渡ったとは到底思いつかないはずだ。説明したところで受けいれてはくれないと分かりきっているため、家出を決行して紫の家に戻ってきたと言い訳した。
「ごめんなさい、私はお母さんの理想とする子にはなれない。私のペースで生きていきたい。ここは、紫さんのところは、私の呼吸と合っているの。息がしやすいの。だから、こっちにいさせてほしい」
ずっと言えなかった思いを口にする。
明日香は電話の向こうで黙っている。呼吸音さえ聞こえない静かな空気に、蓮華の背筋に冷や汗が伝った。
遠くで右白たちが遊んでいる声がする。夕食を作って嵐が帰ってしまったため、彼女たちの騒ぎ声を嗜(たしな)める者がいないのだ。楽しそうな声が蓮華の心を落ちつかせた。
はあ、と深いため息が耳に響く。失望のため息だった。冷たい声音が機械を通して蓮華に届く。
『あなた、いつか身を滅ぼすわよ』
言われるだろうと思っていた。蓮華は唾を呑みこんだ。
大丈夫、と心の中で勢いをつけると、手首に巻かれた組紐が、体温よりも高く熱を帯びる。陽治郎の存在を感じとった蓮華は、背を押されて口を開く。
「うん。それでもいいの。自分で決めたことだから。そうならないように、ここで穏やかに生きるよ」
言いたいことを言って、蓮華は達成感で満ちていた。自分の思いを偽らずに、伝えられたことを誇らしく感じている。
再び、明日香に失望のため息を吐かれても、自信を抱いた蓮華は怖くなかった。
『……そういうところ、本当にあの人にそっくり』
蓮華を通して亡き夫を思い浮かべたのか、明日香は吐き捨てるようにつぶやいて、すぐにぴしゃりと蓮華の決意への返答をする。
『好きにしなさい』
近いうちにもう一度紫の家に手続きをしにいくと、連絡事項だけを伝えて、切りあげるかのように明日香は電話を切った。プー、プー、プーと鳴り響く通話が終わった音を静かに聞く。
思うままに発言できたと喜ぶ半面、蓮華の中にひとつの反省が浮かぶ。もしかすると、話をしてこなかったのは蓮華自身かもしれない。聞いてもらえないと、最初に遮断したのは蓮華の方だったかもしれない。
今考えてもしかたのないこと。明日香と平和に暮らす日常がありえたかもしれないというのは可能性の話だ。
蓮華はゆっくりと受話器を下ろし、定位置に戻す。がちゃんと置いた大きくも小さくもない音で、蓮華の心は切り替わる。
蓮華は選択した。前を向いて歩くと自分で決めた。
この優しい地と人と神となら、蓮華はまっすぐに進んでいける。蓮華を追いかける暗闇の気配はもうどこにもなかった。
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