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第二十二話 帰りたい
しおりを挟む青葉の葬式に顔を出さなかった明日香に対して、蓮華は深く考えを巡らす余裕はなかった。ひとつだけはっきりとしていたのは、自分は母親に捨てられたという事実だ。
予想外に蓮華を身ごもって、明日香は一度夢を諦めたと聞いたことがある。青葉も率先して話そうとしなかったため、断片的な内容だった。その途切れる欠片の中で、明日香は青葉や蓮華を恨んでいるように見えた。
夢を叶えられなかったと根に持ち、明日香は青葉に強く当たった。家族の不和の原因は最初からあった。
矛先はもちろん蓮華にも向いた。蓮華が物心ついたころ、明日香は生活のすべてを強制した。明日香自身が能力の高い人間だったため、娘である蓮華もできて当然だと押しつけた。
学習だけでない。礼儀作法も言葉遣いも、考え方、感じ方でさえも、明日香の教えを強要した。
蓮華は昔から真面目な子だったから、母親の言いつけ通りにこなした。だが、年齢の幼さゆえに無理なことは出てくる。食事を決まった時間内に食べ終えられなかったり、制限されたトイレの使用回数を守れなかったりと、幼児ならしかたのない範囲だ。
明日香は言いつけを守らなかったと𠮟りつける。怒鳴って、頬を叩いて、しまいに中からは開かないクローゼットに閉じこめる。
クローゼットの中は完全に閉められると真っ暗になって、外の音もはっきりとは聞こえない。光の届かない空間で「ごめんなさい」と泣き叫んでも、扉を叩いても、明日香は許してはくれなかった。
泣き疲れると、恐ろしさが近づいてくる。このまま誰にも見つけてもらえないまま、自分は死んでしまうのではないか。暗闇から、もっと怖いものが現れるのではないか。
恐怖は無限にふくらんで、消そうとしても湧いて出てくる。体を抱いてうずくまって、必死に恐怖を絶える。長い時間、真っ暗な闇の中で。
どれほど時間が経ったか分からないころに、声と認識できる音が近づいてくる。がらっと音を立てて、まぶしい光が暗闇にそそがれる。
「蓮華、大丈夫か?」
大好きな父親の顔に、蓮華の心はほっと安堵して、心細かった時をごまかすように抱きついた。どれほど泣きわめいても、青葉は蓮華を抱きしめてくれた。その温かい感触に、蓮華は再び安心をたしかにするのだ。
明日香のしつけは、一度や二度ではない。彼女にとっては正当なしつけをしていたつもりだったのだろう。幼い子に恐ろしい心の傷を作っていると、想像できなかっただけ。
ゆえに、青葉は離婚を選択した。
当初から目指していたスキルアップをしたいがために、明日香は蓮華の親権に執着しなかった。
青葉は蓮華を愛していた。蓮華も怖い思いをさせる母親よりも、父親を愛していた。明日香と離れて暮らすと聞かされても、蓮華は特別寂しいと泣かなかった。
年に一度だけ、明日香と会う機会が設けられる。そのときも明日香からは「勉強はしているのか」「将来は考えているのか」と詰問されるだけで、意見を言うのが得意ではない蓮華にとって酷な時間だった。
蓮華を自身の娘と認識はあるものの、親子の関係性は薄い。だからこそ、わざわざ田舎の地に迎えにやってきた明日香に、蓮華は驚きを隠せなかった。いまさら世間体を気にしているのか、と勘繰ってしまうほどに。
蓮華は明日香に何も期待していなかった。葬儀にも来なかった明日香に、蓮華は何も求めていない。愛されたかった心も、すでに遠い昔に置いてきた。それこそ、あのクローゼットの闇の中に。
だが、蓮華は明日香の保護下に入った。
血のつながりのない紫のもとにいるよりも、よほど道理がかなっている。そう思いこもうとして、繰り返し思い直して、頭に浮かぶ思いはひとつだった。
帰りたい。
それはいったいどこを指しているのか、蓮華は分からない、と心の中で嘘を吐く。
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