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第二十一話 同じ机の前
しおりを挟む「蓮華が大変お世話になりました」
玄関で迎えた母親の明日香とは、蓮華にとって久しぶりの再会だった。二年前に会ったときより、少し老けたかもしれない。ずっとこういう顔だった気もするし、そうでなかったようにも思える。
間違いないのは、まっすぐに伸びた背筋と、きつく上がった目もと。今では蓮華と変わらない背丈も、幼いころは見あげるほどの高さだった。高い位置から吊りあがった目でにらまれたら、蓮華の体は一瞬にしてすくんでしまうのだ。
「いえ、蓮華さんにはこちらの方が助かっていましたよ」
隣で和やかに返答する紫に対しても、明日香の真顔は崩れない。
「こちらのことは元夫の親戚の者から連絡をいただきまして、長らく失礼をしてしまい申し訳ございませんでした」
手本のようなお辞儀をする明日香からは誠意が感じられる。三か月もの間、元配偶者の死を知らなかった者の態度とは思いがたい。
「立ち話もなんですから、どうぞ中へお入りください」
「失礼いたします」
紫が体をそらして案内をすると、明日香は目礼をしてから家の中に足を踏みいれた。
端に寄った蓮華に、明日香はすれ違いざまに一言かける。
「お話をしてくるから、あなたは荷造りを済ませてきなさい」
親子の再会による初めての会話とは思えないほど、至極あっさりとした声かけだった。蓮華は蚊の鳴くような声で「はい」と返事をする。
明日香を連れて居間に向かう紫の姿が見えなくなってから、蓮華はようやく動くことができた。廊下に残った鼻につく香水が、温かいこの家を汚染していくようだ。
鉛を背負う心地で階段を上りきる。平坦な手すりの上には猫神様が座っていた。
「行くのか」
断定の聞き方に、蓮華は押し黙る。表情まで取り繕うのは難しく、不機嫌を全面に出した顔つきになる。
「行くのか」と問われると「行かなければならない」と答えるしかない。「行かない」という選択を未成年の蓮華は取れない。実の親が引きとると名乗りを上げればその道しかないのだ。
都合がよかったかもしれない、と強気に考え方を改める。陽治郎は深く眠りについて表に出てこない。紫にもずっと一緒にはいられないとはっきり断られている。これ以上そばにいるのは、蓮華も可哀相だと運命の歯車が決めたのかもしれない。そう思うことで、思いこむことで、蓮華は何度も繰り返し気を取り直す。
最後だと思うと、猫神様に聞きたかった事柄を思いだした。ファニーフェイスな猫神様に顔を寄せ、抑えた声でたずねる。
「猫神様は、どうして私に……ううん、陽治郎さんに、紫さんの秘密を教えてくれたの?」
猫神様は器用に片目だけ開けてみせ、品定めの目を向ける。口もとを持ちあげると尖った白い牙が覗いた。
「紫は自分の罪を告白することはないだろうからな」
さも面白いと言うようにニヤニヤしてみせる。
「あやつは格好つけだからなあ。自身の失態をわざわざばらす真似をせん。だが、陽治郎は知る必要がある。知る権利がある」
猫神様は名の通り、存在の通りの『神』の威厳を持つ。丸いフォルムでありながら、放たれる気はうかつに手出ししていいものではない。
「それからどうするかはあやつら次第。わしは同じ机の前に座らせたいだけだよ」
同じ机。ともに食事をするための、会話をするための、対面するための、机。それは比喩でありながら、陽治郎と紫に必要な場でちがいなかった。
「おまえさんは、まだ一緒には座れないんだなあ」
「え……」
ぼやくように、噛みしめるように猫神様は言った。
「母親と、紫と、そして陽治郎と。座るか座らないかは、おまえさん次第だぞ」
蓮華は猫神様と見つめ合った。お互いの目が、お互いの顔しか見えない。体の支配権は蓮華のままにもかかわらず、口は少しも回らない。頭が真っ白になったのか、蓮華はわざと視線をそらし、うつむく。
蓮華はまだ、答えを決めかねていた。
猫神様に自分次第と言われたあとも、少ない荷物を段ボールにすべて入れ終わったあとも、紫と別れの挨拶を交わす間際になっても。
「蓮華さん、荷物はあとで全部送るね」
「……お手数をおかけします」
「君との生活は、彩りが増して楽しかったよ。また遊びにおいで」
紫は今、どのような顔をしているのか。見あげる勇気はなく、社交辞令に返事をすることもできない。
明日香によって強引に頭を下げさせられ、蓮華は約三か月過ごした紫の家を旅立った。
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